わたしはあなたがたを友と呼ぶ

 ヨハネによる福音書15章15節で、イエスは私たちを友と呼んでいます。神の子イエスが私たちの友だちです。これはすごいことですね!
 友だちとはどういう存在でしょうか。友だちと聞くと思い出す話があります。私が中学1年生の頃、担任の先生が「環境は人を作る。友だちは人を作る。」というようなことをおっしゃっていました(他にもあった気がしますが・・・忘れました)。聞いた時はこの言葉をあまり気に留めていませんでしたが、後になって「本当だ!」と実感したことがあります。それは中学校3年生の時です。それまで私はテストの成績が高い方でした。どこでその噂を聞いたのか、3年生になって初めて同じクラスになった人が、「あなたを目標にするね!」と言ってきました。私はその人の成績は当然知りませんでしたが、最初の中間テストの成績を見ると私の方が上でした。勝手に目標にされて少し困惑しましたが、成績が高いことを認められて少しうれしかったです。それで調子に乗ったまま1年過ごしました。成績の順位は同じくらいの位置をキープできました。そして高校受験の時を迎えました。私は地元の中学生たちがあこがるT高校を受験しました。そこを受けるというだけで「どうだ!」という晴々した気持ちです。それで私を目標にすると言った友だちに自慢してやろうと思い、「俺T高受けるんだぜ。君はどこ受けるの?」と聞きました。すると「M高」だと言うではありませんか。M高はT高よりレベルが高い進学校でした。4月の頃は確かに自分の方が上だったのに、いつの間にか越されていました。私はこの1年間、とりあえず今の位置をキープすればいいやという気持ちでいました。しかしその友だちは、私のことを目標として頑張り、追いつき、追い越していったのです。友だちは人を作るのです。私はよい友だちにはなってあげられませんでした。互いに成長し合える友であれば、もっとよかったでしょう。
 箴言27:17には『鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。』と書いてあります。鉄は火で熱くなっているうちに鉄のハンマーで打ちます。そうすると強い鉄になります。私たち人を鉄のように鍛錬するものは友だちです。特に私たちが熱いとき、若いときにどういう友だちと一緒に過ごすかが大事です。
 私たちは友だちを選ぶことができます。ただ一緒にいて盛り上がるとか、気が合うとか、バカなことにつき合ってくれるとか、そういう基準で友を選んでいいのでしょうか。ソロモンの息子レハブアムはそれで失敗し、国を分裂させてしまいました。私たちが選ぶべき友は、自分によい刺激を与えてくれる人、自分を打って鍛錬してくれる人ではないでしょうか。本当の友は、一緒に困難に立ち向かい、互いに成長し合い、友のために命を捨てます。イエスはまさにそのような存在です。そしてイエスは私たちの罪を明らかにし、そこから救い出し、聖なる者、汚れのない者としてくださいます。私たちの人生に試練を与え、鍛錬してくださいます。
 そのような信仰の友を持っていきたいです。互いに影響を与え合い、成長し合う。もっとこうした方がいいんじゃないかとか、私たちはこのままでいいのだろうかとか、こういう問題があるから一緒に祈ってくれとか、そういう話ができる友になっていけたらいいなと思います。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 (ヨハネによる福音書15:15)

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