祭司の恵み

エゼキエル書講解51

祭司の恵み

エゼキエル書 44:5

主はわたしに言われた。「人の子よ、わたしがあなたに、主の神殿に関して語るすべてのこと、そのすべての掟とすべての律法に心を留め、自分の目で見、自分の耳で聞きなさい。特に、神殿に入ってよい者と、聖所から排除すべき者すべてに注意しなさい。

神様からのプレゼント

 プレゼントは好きですか?
クリスマスが近づいてくると、プレゼントが楽しみですね。
 自分がどんなプレゼントをもらえるかと考えるのも楽しいですが、誰かにあげるプレゼントを選ぶのも楽しいです。
 もしかすると自分は誰からもプレゼントをもらえない、と寂しい思いになる人がいるかもしれません。
 大丈夫です。すべての人に神さまはプレゼントを準備しています。
 それは私たちの人生の中で贈られる、素晴らしいプレゼントです。

祭司の役割について語る

 今日の本文は、主が祭司の役割について語る場面です。
 祭司の子であるエゼキエルにとって、これらの言葉はなじみのあるものでした。
 主は神殿のあるべき姿を示します。そして目で見、耳で聞いたことを用います。そして聖と俗を区別する者、清さを宣言する者としてエゼキエルを用います。

あるべき姿を示す

 まず今日の本文の前半に『主はわたしに言われた。「人の子よ、わたしがあなたに、主の神殿に関して語るすべてのこと、そのすべての掟とすべての律法に心を留め、』 とあります。

神殿の模型

 主はエゼキエルに新しい神殿の幻を見せました。
 そこに青銅のように輝く人がいて、神殿の大きさを測っていました。
 それをもとに、エゼキエルに神殿の模型を作らせました。
 サイズを測っていたので、それを縮小すれば主が示した通りの形の模型を作ることができます。
 神殿のあるべき姿、モデルを示すわけです。

 モデルがあれば、それを真似して同じものを作ることができますね。
 テレビや雑誌を見ながら、ファッションを真似ることができます。髪型とか、服装とか。
 少し前に、若い女の子たちがみんな同じようなメイクをしていた時期がありましたね。眉毛がはっきりしていて、なかなかインパクトの強いメイクでした。若い女の子たちは本当に流行に敏感で、よく学んでいるなと感心しました。
 映画やドラマを見て、素敵なクリスマスの様子を見ることがありますね。彼氏・彼女と一緒に、イルミネーションのきれいなところにデートに行く。おしゃれなレストランに行く。友だちと一緒にパーティーをして、チキンやケーキを食べながら、うぇーい!と言いながらインスタグラムに写真を載せる。
 そういうのを見せられて、自分もそうしなければと焦ることはないでしょうか。
 自分のファッションは遅れていないだろうか。自分の生活はダサくないだろうか。
 それでみんな同じ顔になる。Facebookやインスタグラムでいいねを押してもらうために、1時間数千円で彼女になってくれたり、いいねを売ってくれたりするサービスもあるそうです。
 私たちが見習っているモデルは、どのようなモデルでしょうか。
 もし間違ったモデルを見習っているとしたら、間違った方向に導かれてしまいます。
 本当にあるべき姿、本当に人間らしい生き方を示してくれるモデルを見習わなければなりません。

掟と律法

 エゼキエルの時代、人々は生きる指針を見失っていました。
 エゼキエル書7:26を見ると、南ユダ王国の最後の時期、人々は悪い噂に惑わされていました。
 預言者は幻を求めても得られませんでした。
 祭司たちは律法を失っていました。
 祭司というのは人々の前に立って律法を教える役割があります。
 その祭司たち自身が律法を失い、どのように生きたらいいかわからなくなっていたのです。

 そこで主はエゼキエルに、掟と律法を授けます。
 この掟と律法によって、ユダヤ人はユダヤ人としてのアイデンティティを守ることができました。

 私たちも御言葉によって、神の民としてのアイデンティティを保つことができます。

完全な人であるキリスト

 このときエゼキエルが作った模型は、どこにも残っていません。
 しかしそもそも神殿とは何だったでしょうか。
 神が人の間に住む所、天と地が一つになるところでした。
 そういう意味で言えば、神殿のあるべき姿は今も私たちの間にあります。
 それは最初のクリスマスに来られたイエス・キリストです。

 ユダヤ人に与えられた律法は、現代の私たちにそのまま適用することはできません。
 しかし律法を完成させた方がいます。
 それはイエス・キリストです。
 彼は完全な神であり、完全な人でした。
 罪がなく、本当に人間らしく生きた方です。
 だからイエス・キリストは人間のあるべき姿を示すモデルだと言うことができます。

 ということは、私たちはこの方を見習っていけばいいのでしょうか。
 イエス・キリストがしたように行えばいいのでしょうか。
 何をするにしても、What would Jesus do? イエス様だったらどうするだろうか?と考えればいいのでしょうか。
 それはそれで価値のあることです。
 でもそうやって生きていこうとすると、残念ながら失望します。
 できない!無理!
 右の頬を打たれたらどうしますか。左の頬より先に手が出てしまいます。
 同じ過ちを繰り返す人を何回までなら赦せますか?7の70倍どころか、1回の失敗も赦せません。
 私たちが倣うべきところは、そこではないです。行いではありません。
 信仰、神への信頼です。どれほど神の愛につながっているかです。

 私たちが行うべきこと、律法の要求はすべてイエス・キリストが満たして下さいました。
 だから私たちはもう、何にも束縛されていません。完全に自由です。
 言いかえれば、完全に神に従う自由、神のものとして生きる自由があります。
 信仰の創始者、また完成者であるイエスに目を留めましょう。
 イエス様に従うとき私たちは神の愛の中で、神を愛し、隣人を愛し生きる自由を得ます。

人生のすべてが神のもの

 次に今日の本文の真ん中に『自分の目で見、自分の耳で聞きなさい。』 とあります。

ツァドクの子孫

 エゼキエル書は他の預言書と大きく異なる点があります。
 それは神殿のサイズや祭司の務めが書いてあるところです。とても個性的ですね。
 まるで出エジプト記やレビ記のようです。
 聖書通読で初めにつまずいた時の苦い思いがよみがえってきますね。
 それはエゼキエル自身が祭司の子だったことも影響しているでしょう。

 祭司というのは誰でもなれるものではありません。
 もともとはアロンの子孫だけが祭司になれました。
 後にレビ族全体に拡張されますが、士師記の時代にはエフライム人のミカという人が自分の息子を勝手に祭司にする話も出てきます。
 後にダビデの時代に、最後までダビデに従ったのは祭司エリの子孫であるアビアタルとツァドクだけでした。この二人はどちらもアロンの子孫です。
 そしてソロモンが王になるとき、ソロモンに従ったのはツァドクでした。
 こうして祭司職はアロンの子孫から、ツァドクの子孫へと限定されることになります。
 エゼキエルに語られた掟の中にも、43:19でツァドクの子孫だけが祭司として主に仕えることができるとあります。

 これはどういうことでしょうか。
 結局聖書は、差別をしているではないか。どういう家系で生まれたかで人を判断するのか。カースト制なのか。
 いいえ、そういうことではありません。これは恵みについて語っています。
 祭司は、自分で実績を積んでなるのではありません。どれほどよい行いをしたか、テストでよい点数を取ったか、どれだけのお金を渡したか、そのような行いは関係ありません。恵みで、祭司になるのです。
 エレミヤは母の胎に形作られる前から、預言者として選ばれていました。全面的に神の恵みによる選びです。
 私たちも天地創造の前から神に愛され、キリストにおいて選ばれています。
 恵みによって私たちは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民になっているのです。

見て聞いたことを用いる

 エゼキエルはどうでしょうか。
 彼はブジという名の祭司の子として生まれ育ちました。
 幼い頃から、祭司として仕える父の背中を見て育ったでしょう。家でも律法をよく教えてもらったでしょう。神殿にも連れて行ってもらい、その構造にも詳しくなっていたでしょう。
 エゼキエルくんはサラブレッドのように育ち、若い頃から有能な人物として注目されていたようです。
 実際に祭司として働くことができるのは30歳から。その日を夢見ながら過ごしてきたことでしょう。

 ところが25歳くらいのとき、バビロンが攻めてきて、捕囚として連れ去られてしまいます。そして11年後、神殿も破壊されてしまいます。

 夢は終わりました。
 もう祭司として働けない。祭司として働く場所もない。
 今まで何をしてきたのだろう。
 エゼキエルは、それまでの人生が無意味に思えたのではないでしょうか。
 しかし神は、その人生のすべてを神の栄光のために用いることのできるお方です。

 私は子どもの頃から算数・数学が好きでした。
 中学生のときの数学の先生は厳しい先生でした。机を蹴ることもありました。
 もし自分が先生だったら、こういう風にはしたくないなと思いました。
 高校生のときには放課後に友だちや後輩に数学を教えていました。
 それで自分は数学の先生になるために生まれたんだと思いました。
 ところが大学に入って最初の講義、微分積分学概論が意味不明すぎて、つまずきました。
 それから2年間は遊びました。充実した大学生活でした。
 3年生になってやっとまじめに勉強しました。留年の危機に直面したので。
 そのとき、多くの数学者が神の話をしていることに疑問を持ちました。
 神って何なんだ?
 その悩みの中で、教会に導かれ、クリスチャンになりました。
 そして大学を卒業し、念願の数学の先生になりました。
しかし学生たちと向き合っていく中で、人は数学によって育つのではなく、愛によって育つのだとわかりました。
 神の愛を伝えなければならない。
 そして教師を辞めました。

 するとそれまでの数学人生は無駄だったのか?数学を通して味わった挫折や悩みは何だったのか?
 いや、そのすべてが今の自分につながっているとわかります。
 私の人生を一言で表すなら、「見たことや聞いたことを話さないではいられない」ということです。

 漁師だったペトロは人間をとる漁師になりました。彼は舟も網も捨ててイエス様に従いました。
 神の前で手放したものはすべて、最善の形で帰って来ます。
 兄たちによってエジプトに売られたヨセフは、エジプトで総理大臣になり、多くの人を救いました。
 人の悪によって奪われたものがあるとしても、神はそれを善に変えることができます。
 だから、よく見なさい、よく聞きなさい。
 私たちが人生の中で見たこと聞いたことは、私たちの武器になります。見たくなかったものも、聞きたくなかったことさえも。
 何が好きですか?あなたの個人的な趣味さえ、主の栄光を表す道になります。
 つまずいてもいいです。悩んでもいい。
 あなたがイエス・キリストに従うために手放したものが、祝福をもたらす。
 誰かの悪によって奪われたものが、神の善を行う道具になる。
 神様の計画に無駄はありません。すべてが益になります。

キリストの血で買い取られた

 私たちの人生は神様の手の中にあります。
 私たちはキリストの十字架の血潮で買い取られました。神様が、独り子という代価を払って、あなたを取り戻しました。
 これ以上、何ができますか?神様がこの上ない代価を払って、あなたを求めたのです。
 だからインマヌエルの神様はいつも私たちと一緒にいて、私たちに望みを起こさせ、それを行わせます。実を結ぶように、神様が責任を取ってくれます。
 だからすべてを主に委ねていいのです。もう自分で成し遂げようと、握りしめなくていい。手放して、神様にお任せしていい。

 主にささげることで、あなたの家に祝福をもたらすことになります。
 道具は、誰が用いるかによって発揮できる性能が違います。
 私がギターを持っても変な音しか出ません。
 しかし素晴らしい演奏家が持つなら、美しい音色を奏でることができます。

 私たちは主のもの。主に用いていただくとき、私たちの人生は最も輝きます。

聖と俗を区別する

 最後に今日の本文の8節9節に『特に、神殿に入ってよい者と、聖所から排除すべき者すべてに注意しなさい。』 とあります。

神殿に入ってよいもの

 主はエゼキエルに、神殿に入ってよいものと排除すべきものを区別するように言います。
 祭司の大事な役割は、聖と俗を区別することです。

 重い皮膚病になった人に、汚れていると宣告するのも祭司でした。
 病気が治ったかどうかを判断して、清いと宣告するのも祭司でした。
 会衆から絶たれていた人に「あなたはもう清いよ」と伝えて、神の民の交わりに回復させる役割が祭司にあります。

 では神殿に入ってよいもの、清いものとは何でしょうか。
 それは神様にふさわしいものです。
 何がありますか。義、愛、平和、喜び、一致とか色々ありますね。
 それを区別しなさいと。

 教会の中には清いものばかり入っていますか?
 では一つ一つチェックして、これは清い、これは悪いと検閲しましょうか。
 礼拝堂の入り口で持ち物検査をして、ピピピ!ポケットの中にタバコが入っていますね!ピピピ!カバンの中にゲームが入っていますね!そのようにしなさいということでしょうか。
 いいえ、その必要はありません。この世界のすべては神様の作品です。

4 というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。5 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

テモテへの手紙一4:4

排除すべきもの

 そうか、すべて聖なるものなんだ。
 だったら、区別する必要ないですね。
 何を排除すべきでしょうか。何が汚れているのでしょうか。

 それは私たちの内にあります。
 問題はこの心です。
 不正、憎しみ、妬み、争い、そのような私たちの内にあるものが、私たちを汚します。
 私たちの心が、神様が造られた良いものを悪の道具にしてしまうのです。

 聖書は酒そのものを悪いとは言っていません。
 むしろパウロはテモテに、健康のためにぶどう酒を少し用いなさいと勧めています。
 しかし人は弱いです。少しでは終わらないです。
 飲みすぎ、酒に酔わされてしまいます。そして間違いを犯します。
 修学旅行に行った先で女湯に入ってしまった男性の副校長とか、先輩の誹謗中傷をした芸人とかが話題になりましたが、酒に酔っていたからという言い訳は通用しません。その心にあることが、酒の力で行動に現れただけです。
 問題は酒ではありません。心です。ここを変えなければなりません。

和解の務め

 ではどうすれば心を変えることができるでしょうか。
 人を変えることができるのは、恐れでも数学でもありません。机を蹴ったって人は変わりません。
 愛だけです。神の愛が私たちを新しくします。

 キリストが私たちのために死に、復活したように、古い私たちは既にキリストと共に十字架で死にました。
 そして今、新しい命に生かされています。
 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたのです。

私たちにはその愛の言葉、福音が委ねられています。
 それは、神様から離れてしまった人を神様のところに回復させる和解の言葉です。
 「あなたは清いよ、あなたは新しい神様の作品だ!」そのように伝えて、神の民の交わりに回復させる役割が私たちに委ねられています。
 和解の使者です。
 私たち自身が神様からのプレゼント、福音を受けとり、それを人々に届けていくのです。

 私たちは神と共に生きます。
 イエス様に従うとき、本当に人間らしく生きます。
 神様の手にある道具として、最高に輝きます。
 私たちを通して主の栄光が現れ、神様の愛を伝えていく。
 そのような祭司として生きる恵みが私たちにあります。

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