【第六戒】殺すな

十戒8

殺すな

出エジプト記20:13

殺してはならない。

人を殺すな。どこまで?

 第六戒は「あなたは殺してはならない」です。
 人を殺してはならない。これは誰もが同意するでしょう。
 しかし故意ではなく過失ということもあります。
 正当防衛ということもあります。殺られる前に殺るべきではないかと。敵国が攻めてこようとするなら、武器を持って敵を殺さなければ、自分たちが殺されてしまう。
 復讐はどうでしょう。自分の愛する人が誰かに殺されたら、相手も同じ目にあわせてやりたい。
 死刑の問題もあります。凶悪な犯罪者は生かしておけない。
 自死や安楽死というのも大きな問題です。生きていくのが苦しいだけなら、死なせてあげた方が幸せではないか。
 殺すな、というのは単純なようで、とても悩ましい戒めです。

人は誰しも尊い存在

 どこからどこまで殺すななのか、その具体的な扱いは私たちが悩んでいかなければならない問題だと思います。
 その基準として、神様は人間をどう見ておられるのかを知る必要があります。

 神は人間の命についてこのように語っています。

人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。

創世記9:6

 人の血を流したら、自分の血を流される。復讐や死刑を肯定しているようにも読めます。重要なのは、その理由です。
 なぜ人の血を流してはならないのか。それは人間が神のかたちに造られているからです。
 人は神を表す存在であり、神の作品に失敗はあり得ません。
 だから人間は誰しも尊い存在です。人間の尊厳を守らなければなりません。

 エゼキエル書で神様は、誰の死も喜ばないと言っています。
 そして人を救うために独り子イエスを与えました。
 私たちが憎むあの野郎も、神に愛されている尊い人間です。
 また誰の役にも立たず、誰かのお世話になってばかりの人も、神様の傑作品です。
 死んでいい命などないのです。
 どんな理由であれ、誰かの死を歓迎することはできません。
 だから私たちは、自分と他人の命を守るために、正当な努力をしなければなりません。

自分の命を守る

 まず自分の命を守るということについて考えてみます。
 自分の体を大切にしましょう。私たちの体は聖霊が宿る神殿です。栄養のあるものを食べ、よく働き、よく休むことが大切です。
 健康を損なう生活習慣には気をつけなければなりません。たばこや酒そのものが悪ではありませんが、健康リスクには注意が必要です。

自死に追い込まれる社会

 自死は大きな問題です。何万人もの人が自ら命を絶ちます。
 若者の死因の1位が自死です。
 コロナが長引き、自死する人が増えてきました。
 神様が与えてくださった命を自ら捨てるのは大きな罪だと言えます。
 しかし自死を選ばなければいけない状況になったのはなぜでしょう。他の人によって自死に追い込まれています。
 いじめの問題や、生きづらさを抱える人を救済する仕組みづくりが必要です。

自己犠牲は愛か

 殉教というものもあります。信仰のために命を落とすことです。
 聖書にはステファノのような殉教者が出てきますし、黙示録でも殉教者の数が満ちるまで待てという言葉も出てきます。
 神は殉教を望んでいるのでしょうか。
 しかし自分から命を捨てに行ってはいけません。爆弾を背負って寺や神社に突っ込んではいけません。感染症の危険を顧みず集まり続けるのもいけません。
 愛に駆り立てられているかが大事です。兄弟の命を守るために、踏み絵を踏む方がいい場面だってあります。
 命を捨てることが愛というわけでもありません。
 誰かのために身代わりに犠牲になる必要が本当にありますか。全財産を貧しい人のために使い尽くしても、わが身を死に引き渡しても、愛がなければ何にもなりません。誰かのために他の人が苦しむのは、イエス・キリストだけで十分です。
 私たちは、自分の命を守ることを選びましょう。

弱者を守る

 弱い人を守ることも考えなければなりません。病気で苦しむ人を助けたり、社会の問題で苦しんでいる人を助けたりする必要があります。医療や福祉を整えるということです。
 浜松の聖隷事業団のように、クリスチャンによって始められた病院や福祉介護施設は多くあります。

自助ではどうにもならない社会の問題

 問題ある環境によって人の命が奪われることもあります。
 交通事故によって多くの人の命が奪われます。事故が起こらないように社会や車の機能を向上させていく必要があります。
 貧困や飢餓によって命を落とす人たちが多くいます。そのような社会の格差も改善しなければなりません。
 今、仕事を失い、経済的に困窮する人たちが多くいます。彼らには助けが必要です。しかし助けてと言えない雰囲気があります。自己責任だと言われ、見捨てられてしまう。まず自助、自分の力でどうにかしなければならないと思う。それで必要な助けを選べなくなってしまいます。

危険にさらされる小さな命

 小さな命を守るということも考えなければなりません。
 虐待によって命を落とす子どもたちがいます。そういう虐待をする親からは、子どもたちを引き離し保護する必要もあるでしょう。
 子どもを親だけで育てるのには無理があります。ですから親以外の人が子どもに関わり、守ってあげるような仕組みも必要です。
 もっと小さな命、中絶も問題です。まだ生まれてきてはいませんが、命が芽生えています。それを摘み取るのは殺人と同じではないでしょうか。
 しかし中絶を選ばざるを得ない場合もあるのです。親に育てる力がないとか、周りの人に歓迎されない場合もあります。
 そういう子どもでも、他の人の手に委ねることができれば、生きることができるかもしれません。これも社会で改善していかなければならない問題です。

一概に悪だと言い切れない

 母親が望まないのに妊娠させられるケースというのもあります。レイプなどの事件で子を宿してしまったら、その子を産み育てること自体が母親を苦しめるでしょう。このような場合、中絶が最善の選択肢になるかもしれません。
 これも難しい問題ですが、社会全体で考えていかなければならないし、様々な救済措置を取る必要があるでしょう。

犯罪者の死を望む

 死刑という問題もあります。凶悪な犯罪者に、死を命じるわけです。
 果たして人間に、お前は死ね、お前は生きて良いなどと言う権利があるのでしょうか。
 日本では今も死刑が行われています。しかし世界の中には死刑を廃止したり、停止したりしている国や地域も多くあります。
 死刑になるのは凶悪な犯罪者です。死をもって償うしかないような罪を犯したわけです。更生の余地がなく、生かしておけない。そういう市民の敵だとも言えます。

解決はイエスの十字架しかない

 イエス・キリストは敵を愛しなさいと言いました。
 もし敵を愛することができたらどうなるでしょう。愛すれば、敵が敵でなくなります。そして愛された人は変わります。
 自分の息子を殺した殺人犯を赦し、養子にした人もいました。死刑になるべきだった犯人は、愛されたことで変えられていきました。

 イエス・キリストは殺人に関して、このように言いました。

21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

マタイ5:21-22

 「ばか」とか「愚か者」と言うだけで、また心の中で腹を立てるだけで殺人と同じだと言うのです。かなり厳しい基準です。
 しかし実際、人を死に追いやる問題の根本には、私たちの醜い心があります。人間の罪の問題があります。
 ですから自分と他人の命を守るためには、罪の問題の解決が欠かせません。そしてその解決は、イエス・キリストの十字架にしかないのです。
 私たちはこの醜い心のために、罪なき神の独り子イエスを十字架につけて殺しました。そして神はイエスを復活させました。
 私たちはこのイエスにつながるとき、人を憎む者ではなく愛する者、人を殺す者ではなく生かす者とされます。

愛する者に変わらなければ人を生かせない

 ヨハネも厳しいことを言っています。

兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

ヨハネの手紙一3:15

 兄弟を憎む者は人殺し。言い換えれば、愛する者にならなければ人を生かすことはできません。
 自分を愛し、隣人を愛する者になる。神を愛し、神のかたちである人間を愛する。これが必要です。
 弱者を見捨て、誰かの死を望むような社会は変わらなければなりません。
 すべてが生きる、命の川を流していく、そのような神の国を建て上げていきましょう。

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