それでも神はよいお方

エゼキエル書講解41

それでも神はよいお方

エゼキエル書 33:12-20

12 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。13 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。14 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、15 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。16 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。17 それなのに、あなたの同胞は言っている。『主の道は正しくない』と。しかし正しくないのは彼らの道である。18 正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。19 また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる。20 それなのに、お前たちは言っている。『主の道は正しくない』と。イスラエルの家よ、わたしは人をそれぞれの道に従って裁く。」

理不尽な世界

北九州予備校 東京校

 北九州予備校という学習塾があります。
 スローガンは「努力は実る」です。塾の建物に大きく書いてあります。
 その言葉を信じたいですね。努力したら、その結果が帰って来る。
 しかし実際はそうではありません。

 私も大学受験をするとき、努力は実ると思って勉強しました。
 センター試験のとき、社会科は地理歴史分野と公民分野から1科目ずつ受験して、成績の良い方を採用することになっていました。私は世界史と現代社会を受けることにしました。
 どうせ1科目しか採用されないなら、1科目に集中して勉強した方が効率がいいです。
 世界史が好きだったので世界史ばかり勉強しました。現代社会は全く勉強しませんでした。
 実際にセンター試験を受けたところ、世界史はかなり高得点を取りました。
 「ああ、やっぱり努力は実るんだな。」と思いながら現代社会の採点をしてみました。丸、丸、丸、、、ほぼ満点でした。
 それはそれでうれしいけれど、微妙な気持ちになります。机に向かってコツコツ勉強したものより、何もしなかったものの方が成績が良かった。現代社会のためにしたこととがあるとすれば、テレビを見たことくらいです。
 こうなると勉強することが無駄に思えてきます。
 この世界は理不尽です。

 今回の夏の高校野球、甲子園は金足農業高校が注目を集めました。
 甲子園に出場するのは私立高校がほとんどです。お金があって、全国から優秀な学生をスカウトしてチーム作りをします。優秀な指導者や練習設備も整っています。
 その中で秋田県代表は公立高校でした。地元の中学校出身者だけの農業高校です。地道な野球で勝ち進み、決勝まで行きました。
 雪国の代表は、なかなか勝てません。雪が降る雪の間は外で練習できないからです。たくさん努力したのでしょう。ついに東北初の優勝まであと1勝になりました。
 決勝戦の相手は大阪桐蔭高校。資金力のある私立高校の代表ともいえる強豪です。
 それに対する雪国の公立高校。対称的な対決です。
 巨人と子供のようです。ゴリアテに立ち向かうダビデのようですね。
 こういうとき、人は本能的にダビデの方を応援します。小さな者が大きい者を倒すのを見たいです。映画やマンガを見ればわかりますね。
 しかし結果は13対2で大阪桐蔭の圧勝。
 努力すれば勝てるわけではありません。もちろんお金があれば勝てるということもありません。

 私たちはこの世界で生きながら、理不尽な結果に打ちのめされます。
 おかしい、何かが間違っている。そのような思いにさせられることがあります。
 主の道は正しくないのではないか。本当に神はよいお方なのだろうか。

主の道は正しくないと思える

 今日は主がエゼキエルにご自分の正しさを語る場面です。
 18章でも同じようなことが語られました。その後、エルサレムが滅びました。
 なぜこんなことになるのだろう。神は何をしているのか。助ける力がなかったのか。おかしい、何かが間違っている。そのような疑問が出てきます。
 そこで主は捕囚になった民に再び語り、それでも神はよいお方であることに目を向けさせます。

苦悩を許す神

 まず今日の本文の12節13節で『12 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。13 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。』 とあります。
 正しく生きていてもこの世界には悩みや苦しみがあります。
 それでも神はよいお方です。

公正な世界を願う

 私たちは、正しく生きていれば正しく報われると思いたいです。
 努力すれば実ってほしい。宗教的な生活を送っていれば、悩みや苦しみのない生活になってほしい。
 人は人生の悩みや苦しみを取り除こうとしてきました。
 技術の進歩でとても便利な時代になりました。自分で悩まなくても、インターネットを開けば答えが書いてあります。AIが最適な人生に導いてくれます。
 宗教もその役割を担ってきました。
 神に従えば、悩みも苦しみもなくなるだろう。
 なむなむと言っていれば全てうまく行く。
 最高ですか?最高でーす!
 いつも喜んでいますか?アーメン!勝利!勝利!勝利!
 結局、人はそのように従順に生きたらハッピーになれる世界を望み、幸福を科学するのです。

人生の理不尽

 ところが現実はそうではありません。
 南ユダにウジヤという王がいました。彼は正しい王様でした。ウジヤ王が治めた52年の間、ユダは繁栄しました。
 ところがウジヤは高慢になってしまいました。祭司だけにしか許されていないことを、自分勝手にしようとしてしまいました。
 そのときウジヤは重い皮膚病になってしまいました。
 王でありながら隔離された家に住み、寂しく死にました。
 亡くなった後も、王の墓には入れず、近くの野に葬られました。
 彼は50年以上、正しく生きたではありませんか。それなのに、こんな惨めな最期を迎えた。

 背くとき、過去の正しさは思い起こされません。
 努力をしても結果が出ず、悔しい思いをすることはたくさんあります。
 信仰生活を送っていても、病気になったり家族に不幸があったりします。
 いつも喜んでいられるわけではないです。

 人生は理不尽です。
 正しく生きていても、悩みや苦しみはなくならない。
 むしろ、正しく生きていこうとしたときに悩まされ、苦しめられることもあります。
 弟子たちはイエス・キリストに従った結果、嵐にあいました。
 イエス・キリストと共に留まっていたら、ラザロは死んでしまいました。
 なぜ?おかしい、何かが間違っている。こんな神は正しくない。そう思わされます。

苦悩に寄り添う

レンブラント「ガリラヤの海の嵐」

 それでも神はよいお方です。
 私たちが悩み苦しむ時にも、主は共にいてくださいます。
 嵐にあうけれど、その船の中にイエス・キリストがいます。
 家族を失い悲しむとき、イエス・キリストは一緒に涙を流しています。
 イエス・キリスト自身、十字架につく前に悩み苦しみました。
 「アバ父よ、この杯を過ぎ去らせてください。こんな苦しみは嫌です。そんなの悲しいです。お父ちゃん!」
 この悩み苦しみを通ったから、イエス・キリストは私たちの弱さに寄り添うことができます。一緒に苦しみ、一緒に涙を流してくれます。
 そのことは、悩まなければわかりません。苦しまなければ体験できません。
 この理不尽な世界にあっても、正しい生活をやめてはいけません。努力を諦めてはいけません。神に従うことから逃げてはいけません。まとわりつく罪を、かなぐり捨てるのです。
 それで悩まされ、苦しめられます。
 たくさん悩んでください。苦しみを耐え忍んでください。
 この理不尽の中で悩み、苦しみながらも心を清く保つ人は幸いです。その人たちは神を見ます。
 正しく生きても悩み苦しむ。それでも神はよいお方です。

寛大すぎる神

 次に今日の本文の14節から16節に『14 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、15 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。16 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。』 とあります。
 神は悪人にも恵みを注いでしまいます。
 神は寛大すぎます。
 それでも神はよいお方です。

罪人は滅びるべき

正義のヒーロー

 私たちがこの世界に期待するのは正義が勝ち、悪が滅びることです。
 正義のヒーローが来て、悪人を裁いてほしいです。
 人の命を奪った殺人犯は、自分の命で償うべきだ。
 遊んで暮らしてきた人が後で苦労するのは当然だ。
 教会に来ないから滅びても仕方ないね。

生きよという神

 ところが現実はそうではありません。
 1997年に神戸で小学生が連続して襲われる事件がありました。特に社会に衝撃を与えたのは、男の子が殺された事件です。中学校の正門の前に、切断された男の子の首が置かれていました。その子の口には「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る人物の犯行声明文がくわえられていました。
 そしてさらに人々を震え上がらせたのは、14歳の中学生、少年Aが犯人だったことです。
 このような猟奇的な犯行を犯し、サディスティックな欲望を持った人は普通、死ぬまで刑務所から出られません。
 ところが事件からわずか数年で、この少年Aは刑務所を出ました。18歳未満の子どもは、少年法で守られているからです。
 子どもだから更生して生きることができるというのが少年法の根拠です。法務省は少年Aの更生プログラムは成功したと言っています。
 本当に数年で猟奇的殺人犯が更生できたのでしょうか。そんなすごいプログラムがあるなら、ぜひ教えてほしいです。

 この社会のどこかで極悪人も平気で生きている。むしろズルい人の方が繁栄している。何の不自由もなく遊んで暮らす人もいる。
 教会で真面目な信仰生活を送っている自分は何の楽しみもないけれど、この世で生きるあいつらは楽しそうだ。
 夕方まで広場で遊んでちょっとしか働かなかった人が、一日分の給料をもらっていいのか?そんなに甘やかしていいの?もっと汗水流して苦労するべきじゃないか。
 選ばれた民であるユダヤ人が捕囚になって、偶像に仕えるバビロンがこんなに繁栄している。
 なぜ?おかしい、何かが間違っている。こんな神は正しくない。そう思わされます。

 それでも神はよいお方です。
 主なる神が願っているのは、罪人が悔い改めて生きることです。
 神は誰の死をも喜ばず、生きよと言われます。

神がよい方すぎる

レンブラント「放蕩息子の帰還」

 何かをしたから愛するのではなく、存在そのものを愛しています。
 だから神は、私たちが死ぬべき罪を犯した罪人でも、愛することを止められません。
 こんなにも愛しているから、愛しすぎているから、寛大すぎることをしてしまいます。
 自分で道を踏み外した羊のために他の全てを置いて探しに行き、見つけたら肩に担いでしまう羊飼いのように。
 どこかに落として価値を発揮できなくなっている銀貨のために家中を探し回り、見つけたら近所の人を呼んでパーティーをしてしまう女性のように。
 親を捨てて放蕩した息子を無条件で受け入れ、子として扱ってしまう親のように。
 それまでどんな人生を送って来たかは関係ありません。
 愛するから、探し、受け入れ、喜びます。

 そんな神は、世を愛しすぎるあまり、その独り子を与えてしまいました。
 そこまで与えていいのか。
 それで人は、神があまりによい方なので妬みます。
 そう思うのは、自分でもある程度よい人間だと思っているからです。
 私は置き去りにされた99匹の羊の方だ。財布に残っていた銀貨だ。家で忠実に仕えている兄だ。
 私ならそうしない。そこまでやる?こんな愛を示すなんて、神はやりすぎだ。そう思います。

 しかし自分の罪、汚れを知っている人は、神の寛大さの前に違う反応を見せます。
 「マジか、こんな私のために?ありがとうございます!」
 驚くばかりの恵みの前で、畏れを抱きます。
 後はその恵みを、感謝して受け取ればいいです。

 主人が借金を帳消しにすると言ったとき、自分に借金がないと思っている人はバカな主人だと思います。
 しかし自分の借金があまりにも多いと知っている人は、主人への愛が溢れてきます。
 だからまず、私たちは自分の罪と向き合わなければなりません。
 私たちは死ぬべき罪人だったのです。神の手から離れ、本当の価値を失っていたのです。神との関係が壊れ、罪の奴隷になっていたのです。
 こんな罪の汚れを知る者にとって、神の寛大さに感謝しかありません。
 そして私たちは正義と恵みの業を行う者に変わらざるを得ません。
 だから神はよいお方です。

沈黙する神

 最後に今日の本文の17節から20節に『17 それなのに、あなたの同胞は言っている。『主の道は正しくない』と。しかし正しくないのは彼らの道である。18 正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。19 また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる。20 それなのに、お前たちは言っている。『主の道は正しくない』と。イスラエルの家よ、わたしは人をそれぞれの道に従って裁く。」』 とあります。
 神は私たちの願った通りの道から来てくれません。
 それでも神はよいお方です。

理想の神

 私たちは自分の思い通りにならないことがあると怒ります。
 川に遊びに行こうと思っていたのに、雨が降った。がっかり。
 そろそろ勉強しようと思ったら、「ちょっと手伝ってー」と言われる。うるさいな。
 急いでいるのに、赤信号ばかり。これはサタンの妨げか?
 私たちは自分の願った通りに世界が動くことを願います。

 神に対しても同じです。
 求めれば与えられると言いましたね、お金をください!
 知恵のない人は求めなさいと書いてありますよね、知恵をください!
 モテたい、結婚相手をくれ!
 病気を治して!私を祝福しろ!
 私たちの祈りに答え、欲しいものを満たしてくれることを求めます。

神は寝ているのか

 ところが現実はそうではありません。
 日本の福音化のために、たくさんの祈りがささげられてきました。
 400年前、たくさんの殉教の血が流されました。
 150年以上、たくさんの犠牲がささげられてきました。
 それなのに日本のクリスチャン人口は日本人の1%にもなりません。
 なぜか神様は与えてくれない。なぜこんなに求めているのにまだ与えてくれないの?

 日本で成人式は大きな行事です。
 私は成人式のとき、何か素晴らしいプレゼントがもらえるものだと思っていました。だって成人になったわけです。この社会を支える一員になるわけです。大人たちから祝われて当然でしょ。
 ところが成人式のとき、町から送られたのはまんじゅうと本でした。しかも「新社会人のための100の常識」とかいう、つまらなそうな本。これだけ?使えねー。と思いました。

 私たちは自分の理想と違うものは受け取りたくありません。
 欲しいものと違うものが来たら、これじゃない!と拒みます。
 自分の思った道と違う道から来たら、その道は正しくないと言いたくなります。
 祈ったのに答えがない。魂の救いのためにあんなに祈ったのに。あんなに犠牲を払ったのに。でもあの人は教会から離れて行く。
 神様、聞いていましたか?耳が遠いんですか?見ていましたか?目が悪いんですか?手が短くて助ける力がないんですか?なぜ黙っているんですか。寝ているんですか。
 なぜ?おかしい、何かが間違っている。こんな神は正しくない。そう思わされます。

人の思いをはるかに超える

 それでも神はよいお方です。
 神は私たちの考えを超えた道から来ます。

 人々はイエスをメシアとして期待しました。イスラエルを救う王として、ホサナと叫びました。
 ところがイエス・キリストは十字架で死んでしまいます。
 力強い王としてローマの支配から解放してくれると思ったのに。
 茨の冠を被せられ、葦の棒を持たされる。何の反論もせず、何の奇跡も起こさず、惨めに十字架で殺される。
 え、こうなるはずでは…。弟子たちは落胆し、逃げてしまいました。

 確かにイエスは人が期待したようなメシアではありませんでした。
 しかしイエスは人の思いを超えた完全なメシアでした。
 彼は預言者として、祭司として、王として十字架につき、ただローマの支配からユダヤ人を解放するのではなく、全ての束縛から全ての人を自由にしてくださいました。
 そしてイエス・キリストは復活します。

 弟子たちは今度こそイスラエルを建て直してくれると思いました。
 しかしイエス・キリストは聖霊を送ることを約束し、天に上げられます。
 え、行っちゃうの?弟子たちは天を見上げたまま呆然としてしまいました。
 弟子たちはイエス・キリストが新しいエルサレム、神の国を立てると思いました。
 しかし神は聖霊を送り、教会によってこの地に神の国を建て上げます。
 だから私たちは、イエス・キリストよりもっと大きな業を行うことになります。

 私が成人式の時にもらった本は、社会人になってから本当に役に立ちました。
 20歳になったばかりの私の考えより、社会の先輩たちの考えの方がはるかに優れていました。

 神の御心は人の思いをはるかに超えています。
 だから祈った通りにならないことはあるし、思った方向から来ないこともあります。
 それでも神は、人の想像をはるかに超えてよいお方です。

 私たちはこの理不尽な世界を見ながら、何かおかしい、神は間違っていると思ってしまうことがあります。
 それは神の義や愛が、人の思いをはるかに超えているからです。
 思い通りにならないことはあります。
 それでも神はよいお方です。

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