不義により起こる飢餓

収穫感謝礼拝

不義により起こる飢餓

箴言13:23

貧しい人の耕作地に多くの食糧が実っても/正義が行われなければ奪われる。

世界の6.9億人が飢餓に苦しんでいる

 10月5日から12日にかけて、今年のノーベル賞の受賞者が発表されました。ノーベル平和賞はWFP(国連世界食糧計画)が受賞することになりました。飢餓と戦い、平和へ貢献したことが認められました。
 飢餓とは、「長期間にわたり十分に食べられず、栄養不足となり、生存と社会的な生活が困難になっている状態」です。
 現在、世界の11人に1人、約6億9千万人が飢餓に苦しんでいます。
 食料が足りていないかと言うと、そうではありません。世界中で生産されている食料は、穀物だけ見ても世界中の人が十分に食べられる量の2倍もあります。
 それなのになぜ飢餓は無くならないのでしょうか。
 気候変動によって農作物や田畑が被害を受けることもあります。
 貧困や食料価格の高騰によって食料を手に入れられなくなることもあります。
 紛争によって住んでいた家や農地を手放して避難したり、土地を荒らされたりすることで飢餓状態になることもあります。
 また、食べられるものを捨てる食品ロスの問題もあります。
 日本だけ見ても、1年間で捨てられる食品の量は約612万トンです。これはWFPが1年間で支援する量の1.5倍になります。
 日本のような豊かな国が、外国から食料を買う。その豊かな国では食料が有り余り、捨てられる。そして外国では食料が足りず、飢餓に苦しむ人がいる。
 なぜ飢餓が無くならないのか。そこに人間の罪、不義という問題があることを無視することはできません。

貧困・飢餓に関するソロモンの格言

 今日の本文は箴言の中の1節です。ソロモンの格言集の中に含まれます。貧しい人の耕作地に多くの食糧が実ったら、彼らはそれを売って豊かになり、十分に食べることができるでしょう。しかしそれは正義が行われている場合に限ります。正義が行われなければ、力がある者によって奪われてしまうのです。

ソロモンの不義

 ソロモンの時代にイスラエル王国は繁栄を極めていました。
 平和が保たれ、人々は安心して暮らしました。周辺の国々からの貢ぎ物もあり、銀が値打ちのないものと扱われるほどの豊かさでした。食料も満ち足りていて、人々は飲み食いして楽しんでいました。
 そして父ダビデの悲願でもあった神殿建築を、7年かけて成し遂げます。
 しかしソロモンの統治は徐々に怪しい方向に進んでいきます。
 ソロモンが神殿の建築を終えた後、今度は王宮の建築を始めました。神殿よりずっと大きな王宮で、完成まで13年かかりました。神殿の2倍近い年月がかかっています。
 またソロモンは政略結婚を繰り返し、700人の王妃と300人の側室がいました。外国から来た彼女たちのために、ソロモンは異教の祭壇を造らせました。
 このような度重なる公共事業を、誰が行うのでしょうか。国民が働かされます。
 そして1000人の妻たちを誰が養うのでしょう。もちろん税金です。イスラエルの民が汗水流して働いてささげた血税です。
 こうしてイスラエルの民は過酷な労働と重い税金を課せられることになりました。
 誰が貧しい人の耕作地から食糧を奪ったのか。正義を行わなかったのは誰か。
 実はソロモン自身が貧しい人たちの耕作地から食糧を奪うことになりました。
 このことは後に王国分裂の火種にもなります。

ソロモンに見る罪の問題

 ソロモンはなぜこうなってしまったのでしょうか。
 神殿は相当に立派なものでした。それ以上に立派な王宮を建てる必要などなかったはずです。神の家より自分の家を大きくする必要がどこにありますか。
 しかしソロモンは、神殿の2倍の規模の家に住みました。神よりも自分を大きくすることを求めたのかもしれません。
 神に背き、天まで届く塔を建てようとした人間の罪がここにあります。
 ソロモンの最初の妻はエジプトのファラオの娘でした。これも政略結婚です。
 男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。これが結婚の原則です。1人の夫、1人の妻です。その他の女性を求めてはいけません。
 それなのにソロモンは1000人。
 そこに愛などあるはずがありません。政治的な思惑が大きいです。政略結婚により、周辺諸国と安定した関係を築こうというものです。
 娘を嫁がせた父親も、それを受け入れたソロモンも、女性を政治の道具としてしか見ていません。
 また、国の安定をそのような策略によって保とうとしています。
 ソロモンはかつて、民を治める知恵を求めて祈りました。そのような神への信頼はどこに行ってしまったのでしょうか。
 ソロモンの罪、不義が見えてきます。

私たちを貪欲にさせる罪

 私たちにも同じような罪、不義があります。
 神よりも自分を大きくすることを求めていませんか。神さまの素晴らしさを表すより、自分の素晴らしさを認めてもらいたい。これは私の力だと言いたい。礼拝より自分の生活が大事。ささげるものは余ったもの。
 また、人間とは利己的なものです。他の人を自分の利益のために利用してしまうことがあります。隣人は愛の対象ではなく、道具になってしまいます。
 そして自分の力や富、この世の何かを頼りとして、神様を求めない。
 このような罪のために、私たちは貪欲になります。
 もっと多くのものを所有したい。既にたくさんの恵みが与えられているのに、それを用いようとしない。そして困っている人たちに対して無関心になります。
 貧しい人たちの耕作地から食糧を奪っているのは、私たちも同じです。

罪・不義を取り除くイエス・キリスト

 この人間の罪や不義の問題を解決しない限り、飢餓の根本的な解決にはなりません。
 私たちは優先順位に気をつける必要があります。自分の生活はもちろん大事です。何を着ようか何を食べようか。しかしそういう生活の思い煩いより先に求めるべきものがあります。
 バビロン捕囚から帰った人たちは、神殿建築を途中であきらめてしまいました。サマリア人などの妨害もあり、生活に困っていました。
 そんなとき、主は預言者ハガイを通してこう言いました。

4 「今、お前たちは、この神殿を/廃虚のままにしておきながら/自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。5 今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。6 種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく/飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく/金をかせぐ者がかせいでも/穴のあいた袋に入れるようなものだ。

ハガイ書1:4-6

 穴の開いた袋にお金を入れても、落ちてしまいます。まずお金を受け取る準備をする必要があります。
 祝福の源である神から離れていては、祝福を受け取ることができません。神に立ち返る道はただイエス・キリストだけです。
 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。まず神様のことを求める必要があります。

 また他の人を利用しようとする利己的な心を捨てなければなりません。
 イエス・キリストはすべての人のために死にました。他の人もイエス様が命をかけて救い出した尊い存在です。そのような目で人を見ているでしょうか。
 イエス様の十字架の恵みを受け取ったなら、もう自己中心にはなれません。無関心ではいられなくなります。
 人は道具ではありません。どんな命も尊いものです。

 そして自分に与えられている豊かさを忘れてはいけません。
 持っているものは少ないかもしれません。弱さがあるかもしれません。
 しかし恵みは十分あります。
 ベタニヤ村のマリアはイエス様のためにナルドの香油を注ぎました。300万円もする高価な香油です。彼女が一生懸命働いて買ったものかもしれません。あるいはお母さんからいただいた形見のようなものかもしれません。命のように大事なものを彼女は手放しました。
 彼女が惜しまずささげられたのは、神様の恵みを知り、神様の栄光を求めていたからです。

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

コリントの信徒への手紙ニ9:10

 神様は種蒔く人に種を与え、さらにパンも与えてくださる方です。ささげる力は神様から来ます。そしてささげた後も養ってくださいます。
 御子をさえ惜しまず与えてくださった神が、私たちに必要なものを与えてくださらないわけがありません。
 だからささげることを惜しむ必要はないのです。

飢餓の解決のためにできること

 飢餓の解決のために、あなたもできることがあります。
 まず関心を持ってください。浪費をやめて、ささげましょう。
 今週どこかで1食断食するのもいいです。1食分でも募金してください。その数百円で助かる命があります。
 そして何より、神の義を追い求めましょう。正義の神が、すべての悪を滅ぼし、正義を行われるように。
 そして人々が神に立ち返り、神様の祝福を受け取ることができるように求めていきましょう。

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