主の御手が強く捕らえている

エゼキエル書講解3

主の御手が強く捕らえている

エゼキエル書 3:1-15

Boys be ambitious, in Jesus Christ.

 今日は青年たちが中心になって礼拝の奉仕を担当しました。青年たちがいきいきと活動している姿を見ると美しいですね。
 もちろん未熟なところもあります。失敗することもあるでしょう。それも含めて美しいですね。
 もちろん礼拝はよいものをささげるべきです。ですから適当な心でささげるべきではありません。
 それは未熟な者は奉仕できないという意味ではありません。もしきれいな賛美でなければならないというなら、YouTubeをささげればいいです。
 子どもの書いた絵は未熟でも美しいです。
 たとえ未熟でも私たちが心を尽くして主に礼拝をささげるなら、主は喜んで受け取ってくださいます。

丘の上のクラーク

 札幌農学校で初代教頭を務めたウィリアム・クラーク博士は日本を去るとき、学生たちに「青年よ、キリストにあって大志を抱け」”Boys be ambitious, in Jesus Christ.” と言いました。
 クラーク博士から直接教えを受けた第一世代は、その教えを後輩たちに伝えました。
若気の至りというか、少々強引な方法で伝道しました。
その中から内村鑑三や新渡戸稲造といった、日本の新しい時代を切り開いていったクリスチャンのリーダーたちが起こされました。

 青年時代に何を見、何を聞き、何を体験するかが大事です。
 たとえ人々から拒まれても、主が与えたビジョンなら最後までやり遂げる。そして主を信頼して忍耐する。
 私たちがどんな状況にあるとしても、主の御手が強く捕えています。
 青年たちのこれからの活躍を期待します。

預言者エゼキエルの誕生

 今日の本文はエゼキエルが預言者として必要な資質を備えられる場面です。
 エゼキエルは主の御心が記された巻物を食べました。それは口に甘く、エゼキエルに神の愛を感じさせました。
 イスラエルの民は厚顔無恥で、御言葉を耳に入れようともしません。主はエゼキエルの顔もダイヤモンドのように硬くします。人の反応を気にせず、主の御言葉を宣言するためです。
 エゼキエルは全地を満たす主の栄光のとどろきを聞きました。その心は主の怒りで燃えていました。エゼキエルが実際に預言者として働くためには忍耐する期間が必要でした。訓練期間を経て、主に用いられるものになっていきます。
 エゼキエルは30歳の青年の時期に神の愛を体験し、人の評価に流されない強い心をもって試練の期間を経験しました。その間も主の御手が強く捕えていました。こうして預言者エゼキエルが誕生します。
 今日の本文を通して、若いうちから神の愛を体験し、人の評価に流されず、訓練期間を経て成長していく私たちになることを期待します。

巻物で腹を満たせ

 まず今日の本文の1節から3節で『1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」2 わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、3 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。』 とあります。
 何を見て聞いて体験するかが大事です。

食べて語れ

 主はエゼキエルに、「目の前にあるものを食べなさい」と言われました。
 エゼキエルの目の前には巻物が差し出されていました。表だけでなく裏側にまで哀歌と呻きと嘆きの言葉が書かれた巻物です。イスラエルに対する主の溢れるほどの悲しみが記されています。
 主は「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と言われました。
 ユダヤの文化には、食べた物と同質化するという考えがありました。アダムが善悪を知る木の実を食べたときに目が開かれたようにです。
 ですから汚れた物を食べれば自分も汚れると思いました。
 イエス・キリストはこの考えをはっきりと否定しました。食べた物はどうせ体から出て行くのです。むしろ人の心から出てくるものが人を汚します。
 豚肉を食べたら豚のようになるわけではないし、コラーゲンを食べたからといって肌がプリプリになるとは言えません。教科書を食べても頭は良くなりません。
 事実はそうなのですが、主はユダヤ人の持つ文化的な背景を利用して御言葉をその心に納めさせます。主の御心を体験的に伝えるのです。
 エレミヤも巻物を食べました。
 主は巻物を食べて腹を満たせと言われます。
 主の御言葉が私たちの心を満たすとき、私たちはこの口を通して主の御言葉を伝えることができます。

口に甘い

ドリアン

 エゼキエルがその巻物を食べると、蜜のように甘い味がしました。書かれている内容は苦々しいものですが、受け入れる者にはその甘さがわかるのです。
 ドリアンという果物を食べたことがありますか。果物の王様とも言われます。私はタイに行った時に初めて食べました。バンコクにあるマーケットで買ったのですが、とにかく臭いです。腐った匂いがします。表面もトゲに覆われた硬い殻で覆われています。明らかにこれは食べてはいけないものだという危険なサインを発しています。ドリアンを最初に食べた人は本物の勇者だと思います。
 そのように口に入れるまでのハードルが非常に高いですが、口に入れると甘みが広がります。食べてみてようやく、その魅力がわかりました。
 主の御心も、受け入れる者には甘い言葉です。厳しい言葉の内に愛があることに気づきます。神は愛だからです。
 私たちはそのことを知っているでしょうか。ただ聖書を読んで知識的に知っているだけではいけません。体験的に知っているかどうかが大事です。
 神の愛を見て、聞いて、体験しているでしょうか。

神の愛を体験する

 私たちは普段、何を見て、聞いて、体験しているでしょうか。
 子どもの頃に虐待を受けた人は、親になってから自分の子供に虐待する可能性が高いです。
 日常的に暴力を振るわれたり、暴力的な言葉を聞いたり、暴力的な映像を見たりすれば、その心に暴力的な欲求が根付きます。そして暴力的な行動へ駆り立てます。本人が意識していなくても、暴力的な言葉が出てしまい、暴力を振るいます。
 同様に神の愛を見て聞いて体験した人は、愛する人になっていきます。
 使徒ヨハネはかつて兄のヤコブと共にボアネルゲスというあだ名がつけられていました。雷の子たちという意味です。それはヤコブとヨハネが暴力的な性格だったことに由来します。
 ところが使徒ヨハネが書いた福音書、手紙、黙示録の中には神の愛が強調して書かれています。愛の使徒と呼ばれるほどです。
 どうして暴力的な言動が身についた人が愛の使徒になったのでしょうか。
 イエス・キリストを通して示された神の愛を体験したからです。
 私たちの罪のために神はその独り子をお与えになった。その愛を知ったヨハネは、自分のことを「主から愛された弟子」と話します。
 愛を知っている者が、愛することができます。
 罪人の私が神の子とされた。その無限に大きな愛を受ける。その時私たちは、今こそキリストの愛に応えて、命を、全てをささげようという情熱が湧いてくるのです。
 神の愛を見て聞いて体験した者はその愛を隠すことができません。

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

使徒言行録4:20

 日々、神の愛を見て、聞いて、体験していくことを願います。

ダイヤモンドのような額

 また今日の本文の4節から11節で『4 主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。5 まことに、あなたは、不可解な言語や難しい言葉を語る民にではなく、イスラエルの家に遣わされる。6 あなたは聞き取ることができない不可解な言語や難しい言葉を語る多くの民に遣わされるのではない。もしわたしがあなたをそれらの民に遣わすのなら、彼らはあなたに聞き従うであろう。7 しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。8 今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。9 あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らが反逆の家だからといって、彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」10 更に主は言われた。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。11 そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」』 とあります。
 人の反応に流されてはいけません。

イスラエルは聞こうとしない

 エゼキエルが遣わされるのは同胞のイスラエル人のところです。言葉が通じます。不可解な言語や難しい言葉を語る異邦人のところではありません。

 言葉のギャップがあると、福音を伝えるのは難しいです。
 先日、京都の寺で漢文の聖書が発見されました。150年以上前の香港で印刷されたものでした。まだキリスト教が禁止されていた時代ですが、寺の住職が研究するために輸入したもののようです。

京の寺に漢文聖書初版 真宗大谷派で研究か 香港で1855年発行 代表訳本 「世界的に希少」

 その聖書では、神のことを神ではなく上帝と訳していました。
 日本語でも問題になるのですが、神というのはたくさんあるわけです。唯一の神を表現する単語がそもそも存在しません。
 中国の宣教でも言葉の問題があり、昔の中国で崇拝されていた上帝という単語を使って他の神々と区別したようです。
 しかし原語のヘブライ語がわかれば、そういう翻訳の問題は回避できます。
 メッセージもヘブライ語やギリシア語から意味を読み解きなさいと神学校で教えられます。教えられた通りにするのは大変です。

 エゼキエルが伝える相手は同じイスラエル人。ヘブライ語が母国語です。
 しかし主は、イスラエルは聞こうとしないと言われます。
 言葉の通じない異邦人は聞き従うが、イスラエルは聞こうとしない。
 大きなギャップがあります。一方は聞いて、さらに従う。
 他方は従うどころか聞こうともしない。耳に入れようともしないのです。

受け入れられない

 主はその理由を、額も硬く心も硬いからだと言われます。
 心が石のように頑なになっていると、主の御言葉に聞き従うことはできません。
 エジプトのファラオは心が頑なだったので、主の驚くべき奇跡を見ても変わりませんでした。
 イスラエルの民はさらに額から硬いので、御言葉が入り込む余地がないのです。厚顔無恥という言葉がありますが、まさにその通りです。
 主の愛が示されているのに、なりふり構わず自分の考えに従って生きる。
 私たちにもそういう心があります。
 主が赦してくださったのに、罪責感を持ち続ける。主が重荷を降ろしていいと言っているのに、自分で握り続ける。主が共にいてくださっているのに、自分だけを見て悪い感情のとりこになる。
 聖霊によって肉のように柔らかい心にしていただかなければわかりません。

たじろぐな

ダイヤモンド

 このような頑なな民に御言葉を伝えても拒まれることはわかりきっています。
 そこで主はエゼキエルの額も硬くしました。岩よりも硬いダイヤモンドのようにすると言われます。
 ダイヤモンドといえば最も硬い宝石です。
 エゼキエルも額が硬いので、人々がどのような態度をとっても、なりふり構わず自分の使命を全うできます。
 ただ「主なる神はこう言われる」と宣言すればいいのです。

 私たちは主の御言葉に対しては硬い額で拒みますが、人々の反応には流されやすいものです。
 どうせ無理だと言われれば諦めてしまう。失敗して非難されることを恐れて挑戦することすらしない。いいねの数が気になったり、既読がつくのに返事がないことにいら立つ。礼拝をささげるときにも、あの人が来ていないとか、今日はあの人がいるとか人を見てしまう。
 私たちはただ主だけを見上げればいいのです。霊によって自分の足で立つのです。
 主が与えたビジョンを、ダイヤモンドのように硬く守り、最後まで成し遂げていくのです。

霊が引き上げる

 最後に今日の本文の12節から15節で『12 そのとき、霊がわたしを引き上げた。わたしは背後に、大きなとどろく音を聞いた。主の栄光が、その御座から上るときの音である。13 あの生き物の翼が互いに触れ合う音、生き物の傍らの車輪の音、かの大きなとどろく音を聞いた。14 霊はわたしを引き上げて連れ去った。わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた。15 こうしてわたしは、ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚民のもとに来たが、彼らの住んでいるそのところに座り、ぼう然として七日間、彼らの間にとどまっていた。』 とあります。
 主の御手が強く捕えているので訓練期間を乗り越えられます。

とどろく音

 エゼキエルは霊によって引き上げられ、背後に大きなとどろく音を聞きました。それは主の栄光が御座から上るときの音でした。
 全地を支配する主の栄光がこの世界に響き渡っています。
 そして私たちが使命を受けて立ち上がるとき、主ご自身が立ち上がるのです。

怒りに燃える心

 エゼキエルが民のもとに出て行くとき、苦々しく怒りに燃える心をもって出て行きました。
 この怒りは主の御心です。
 主の怒りがエゼキエルの怒りになりました。

ぼう然とする

 しかしその心があってすぐに主の働きができるわけではありません。
 エゼキエルはテル・アビブにいる捕囚民のところに行きましたが、7日間にわたって彼らの間に座っていました。しかもぼう然として、何もできなかったのです。
 エゼキエルは圧倒的な主の顕現に触れ、何もできなくなってしまいました。
 パウロにもそのような時期がありました。復活された主に出会ったパウロは、3日間目が見えなくなってしまいました。
 いただいた主の御言葉を消化し、自分のものとする訓練期間が必要です。
 アブラハムが約束を受けてからイサクが与えられるまで25年。イスラエルの民がエジプトを出てから約束の地に入るまでは40年かかりました。
 私たちにも訓練期間が必要です。
 エゼキエルのこの7日間は何を意味しているのでしょうか。
 1つは祭司の任職式です。
 祭司は30歳になってから7日間の任職式を経て正式に任職されます。エゼキエルは神殿で祭司になる道を断たれていましたが、30歳になったときに主ご自身が呼ばれ、主に仕える祭司、預言者としての召命を受けました。
 この7日間はエゼキエルが正式に預言者として働き始めるまでの準備期間だったと言えます。
 2つ目は喪に服す期間です。
 イスラエルの民は家族が亡くなってから7日間は喪に服しました。エゼキエルにとっても、自分の同胞イスラエルが神から離れ死んでいる状態です。そこでイスラエルのために喪に服したと言えます。
 いずれにしても、これがエゼキエルの働きの始まりでした。
 私たちも若さだけ、情熱だけで働けるわけではありません。忍耐しなければいけない期間があります。
 しかし寒い冬を忍耐した桜がきれいな花を咲かせるように、この忍耐期間を超えたとき、私たちは豊かな実を結ぶのです。

 若いうちに主の愛を見て聞いて体験しましょう。人の反応に流されず、試練を乗り越えて立ちましょう。
 主の御手が強く捕えています。

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