墓に葬られたイエス

受難5

墓に葬られたイエス

マルコによる福音書 15:42-46

42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。

イエスは死んで葬られ陰府にくだった

キリストの埋葬(カラヴァッジョ)

 今日の本文はイエス・キリストの埋葬の場面です。
 キリスト教の信仰の柱は十字架と復活です。
 しかし使徒信条の中には、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」とあります。
 ただ死んで復活したというだけではなく、葬られ、陰府にくだったと言及されています。
 イエス様の埋葬にはどんな意味があるのでしょうか。

絶望の谷底

 イエス・キリストは十字架で死にました。
 総督ピラトは不思議に思いました。十字架刑はじわじわ死に至らせる処刑法です。数日生き続ける人もいます。それが半日もしないうちに死んでしまったのか。あの正しい人がそんなに早く死んでしまったのか。
 百人隊長にも確認しました。十字架につけられた人は足の骨を折って逃げられなくしますが、イエスの足は折りませんでした。明らかに死んでいたからです。その上、一人の兵士が槍でイエスのわき腹を刺しました。すると血と水が分かれて出てきました。これは既に心臓が止まっているという証拠だそうです。
 イエスは確かに死んだのです。
 救い主が死にました。イエスに希望を置いていた人たちは大きな失望を感じたことでしょう。希望は絶たれた。死んでしまった。もうどうしようもありません。完全な敗北です。
 アリマタヤのヨセフはサンヘドリンの議員でありながら、ひそかに神の国を待ち望んでいました。しかしイエスが死んでしまってはどうしようもありません。彼の希望は失望に終わりました。はかない夢ではありましたが、夢を見させてくれたイエスへの労いでしょうか。アリマタヤのヨセフは自分で用意した墓の中にイエスを葬ることにしました。

人の力でどうしようもない絶望

The Vision of the Valley of Dry Bones
(Gustave Dore)

 私たちは希望を持てなくなることがあります。
 今まで頼りにしていたものが頼れなくなってしまった。大災害を前にして、またコロナウイルスに対して、自分の能力も知識も富も役に立たないことを思い知らされます。大切にしていた人間関係も絶たれ、収入も失い、誰も助けてくれない。どこに希望を置いたらいいのかわからなくなります。
 それはまるで絶望の谷底。深く暗く冷たいどん底にいるかのような状況です。
 自分で這い上がることはできず、自分がそこにいることを誰も気づいてくれません。
 そこで人は生きる力を失い、枯れた骨になるのです。

主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」

エゼキエル書37:2-3

 枯れた骨が再び生きることができるか。
 エゼキエルは「あなたのみがご存じです」と答えます。答えはわかっています。無理なのです。
 人の力ではどうしようもない絶望というのがあるのです。

そこにもイエスがいる

 その絶望の谷底に声が響きます。「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」と。
 神の言葉が宣言されると、谷間に風が吹き込み、枯れた骨が生き返りました。
 神の言葉、それはイエス・キリストです。
 人にはどうしようもない絶望の中にもイエスが来て、命の息を吹き込みます。
 使徒信条にある陰府とは、すべての死者が行くところだと考えられています。地下の深いところです。
 イエス・キリストは確かに死に、3日間冷たく暗い墓に葬られ、そして最も深いところ、死の世界まで下っていたのです。
 イエスは最も深く暗く冷たいところにもいます。
 だから私たちがどんなに深く暗く冷たいところにいるとしても、そこでもイエス様は私たちを見捨てることなく、共にいてくださいます。
 絶望の谷底に神の言葉が響く。神の息吹が吹き込んでくる。
 神の言葉であるイエス様によって生かされていきます。

埋葬は手放すとき

 埋葬は、手放すときでもあります。

人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。

コヘレトの言葉5:14

 生前多くの富と名声を得たとしても、陰府にまでは持って行けません。
 立派な墓を建て、豪華な副葬品を添えることはできるかもしれません。しかしそれが何の役に立つのでしょう。

 イエスの死はアリマタヤのヨセフに、自分の信仰を思い起こさせました。
 今までは自分の立場を守るために信仰を隠してきました。しかしイエスの死を聞き、彼は勇気を出してピラトのもとへ行き、イエスの遺体を引き取りました。
 罪人の頭として処刑された人の遺体を引き取ることは、自分の名声を傷つけかねません。死刑囚の仲間だと思われるかもしれません。
 アリマタヤのヨセフのこの行動は、自分がイエスを救い主と信じ、神の国を待ち望んでいたのだと表明することになりました。

 またイエスの死はピラトに罪意識を与えました。
 ピラトはイエス様に罪がないとわかっていましたが、自分の立場を守るために十字架刑を命じました。
 十字架はユダヤ人が望んだことであり、暴動を避けるために仕方なかった。罪なき人の血を流した責任は私にはない。ピラトはそう思っていました。
 しかしイエスの死を聞き、彼の心も揺さぶられたことでしょう。自分がイエスを殺したのだと。

 そしてイエスの死は百人隊長の心も動かしました。
 ローマ人である彼に聖書の予備知識はなく、イエスをただの死刑囚としてしか見ていなかったでしょう。
 しかしたった数時間、十字架の死を見届けた彼はこう言いました。

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

マルコによる福音書15:39

 信仰の告白です。

余計なものを手放すと大切なものを見出す

 絶望的な状況では、余計なものは捨てるしかありません。
 何の役にも立たないものを捨てていくと、自分が大切にしていたものに気づかされます。
 自分の名声やプライドなんてどうでもいい。私はイエスを主と信じ、神の国を待ち望んでいたのだと気づかされます。
 そして自分を見つめていくと、自分の内にある醜さがわかってきます。
 自分は関係ないと思っていた。しかし自分の罪がイエスを殺したのだとわかります。
 そしてこの絶望的な状況から、醜い罪から救ってくれるのは、イエス・キリストしかないのだと気づかされます。
 神はそのために絶望の谷底を通らせることがあるのかもしれません。
 神は私たちを苦しめたいのではなく、立ち返って生きることを願っています。

墓は大きな石で閉ざされた

 墓は大きな石で封印されました。
 人の力では動かせません。動かす力はあっても、動かす権威がありません。
 人間の力ではどうしようもない問題があります。大きな石のように行く手をふさぎ、山のように立ちはだかります。
 しかしイエスを信じるなら山が動きます。

はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

マルコによる福音書11:23

 どんなに大きな問題が目の前にあっても、イエスを信じるときに問題が問題ではなくなります。

だれがあの石を転がしてくれるのか

 イエスが埋葬されて3日目の朝、女性の弟子たちはイエス様の遺体に香料を塗りに出かけました。
 墓に行きながら、彼女たちはこう話し合っていました。
 「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか。」
 そんな重大な問題がありながら、彼女たちは香料を買い、墓に向かって出発しています。
 まるでそんな問題は初めから存在していないかのように。
 事実、彼女たちが墓に着くと、石は既に脇に転がしてありました。

 人間の力でどうしようもない問題にぶつかっても、イエスを信じるなら問題が問題ではなくなります。
 深い谷間に突き落とされ、自分の力では這い上がれない絶壁が立ちはだかっていても、イエスが共にいます。
 主に望みを置くなら、鷲のように翼を張って上ることができます。握りしめていたものを手放し空いたその手に神の息吹を受け、高く高く舞うのです。

 イエスの埋葬は人の弱さと神の強さを物語っています。

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