救いのしるし インマヌエル

アドベント

救いのしるし インマヌエル

イザヤ書 7:10-17

10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。15 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。16 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

思いもよらない一年だった

 今年もこの季節がやってきました。

 グラタンコロッケバーガーの季節です。
 マクドナルドのCMの中で、男性が「思いもよらない一年だった」と言うと、多部未華子さん演じる女性が「思った通りの一年なんてあった?」と答えます。
 その通りです。毎年毎年、思いもよらない出来事に振り回されます。
 先の計画を立てても、その通りうまくいくことは少ないです。
 特に去年と今年はコロナウイルスに振り回され続けています。先日も新たな変異ウイルスの出現で、国土交通省が航空各社に対し、日本に到着するすべての国際線の新規予約を停止するように要請しました。しかしすぐに取り下げられました。
 政府も振り回されています。
 これでは先の計画を立てることが難しいです。
 将来に対する期待など持てません。
 将来への期待がないなら、人生などどうなってもいいと投げ出してしまう人も出てきます。人生をあきらめてしまう人もいます。
 将来のある若者が殺人など凶悪犯罪を起こす事件が相次いでいます。その背景には、人生の不安定さが影響しているのではないかと思います。
 揺り動かされない安心が必要です。

揺るぎない神の言葉と向き合う

 今日の本文は南ユダのアハズ王の時代の話です。
 アハズ王は主を捨て、バアルを崇拝しました。主はアラム王レツィンと北イスラエル王ペカの連合軍を用い、南ユダを攻撃しました。1日で12万人の兵が戦死し、20万人の女性や子供が捕虜になりました。
 連合軍はさらにエルサレムを包囲します。
 しかしオデドという預言者が北イスラエルのサマリアに現れ、兄弟の国の民を捕虜にしたことについて主が激しく怒っていることを伝えました。そこで北イスラエルの兵は捕虜に服を着せ、食事をさせ、南ユダに帰しました。
 こうして南ユダは主の怒りを受けましたが、憐れみを受けました。
 ただ主の恵みです。
 それでも民の心は、アラムと北イスラエルが同盟を結んだことで、木が風に揺れ動くように動揺しました。

恐れるな

 そこで主は預言者イザヤを遣わし、アハズに「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」と言わせます。
 レツィンとペカの脅しは実現のしようがありません。彼らは燃え残ってくすぶる切り株であり、そこから何かが生まれることはないからです。

しるしを求めよ

 そして主は「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」と言います。 
 イスラエルの指導者の中には、主の言葉が本当かどうかわからず証拠を求めた人たちがいます。
 モーセに主が現れたとき、民に信用してもらえないと思いました。そこで主はモーセの杖を蛇に変えます。
 ギデオンが士師として選ばれたとき、主は羊の毛で奇跡を起こしました。
 もし主の言葉が本当かどうか知りたければ、試してみればいいのです。バアルなどに聞かずに。

変わらないのは神と神の言葉

 人の言葉を恐れる必要はありません。
 人に何の力があるでしょう。力や富を持つように見える人間も、草のようなものです。

草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

イザヤ書40:8

 揺るぎないのは神様ご自身と神の言葉です。
 人が作った偶像も空しいものです。何の役にも立ちません。
 だからこの世の嵐に揺り動かされるとき、きのうも今日も永遠に変わらないイエス様、神様を信頼するのです。
 イエス様の御言葉を実践し、堅固な岩の上に立つのです。

神の約束を試してみなさい

 神様の約束に対し、マリアは「お言葉通りこの身になりますように」と告白しました。
 しかし本当だろうかと疑ってしまうのが人間。だから主は、その御言葉が真実であるしるしを求めよと言います。
 祈りが聞かれるか不安があるなら、「わたしを呼べ」と主は言います。主は隠された大いなることを知らせてくれます。
 神の恵みがわからないなら、十分の一のささげものをしてみなさい。主は天の窓を開いて祝福を限りなく注ぎます。
 ザカリアのように沈黙し、静かに神様の約束に向き合うこともいいでしょう。
 そうして、神の言葉に向き合う時間を持つのです。

神の言葉が人間になって私たちの間に住む

 クリスマスは神の言葉が実現した時でもあります。
 イスラエルの民に約束されていた、メシアの到来。その約束が成就したのがクリスマスです。
 人々が待ち望んでいた神の言葉が、まさに目に見える形で、手で触れられる存在として私たちの間に住まわれたのです。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書1:14

 求めるならば、神の言葉は私たちの目の前で実現します。人生の中で体験できます。
 この決して揺るがない神の言葉と向き合ってください。

神が共にいる

 アハズは神の言葉と向き合うことを避けました。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
 申命記にも「主を試してはならない」とありますから、立派なことを言っているようにも聞こえます。
 実際は神の言葉と向き合って自分の罪が明らかにされることから逃げているだけです。神の言葉と向き合えば、自分の罪深さが示されます。
 そこでアハズは主なる神様ではなく、アッシリア王ティグラト・ピレセルを頼ります。後にアッシリアはアラムと北イスラエルを滅ぼすことになるわけですが、南ユダもアッシリアによって苦しめられることになります。
 主を避けた結果、間違ったものを頼ってしまいました。

自分の罪と向き合うことが救いの始まり

 部屋が暗ければ、汚れは目立ちません。汚れを見たくなければ明かりをつけなければいいです。
 しかしその汚れを放置すれば虫がわき、カビが生え、柱が腐り、家が崩れます。
 だから明かりをつけ、汚れと向き合う必要があります。
 神の言葉と向き合い、自分の罪深さを知る必要があります。
 そこで神に立ち返り、救いの恵みを受け取ればいいのです。
 神はアハズに救いの恵みを提供しています。
 しかし自分の罪と向き合うことを避けるなら、救いの恵みにあずかることはできません。

死ぬべき罪人の間に神は共に住む

 そこで主は救いのしるしを示します。

 「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」

 おとめとは、未婚の女性のことです。結婚していない女性の妊娠は死に価する罪とされていました。
 しかしおとめが身ごもって男の子を産む。それはあってはいけないことです。死に価する罪人の姿です。
 それでも彼女は男の子を産み、その子をインマヌエルと呼びます。
 インマヌエルとは、「神は私たちと共にいる」という意味です。
 おとめが身ごもるという罪の中にあっても、神は共にいるという約束が語られています。
 死ぬべき罪の中にある人間の間に、神は一緒に住んでいてくださいます。
 アハズは自分の罪の発覚を恐れますが、神はその罪人の間にいることを選ぶのです。
 人の罪を知っている神が、その罪から救うために自ら来てくださるのです。

救い主がここにいる

 この約束の言葉が新約聖書の冒頭で引用されます。ヨセフに天使が現れた場面です。

21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイによる福音書1:21-23

 このときヨセフはマリアと婚約していました。まだ結婚はしていませんから、マリアはおとめです。
 そのマリアが聖霊によって身ごもったと知らせてくれました。聖霊によって身ごもるなど、信じられますか。おとめが身ごもるのは死に価する罪です。ヨセフは葛藤したでしょう。
 そんなヨセフに天使は、「この子は自分の民を罪から救う」と約束します。
 そこでヨセフはイザヤの預言を思い出したことでしょう。そしておとめが身ごもったことを救いのしるしとして受け取ったのではないでしょうか。
 インマヌエルの神がここにいるのだとヨセフは気づきました。
 神は罪ある私たちを滅ぼすためにではなく、救うために来ました。
 だから私たちは自分の罪が明らかになることを恐れず、神の前に立つことができます。
 光の方へ近づいてください。そして世の光であるイエス様を信じ受け入れるなら、救われます。

死の陰の谷を行く時も災いを恐れない

 だから恐れなくていいのです。救いのしるしインマヌエルの約束が与えられています。神は私たちと共にいます。
 ダビデはこう告白しました。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

詩編23:4

 神が私と共にいてくださるから、私は災いを恐れない。
 人が何を言ってきても、この世界がどんなに揺り動かされても、私は災いを恐れない。
 神が共にいて必要を満たしてくださるから、私には何も欠けることがない。
 この不安定な現代。激しい嵐に翻弄される船のように揺り動かされています。それでも神が共にいてくださるから、人知を超えた神の平安があります。
 先のことがわからず、将来への希望が持てません。しかし神は私たちに永遠の希望を約束しています。神の国の希望です。だから過去に何があったとしても、現在がどんな状況だとしても、そんなことは関係ありません。過去に縛られることも、現在に揺り動かされることもありません。決して変わらない永遠の希望に結び付けられているからです。
 死さえも恐れません。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。神はスズメ1羽さえ心にかけていてくださる。それなら私たち一人一人を心配しないはずがありません。あなたの髪の毛の数も弱さも知っている神が、あなたと共にいます。
 だから揺り動かされません。

 私たちには救いのしるし、インマヌエルの神様が与えられています。
 このクリスマスの時期、神の言葉と向き合い、イエス様に出会ってください。
 イエス様と共に歩めば、どんな環境や状況にも揺り動かされずに希望を持って歩むことができます。

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