破れ口に立つ者は誰か

エゼキエル書講解32

破れ口に立つ者は誰か

エゼキエル書 22:23-31

23 主の言葉がわたしに臨んだ。24 「人の子よ、エルサレムに語りなさい。お前は憤りの日に、雨も降らず清められることもない土地だ。25 都の中に預言者たちの陰謀がある。獅子がほえ、獲物を引き裂くように、都の中で人々は食われ、富や財宝が奪われ、やもめの数は増した。26 祭司たちはわたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚した。彼らは聖と俗とを区別せず、浄と汚れの区別を教えず、わたしの安息日に目を覆った。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。27 また、高官たちは都の中で獲物を引き裂く狼のようだ。彼らは不正の利を得るために、血を流し、人々を殺す。28 また、預言者たちは、城壁に漆喰で上塗りをした。彼らは空しい幻を見、欺きの占いをし、主が語られないのに、『主なる神はこう言われる』と言う。29 国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。30 この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。31 それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、怒りの火によって彼らを滅ぼし、彼らの行いの報いをその頭上に返す」と主なる神は言われる。

献身的な守備

 サッカーのワールドカップ ロシア大会が開幕し、日々熱戦が繰り広げられています。このような国の名誉をかけた大会では何が起こるかわからない魅力があります。
 メッシなどスター選手をそろえた南米の強豪アルゼンチンが2試合終えて勝ち点1。グループリーグ敗退の危機に立たされています。
 同じく南米のブラジルもなかなか勝てませんでした。コスタリカ戦でも怒涛の攻撃をしかけますが、鉄壁の守備に阻まれます。このまま引き分けで終わるかと思われましたが、終了間際、アディショナルタイムに2点を取り、劇的な勝利をおさめました。エースのネイマールが試合終了後に涙を流すシーンが印象的でした。
 韓国といえば2002年のワールドカップ日韓大会で4位という成績を修め、アジアの中ではサッカーの強豪です。しかしその韓国でさえ2戦続けて惜しくも敗れてしまいました。
 日本は試合前の評判が最低でした。勝てない勝てないと言われ続け、直前になって監督が交代しました。初戦の相手は南米のコロンビア。前回のブラジル大会でも対戦し、敗れている因縁の相手です。こちらもブラジル大会の得点王ハメス・ロドリゲス、虎の異名を持つファルカオなどスターぞろいの強豪国です。ところが試合開始早々PKを取り、それを香川が落ち着いて決めます。途中で追いつかれますが、コーナーキックから大迫がヘディングで決勝点を挙げ、勝利しました。
 今夜セネガルと対戦します。一人一人の身体能力の高さに加え、組織力のあるチームです。楽しみです。
 サッカーのようなチームスポーツは、一人一人の能力の高さだけでは勝てません。それぞれのポジションが、任された役割を果たすことが重要です。
 もし自分の守備範囲を守らなければ、そこに穴が開いてしまいます。そこから攻め込まれてしまいます。
 もし穴が開くとしても、誰か献身的な人がその破れ口に立ってくれればいいです。
 サッカーマンガのキャプテン翼では、石崎くんが顔面ブロックという技でゴールを守りました。相手のシュートを顔で止めるのです。このような献身をする人が求められています。

破れ口に立つ人を探している

 今日は主がエルサレムを雨も降らず清められることもない土地だと語る場面です。
 役割を果たすことができない土地は捨てられてしまいます。
 主の御心は滅ぼすことではありません。ですから破れ口に立つ人を探します。

不毛の地

 まず今日の本文の23節から29節に『23 主の言葉がわたしに臨んだ。24 「人の子よ、エルサレムに語りなさい。お前は憤りの日に、雨も降らず清められることもない土地だ。25 都の中に預言者たちの陰謀がある。獅子がほえ、獲物を引き裂くように、都の中で人々は食われ、富や財宝が奪われ、やもめの数は増した。26 祭司たちはわたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚した。彼らは聖と俗とを区別せず、浄と汚れの区別を教えず、わたしの安息日に目を覆った。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。27 また、高官たちは都の中で獲物を引き裂く狼のようだ。彼らは不正の利を得るために、血を流し、人々を殺す。28 また、預言者たちは、城壁に漆喰で上塗りをした。彼らは空しい幻を見、欺きの占いをし、主が語られないのに、『主なる神はこう言われる』と言う。29 国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。』 とあります。
 私たちは神なしに生きられない存在です。

水の源から離れる

 主はエゼキエルに、エルサレムに向けて預言するよう命じます。「お前は憤りの日に、雨も降らず清められることもない土地だ」と。
 雨が降らなければどうなるでしょうか。
 洗濯物がよく乾いていいですね。梅雨の時期の日本ならそう思いますが、もともと乾燥地帯のイスラエルで雨が降らないというのは大きな問題です。
 雨が降らなければ土地は渇いてしまいます。野菜が育たなくなります。木も枯れてしまい、果物が実りません。そうすると野菜もパンも果物も油もなくなってしまいます。さらに草がなくなれば家畜も食べる物がなくてやせてしまいます。肉もミルクもなくなってしまいます。飲む水も遠くの井戸に行かなければなりません。
 そのような土地では生きていけません。人が住む土地としての役割を果たさないので、見捨てられてしまいます。

役割を果たさない

 イスラエルには主なる神様から特別な権威を委ねられた職業が3つありました。
 それは油を注がれて任命された職業です。預言者、祭司、王です。
 それぞれ、神と人の間に立って果たすべき役割がありました。
 預言者の役割は主の御心を伝えること。祭司の役割は神様を聖なるものとして区別し、神と人とを和解すること。王の役割は主に従って民を導き守ること。

 ところがエルサレムの中で彼らは自分たちの役割を果たしませんでした。
 預言者は主の御心を伝えるべきなのに、彼らの心にあったのは陰謀でした。主の御心ではなく、よこしまな自分の考えがありました。
 エレミヤは主の御心を伝え、エルサレムにさばきを伝えました。
 しかし他の預言者たちは城壁に漆喰で上塗りをしました。表面上はよく見えます。しかし白く塗られた墓のように、その内側は罪のために汚れています。
 主が語っていないのに『主なる神はこう言われる』と欺くために、多くの人々が殺され、富や財宝も奪われることになります。
 祭司は聖と俗を区別するべきです。主は聖なる方であり、イスラエルは聖なる国民です。それを示すためのしるしとして与えられたのが安息日でした。
 ところが祭司たちはその区別を曖昧にし、安息日でも商売することを許しました。こうして主の名が汚されることになりました。
 王や高官は民を守り導くべきなのに、彼らは自分の立場のために人を利用し、自分の利益のために弱い人々から搾取していました。
 指導者がそのような者なので、国の民も貧しい者、乏しい者、寄留者が不当に抑圧されていました。正義も憐れみも存在しません。

 かつてエジプトで奴隷だった彼らを主は救い出しました。
 しかしエルサレムの中に、そのような主の代わりに正義と憐れみを行う者がいなくなってしまったのです。

汚れは洗われない

 エルサレムは雨も降らず清められることもない土地。
 水は罪や汚れを洗う象徴としても用いられます。洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を伝えました。
 しかし今エルサレムで罪を洗う水が存在しない。だとしたら人々は滅びに向かって行くしかありません。
 水のない土地というのはこういうものです。

 イエス・キリストは渇く者は来なさい。枯れることのない命の水を価なしに飲ませようと言われました。
 私たちを潤し、生かし、洗い清める命の水は主から来ます。
 主から離れてしまうとこの水がなくなり、枯れ果ててしまうのです。

 1週間の生活の中で御言葉も祈りもない生活を送ったことがあるでしょうか。忙しい現代に生きる私たちは経験があると思います。
 どうなりましたか。
 枯れます。
 仕事や勉強はできるかもしれない。しかしどこか空しい。この世の楽しみでそれを満たそうとしても満たされません。
 御言葉を聞いたり、祈ったり、兄弟姉妹と交わったりする時間が必要です。
 私たちは主なしには生きられません。恵みなしには生きられないのです。

滅ぼされるべき存在

 次に今日の本文の31節に『31 それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、怒りの火によって彼らを滅ぼし、彼らの行いの報いをその頭上に返す」と主なる神は言われる。』 とあります。
 役割を果たさないものは捨てられます。

塩気のない塩

 先々週、教会のゴミ捨てをしました。軽トラック2台分のゴミを捨てました。そんなたくさんのゴミがこの教会にあったのです。
 電子レンジや自転車も捨てました。もとはいいものです。しかし壊れてしまうとゴミでしかありません。
 修理できればいいです。しかし治せないならゴミです。

 私たちも同じです。
 イエス・キリストはマタイによる福音書で私たちのことを地の塩、世の光だと言われました。私たちはこの地、この世の中に存在し、よい影響を与える使命があるということです。
 イスラエルで塩は岩から取られました。もしその岩に塩気がなくなってしまったなら、どうすればいいでしょうか。詰め替え用の塩があって補充するわけでもありません。
 これはただの頑なな土の塊です。何の役にも立ちません。ゴミとして捨てられるだけです。

火が臨む

 ところがマルコは、塩味をつける方法を教えています。

人は皆、火で塩味を付けられる。

マルコによる福音書9:49

 ここでいう火は聖霊の象徴です。
 罪や汚れを火によって焼き尽くすことによって、人は自分の内に塩気を持ちます。
 こうしてそれぞれの役割を果たし、互いに平和に過ごしなさいということです。

 罪や汚れを洗い清めるのは水だけではありません。火も使われます。
 銀、銅、鉄、錫、鉛などの金属はもともとは鉱石という形で山の中にあります。それを燃える炉の中に入れて溶かし、不純物を分離していきます。こうして金属を精錬していくのです。
 そのとき出てきた不純物のことを金カスと言います。

金カスになる

 今日の本文の前の箇所を見ると、主はイスラエルの民こそ金カスだと言っています。
 彼らは火で精錬されるべき銀のような存在だったのに、火で焼き尽くされるべき金カスになってしまった。
 それは彼らが自分たちの使命、役割を果たさなかったからです。
 塩気のない塩のように、捨てられ、焼き滅ぼされる存在になってしまいました。

 私たちは自分の役割を果たしているでしょうか。
 主なる神様は私たちそれぞれに賜物を分け与えました。それを用いることが私たちの役割です。
 賜物は人によって違います。それは1つの体の中に様々な部分があるようなものです。それぞれの部分が貴い存在です。
 どうすればそれぞれの部分が自分の役割を果たすことができるでしょうか。
 神経で脳とつながり、筋肉で互いにつながっていればいいです。
 キリストの体である私たちも、頭であるキリストとつながり、兄弟姉妹と一緒にいることで使命を果たすことができます。
 私たちはキリストとつながり、互いに愛し合うことで生きる存在です。

破れ口に立つ

 最後に今日の本文の30節に『30 この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。』 とあります。
 主は破れ口に立つ人を探しています。

滅ぼさなくていいように

 主はエルサレムを滅ぼそうとしていますが、主はどういう気持ちでしょうか。
 精錬するつもりで火に入れたのに、金カスになって出てきたのを見たらどう思うでしょうか。

 インスタントの焼きそばを作ったことがありますか。
 フタを開けてお湯を入れ、3分待ちます。その後お湯を捨てます。
 そのとき勢いよく容器を傾けると、お湯と一緒に麺も流れてしまうことがあります。
 経験ありますか。どういう気持ちになりますか。
 ちょ、ちょっと待って!お前も?と思います。

 主の御心は人の罪と汚れを焼き滅ぼすことです。
 それなのにイスラエルの民も焼き尽くされ、金カスになってしまった。
 えー、お前もかよ。という気持ちではないでしょうか。
 主の御心は滅ぼすことではないのです。
 愛の神は誰の死も喜びません。
 罪人が悔い改め生きることを願います。

石垣を築く

 しかし神は同時に正義の神です。罪や汚れに対して、正しい裁きを行わなければなりません。
 ですから主は人を滅ぼすことがないように、ご自身の前に石垣を築きます。
 主はエデンの園で罪を犯した人を追放し、エデンの東にケルビムときらめく炎の剣を置きました。神と人との間に越えられない断絶を置くことで、私たちを滅ぼさないようにしてくださいました。
 そして神と人の間に立つ仲介者を任命し、救いを成し遂げようとされたのです。
 そこで油を注がれ任命されたのが預言者、祭司、王でした。
 ところが彼らはその役割を果たしませんでした。
 むしろ死んだ肉をあさるジャッカルのようになっています。
 石垣は荒れ果て、壊れてしまっています。
 その穴から主の裁きが臨みます。

間に立ってほしい

 主はその石垣の破れ口に立つ者を探します。
 誰かが間に立ち、主の御心を伝えてほしい。聖と俗を区別し、主のもとに立ち帰って安息を取ってほしい。民を主のもとに導き、惑わすものと戦ってほしい。
 モーセのような人物を探しました。

主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。

詩編106:23

 ところがそのような者を見出すことはできませんでした。
 そこで人々は完全な油注がれた方を待ち望んだのです。
 メシア、キリスト、救い主を待ち望みました。
 そこで来られたのがイエス・キリストです。

 そして今、私たちにキリストの霊、聖霊が与えられています。
 主は私たちを用いたいと願っています。
 今この時代に、この街で、破れ口に立つのは誰かと探し求めています。
 主の御心を伝えるのは誰か。和解の言葉を伝えるのは誰か。神の国をこの地に立て上げるのは誰か。
 主は人の行いの報いを帰します。人は自分が蒔いたものを刈り取るように、選択と責任があります。
 私たちが主の御声に従うのも従わないのも自由です。しかしその選択に対して、主は責任を問います。
 今、主は私たち一人一人に向けて、破れ口に立つ者は誰かと問いかけています。

 私たちは神なしに生きられません。
 神と人との破れ口に立つ者を主は探しています。
 主は私たちを用いたいです。聖霊を与え、賜物を分け与えました。
 主の招きに答えてください。

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