罪を負う者の苦しみ

エゼキエル書講解5

罪を負う者の苦しみ

エゼキエル書 4:1-8

1 人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを刻みなさい。2 そして、これを包囲し、これに向かって堡塁を建て、塁を築き、陣営を敷き、破城槌を周囲に配備しなさい。3 自ら鉄の板を取り、それを自分と都との間に鉄の壁とし、あなたの顔を都に向けなさい。こうして都は包囲される。あなたがそれを包囲するのだ。これはイスラエルの家に対するしるしである。4 左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。5 わたしは彼らの罪の年数を、日の数にして、三百九十日と定める。こうして、あなたはイスラエルの家の罪を負わねばならない。6 その期間が終わったら、次に右脇を下にして横たわり、ユダの家の罪を四十日間負わねばならない。各一年を一日として、それをあなたに課す。7 あなたは包囲されたエルサレムに顔を向け、腕をまくり上げて、これに向かって預言しなさい。8 わたしがあなたに縄をかけるので、あなたはその包囲の日が終わるまで、一方の脇から他の脇へと寝返りを打つことができなくなる。

不自由な苦しみ

 日本は超高齢社会です。2015年には人口に対する65歳以上の高齢者、つまりおじいちゃんおばあちゃんの割合が26.7%になりました。4人に一人は高齢者ということです。さらに2035年には3人に一人が高齢者になると予想されています。
 高齢者の割合が増えると、彼らを介護する人が必要になります。専門的に介護の仕事をする人もいますが、人材不足に悩まされています。
 そこで自宅で介護するために働きながら介護をする人もいれば、介護をするために仕事をやめる人もいます。中には高齢者を高齢者が介護するという状況もあります。
 誰かを介護するというのは簡単なことではありません。体の機能が低下して身の回りのことができなくなる。物忘れが多くなる。
 そのような相手と一緒にいると、ストレスがたまります。だんだん相手の意思を無視して、一方的に介護をしてあげるという状況になっていきます。時にはそれが暴力的な方法に発展することもあります。
 しかし体や脳の機能が低下しているとしても、彼らは一人の人間です。意思があり、尊厳ある命を持っています。たとえ体が不自由になったとしても、したいこと、したくないことはあります。それが自由にできないということは何という苦しみでしょうか。
 認知症を患っている人が同じ話をえんえんと繰り返すことがあります。私たちはつい、また始まったと無視してしまうことがあります。彼がなぜ同じ話をしたがるのかということは考えません。私たちから見れば変な行動に見えても、それが彼らの言葉にならない意思表示なのです。彼らの意思をくみ取ることができない私たちの想像力の無さ、愛の無さを思わされます。
 これは高齢者だけではありません。赤ちゃんにも、知能に障害を持っている人も、世界の中で虐げられる身分にいる人も、意思があります。
 特に、誰かのために不自由な状況に置かれるとしたら、それはどれほど苦しいことでしょうか。

同胞のために苦しむ

 今日の本文はエゼキエルがエルサレムの模型を作り、横たわって預言する場面です。
 エゼキエルは左わきを下にして390日間、右わきを下にして40日間横たわらなければなりませんでした。顔はエルサレムの模型に向けられています。
 周りの人から見ればどうでしょう。変な人です。笑われることもあれば、汚い言葉でののしられることもあったでしょう。顔や背中に落書きされたかもしれません。
 その変な行動の意味や、そうする理由は考えません。自分たちの同胞のためにエゼキエルが苦しんでいるなどとは考えられないのです。
 今日の本文を通してエルサレムの破滅を知る者の悲しみ、その罪を知りつつ忍耐することの苦しみ、罪を背負い身動きできなくなることの苦しみに目を向ける私たちになることを期待します。

破滅を知る者の悲しみ

 まず今日の本文の1節から3節で『1 人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを刻みなさい。2 そして、これを包囲し、これに向かって堡塁を建て、塁を築き、陣営を敷き、破城槌を周囲に配備しなさい。3 自ら鉄の板を取り、それを自分と都との間に鉄の壁とし、あなたの顔を都に向けなさい。こうして都は包囲される。あなたがそれを包囲するのだ。これはイスラエルの家に対するしるしである。』 とあります。
 エルサレムの破滅を知るエゼキエルはどのような表情でその模型を見ていたのでしょうか。

包囲されたエルサレムの模型

粘土の模型

 主はエゼキエルに、れんがを一つ取ってその上にエルサレムを刻むように命じました。小さなエルサレムの模型を作るわけです。
 そしてこのれんがの周りに土を盛って累を築き、陣営を敷き、武器を置きました。そして鉄の板を持ってエルサレムの模型に顔を向けました。エルサレムの街が包囲される様子を示しています。
 れんがは粘土板とも訳すことができます。
 バビロンがあるチグリス川、ユーフラテス川一帯は古くからメソポタミア文明がありました。世界最古の文明です。
 この文明で使われた文字は楔形文字で、粘土板に記されていました。
 ですかられんがに絵を描くのはバビロンの文化を示しています。エルサレムがバビロンの手中にあることが示されています。
 古代の戦争では土を盛り、丸太で作った破城槌で城門を打ち壊しました。その様子が模型で再現されています。

徳川家康三方ヶ原戦役画像

 先日、引佐にある地域遺産センターというところを見学してきました。大河ドラマの舞台になった地域なので、戦国時代の井伊谷に関する展示をしていました。
 その中に井伊谷の模型があり、プロジェクトマッピングで戦国時代の出来事を再現してくれるコーナーがありました。
 三方ヶ原の戦いという大きな戦いがありました。北から侵攻してきた武田信玄と浜松を治めていた徳川家康が三方原台地で戦い、家康が大敗北した戦いとして知られています。
 その後に書かせたと伝えられるしかめっ面の肖像画が残されています。
 三方原から浜松城に向かう途中に小豆餅や銭取という地名がありますが、命からがら逃げだした家康が途中でお腹が空き、団子屋の店先にあった小豆餅を盗んだところが小豆餅、それに気付いた団子屋のおばちゃんが追いかけて小豆餅代を払わせたところが銭取だそうです。
 信玄でも追いつけなかった家康に追いつくとは、団子屋のおばちゃんは強いですね。
 地域遺産センターの模型では、武田軍がどのように浜松に入ってきたのか、どのように徳川軍と衝突したのかが再現されていました。模型で再現してもらえると、どのようにその事件が起きたのかとてもわかりやすく伝わります。

イスラエルの家に対するしるし

 主は、これはイスラエルの家に対するしるしであると言われます。
 エゼキエルが模型で再現したことにより、エルサレムがどのように包囲されるのか、イスラエルの民によく伝わったと思います。
 これは将来起こる第三次バビロン捕囚、南ユダの滅亡を予告しているものです。
 主なる神様はどのようなメッセージを込めてこの模型をイスラエルの民に見せたのでしょうか。
 エゼキエルの周りにいた人たちは既に捕囚として連れて来られた人たちです。敵が迫ってくるから戦争の準備をしなさいということではなさそうです。
 遠く離れている故郷が危険にさらされていると分かったとき、私たちに何ができるでしょうか。
 帰ることも連絡を取ることもできないなら、どうすればいいのでしょうか。
 祈るしかない状況、神さまに頼るしかない状況です。

どのような表情で

 主はエゼキエルに、顔を都に向けるように命じます。
 エゼキエルはこの時どのような表情でエルサレムの模型を見ていたのでしょうか。主は表情までは指示していません。笑える状況ではないですね。
 怒った顔でしょうか。神様の心には怒りもあったかもしれません。しかしエゼキエル自身にとっては、怒りより悲しみの方が大きかったのではないでしょうか。自分の同胞が包囲され、自分の国が滅ぼされることを知っているからです。エレミヤならぼろぼろと涙を流していたでしょう。
 イエス・キリストが涙を流す場面は聖書の中で2回出てきます。
 ヨハネによる福音書の11章では、ラザロの死を悲しむマルタとマリアに出会って涙を流しました。
 またルカによる福音書19章では、エルサレムに入城するとき、オリーブ山を越えてエルサレムの街が見えるとその都のために泣きました。

41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

ルカによる福音書19:41-44

 神様の目から見れば、私たちが滅びへ向かっていることは明らかです。
 私たちはそれが滅びの道だなどと考えず、自分勝手な道を行きます。
 神様はどのような表情で私たちの人生をご覧になっているでしょうか。
 神様に涙を流させる人生を歩んではいないでしょうか。

受け入れる者の忍耐

 また今日の本文の4節から7節で『4 左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。5 わたしは彼らの罪の年数を、日の数にして、三百九十日と定める。こうして、あなたはイスラエルの家の罪を負わねばならない。6 その期間が終わったら、次に右脇を下にして横たわり、ユダの家の罪を四十日間負わねばならない。各一年を一日として、それをあなたに課す。』 とあります。
 エゼキエルは長い間横たわっていましたが、それはイスラエルの罪のために神が忍耐された期間に対応していました。

横たわる

 主はエゼキエルを横向きに寝かせました。
 まずは左わきを下にして横たわります。その期間は390日です。390日というとほぼ1年と1ヶ月です。それくらいの期間ずっと横になっていなければならないとしたら、これは大変なことです。
 寝るのが好きな人はいますか?
 時々寝るのが趣味という人に会います。時間があったら寝ていたい。
 日頃すごく頑張って働いているからだと思いますが、本当にずっと寝ているというのは楽しいことではなく、苦行です。
 寝たきりの人には床ずれという症状が起こることがあります。同じ姿勢で寝ていると体の特定の部分が圧迫され続けます。そうするとその個所は血の流れが悪くなります。これが続くと、その部分の細胞が死んでしまいます。これが床ずれです。
 また筋力が落ちてしまいます。筋力が落ちるとただ力がなくなるだけではありません。血行が悪くなり、考える力も落ちていきます。そして心まで力を失い、うつになってしまいます。
 ですからずっと寝たきりというのは大変な苦難なのです。

390年間の忍耐

 実際にはこの期間にも主は他の役割を与えているので、ずっと寝たきりだったわけではなさそうです。
 横たわる目的はイスラエルの家の罪を背負うためだと言われます。横たわっている日数だけ、その罪を背負うと言います。
 まず左わきを下にしてイスラエルのために390日間、そして右わきを下にしてユダのために40日間です。
 エゼキエルが横たわる日数は、イスラエルの罪の年数を日に置き換えたものです。イスラエルのための390日は390年、ユダのための40日は40年を意味しています。
 これらの年数が何を意味しているのか正確にはわかりません。
 イスラエルの390年はBC925の王国の分裂からBC538のエルサレム帰還までの年数かもしれません。ユダの40年間は不明です。
 いずれにせよ、神はその間、イスラエルの罪を見ながら忍耐しておられるのです。

罪を背負う

 誰かの罪を背負うというのは簡単なことではありません。他の人の罪のために自分が苦しまなければならないとしたら、つらいです。
 しかしこれはあくまで象徴です。
 罪ある人間がどうして他の人の罪を背負うことができるでしょうか。
 借金をしている人を助けてあげたくても、自分も借金をしているなら助けられません。借金のない人だけが助けることができます。
 人の罪を背負うことができるのは、ただ罪のない方だけです。
 そのような人がいますか。
 人は皆罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっています。この世界は人間の罪のために壊れてしまっています。
 ですから、どんなに金銀財宝を積んだとしても、たとえ傷のない羊でも牛でも、人間の罪の代価は支払えません。
 全ての被造物が罪によって汚れています。
 つまり罪がないというのは、被造物ではない方、神の性質なのです。
 人の罪を背負うことができるのはただ神のみです。
 しかし罪と何のかかわりのない神が罪を背負うということも、神の義の性質に反しています。
 そこで神は愛する独り子を私たちに与えてくださいました。
 完全な神でありながら完全な人間として来られたイエス・キリストは罪人の頭となって十字架につけられました。
 天の栄光をすてて最も低くなり、三位一体の神の永遠の交わりから引き離され、全人類の過去現在未来の全ての罪をその身に負われました。
 こうして私たちは罪から贖われたのです。
 私たちを救い出すことができるのはただイエス・キリストしかいません。

身動きできない苦しみ

 最後に今日の本文の7節8節で『7 あなたは包囲されたエルサレムに顔を向け、腕をまくり上げて、これに向かって預言しなさい。8 わたしがあなたに縄をかけるので、あなたはその包囲の日が終わるまで、一方の脇から他の脇へと寝返りを打つことができなくなる。』 とあります。
 誰かの罪を背負い苦しむことで、赦しと和解が進められます。

身動きできない

 エゼキエルは寝返りが打てなくなってしまいました。
 身動きができない状況は、敵に包囲されて身動きができなくなるエルサレムの状況を表しています。私たちが自由を失うのは、敵に囲まれているからかもしれません。
 しかしその根本には、イスラエルの罪がありました。罪のために自由を失っているのです。
 私たちもあれをしたいこれをしたいと、自分のしたいことがあるでしょう。
 自分のしたいことをすることができたら、私たちは自由なのでしょうか。

 金曜日に幼稚園のバザーに行ってきました。レベルの高いバザーでびっくりしました。見ていると、欲しいもの、食べたいものがたくさんあります。
 もしたくさんのお金があって自由に買い物できるとしたらどうでしょうか。あれも買って、これも買って、おでんを食べてカレーも食べてから揚げも食べてチヂミも食べたらどうでしょうか。
 たくさんの重荷を背負って苦しくなります。
 自分勝手に生きることは、結局は自分の自由を失ってしまうのです。

嘲られるまま

 エゼキエルは自分のしたいことは何もできず、ただ横たわるだけ。自分の言いたいことは語れず、ただ主が言えと命じたことだけ語りました。たとえ人々から笑われても、汚い言葉でののしられても、抵抗できません。落書きをされたり、いたずらをされたりしたこともあったでしょう。それでも耐えるしかありません。不自由な状態です。
 それでもエゼキエルは神に従うことを選びました。預言者として、神の道具として用いられることを選びました。
 本当に自由な状態とはどのような状態でしょうか。悪の中から自由に選べることが自由でしょうか。善と悪の中から善を選ぶことが自由でしょうか。
 宗教改革者マルティン・ルターはキリスト者の自由という本の中で、「キリスト者はすべてにおいて自由である。キリスト者はすべてにおいてキリストの奴隷である。」と言いました。
 私たちは何物にも束縛されません。それはキリストに完全に従うことによって得られる自由です。
 頭でイメージした通りに体が動かなければ、それは不自由です。体の各部分が勝手に動き出したら、それは病気です。頭でイメージした通りに体が動くとき、私たちは本当に自由だと感じます。
 キリストの体である私たちが自分勝手に生きることは自由ではありません。それは滅びへと向かう病的な状態です。
 頭であるキリストに完全に従うときにこそ、私たちは本当に自由なのです。
 たとえ世の中で嘲られるとしても、苦しめられるとしても、キリストに従う自由が私たちにはあります。

罪を取り除くため

 イエス・キリストは神の御心に完全に従いました。死に至るまで従順でした。
 弟子たちの裏切りを知っていながら、彼らを愛し抜きました。嘲られ、鞭打たれることを知っていながらエルサレムに向かいました。
 そしてユダに裏切られ、逮捕され、裁判を受けます。正当な手続きを踏まず、不正だらけの裁判です。
 イエス・キリストはいくらでも自分の無実を主張できたし、不当な裁判を中止させることもできました。しかし何も言いませんでした。まるで屠り場に引いて行かれる小羊のように、黙って裁かれます。
 そして十字架を背負い、ゴルゴタの丘へと向かいます。
 群衆は十字架につけろと叫びながら嘲ります。5日前にはホサナと叫び歓迎された道を、今度は唾を吐きかけられ、鞭で打たれながら歩きます。そして十字架につけられます。
 その時イエス・キリストは口を開き、こう祈ります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれたのです。

3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

イザヤ書53:3-7

 罪を背負うことは苦しいです。不自由に感じられます。
 しかしそれによって赦すことができます。和解することができます。
 今神は私たちと和解しようとしておられます。
 神に従うことを選ぼうではありませんか。

 主は私たちをご覧になり、涙を流しておられます。
 私たちの救い主はただイエス・キリストだけです。
 その方に従う自由を生きる私たちになることを願います。

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