聖書に親しむ

宗教改革記念礼拝

聖書に親しむ

テモテへの手紙二3:15-17

15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

物語は人生に影響を与える

 読書の秋ですね。
 子どもの頃にどのような物語に触れるか、というのはその人の人生に影響を与えます。言葉を豊かにし、感情を豊かにし、想像力を豊かにします。
 言葉や文字によって伝えられる物語というものは、人間だけが持っている能力です。神様からの賜物です。
 そこでどういう物語に触れるか、というのも大事です。
 先日子どもとテレビを見ていたら、このようなアニメが放送されていました。幼い兄弟が、あるお店で不思議な実がなる木をもらいます。その木の実は、ハンバーグやピザなど、子どもたちが大好きな食べ物の味がします。この実を食べるときには1つの約束を守らなければなりません。それは、必ず「いただきます」と「ごちそうさま」を言わなければならないということです。もし「いただきます」と「ごちそうさま」を言わなかったら、恐ろしいことが起こるのです。
 ここまで見てテレビを消しました。この物語はよくないと感じたからです。
 子どもたちに「いただきます」と「ごちそうさま」を言わせるために、ちゃんと言わないと恐ろしいことになるよ、と恐れを植え付けようとしているようでした。(この番組のオチはそれとは違ったようです)
 恐れによって人の行動を縛ろうとするのは、教育ではありません。
 なぜ「いただきます」と「ごちそうさま」を言うのか。
 それは感謝の心から出てくるべきです。食事を作ってくれた人、一緒に食事をする人、食材を生産してくれた人、何より日々の糧を与えてくださる神様への感謝を込めて「いただきます」と「ごちそうさま」を言うべきです。
 子どもたちには恐れさせる物語ではなく、愛へと駆り立てる物語に触れてほしいです。
 私たちの心を愛によって燃え立たせる本があります。
 それは本の中の本、聖書です。

聖書を読むことができる恵み

 今日は宗教改革記念主日です。マルティン・ルターの宗教改革が1517年10月31日に始まったことを記念する日です。
 ルターの功績の1つに、聖書をドイツ語に翻訳したことがあります。
 それまで聖書はラテン語で書かれていました。昔々の言葉です。聖職者しか読むことができません。
 儀式もラテン語で行われていました。ミサに参加していても何が行われているかわかりません。
 手品をするときに英語で「hocus pocus」と言うことがあります。これはミサの中で、「hoc est corpus」と唱えられた言葉から来ています。元の意味は、「これは私の体である」という主の晩餐の時のキリストの言葉です。しかし一般人にはわかりません。それで何が起きたかわからないが、「hoc est corpus」と言ったらありがたいものが出てくる、という呪文のようになってしまったわけです。
 自分たちで聖書を読むことができないので、免罪符のような聖書からかけ離れたことを教会が行っても、ただ従うしかありませんでした。
 聖書を自分たちの言葉で読めるというのはありがたいことです。

聖書を語り聞かせる

 聖書を読むことができるというのは、宗教改革の少し前にあったグーテンベルクによる印刷技術の発明の影響も大きいです。
 もともと聖書は読むものではなく、聞くものでした。
 主はイスラエルの民に、聞け、そして語り聞かせよと命じています。

4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。

申命記6:4,7

 こうしてイスラエルの民は聖書を語り聞かせてきました。バビロン捕囚によって国が滅んだ後も、ユダヤ人たちは会堂で聖書を朗読し、家ごとに聖書を語り聞かせてきました。
 こうして400年の中間時代も、世界中に離散したユダヤ人の間でも聖書は受け継がれてきました。
 エルサレムから遠く離れたガラテヤ地方のリストラという町にも、ユダヤ人たちが住んでいました。ユダヤ人女性のエウニケにはギリシア人の夫との間にテモテという男の子が与えられました。エウニケと母のロイスは、テモテくんが幼い頃から、聖書を繰り返し繰り返し語り聞かせました。こうして幼い日から聖書に親しんだテモテは、後に使徒パウロの後継者として用いられていきます。

 聖書に親しんでいますか?自分の言葉で聖書を読んだり聞いたりできること自体が恵みです。
 特に幼い日から聖書を聴くことは大事です。
 日本のクリスチャンの51%が、18歳以下で信仰が与えられています。また、初めて福音を聞いた年齢は18歳以下が73%にもなります。4/14の窓運動とは
 日本のクリスチャンの平均年齢を考えれば、若い世代に福音を届けることの重要性がよくわかると思います。
 キリスト教系の幼稚園や高校で聖書の話を聞いて、大人になってから教会に来る人もいます。
 また、ぜひ家庭でも繰り返し語り聞かせてほしいです。
 もう子供たちが自分でも読める年齢になっているとしても、親から子へ、信仰の話を語り聞かせてほしいのです。
 これは必ずしもお父さんがやらなくてもいいです。テモテは信仰の話を母親や祖母から聞きました。
 そして子どもたちの同年代の友だちにも福音を伝えられるように祈ってください。

4/14Window Movement Japan

聖書には何が書かれているのか

 聖書には何が書かれているのでしょうか。
 中には、恐れを抱かせる物語もあります。
 私が学生の時、卒業旅行に行って礼拝を休んだことがありました。旅行から帰った後、教会の人から旧約聖書のある物語を聞かされました。それは、安息日に薪を拾っていた人が石で打ち殺されるという話です。それで、「日曜日の礼拝は絶対です!守らなければ石で打ち殺されると聖書に書いてあります」と言われました。
 聖書の中心的なテーマを見逃すと、私たちは間違ったメッセージを読み取ってしまいます。

 パウロは「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」と言っています。
 聖書の中心テーマは、イエス・キリストです。旧約聖書には「来るべきイエス・キリスト」、新約聖書には「来られたイエス・キリスト」が書かれています。その中心にあるのがイエス・キリストの十字架の死と復活です。
 そして聖書66巻を一貫して語られているのは神の愛です。
 これを忘れて聖書の一部だけを切り取れば、いくらでも好きな話を作ることができてしまいます。しかしそこに真理はありません。
 真理は私たちを自由にします。恐れによって行動を縛ろうとするのではなく、完全な愛によって解放されます。
 エマオ村に行こうとする二人の弟子たちに、復活したイエス様は聖書全体からご自分のことを説明しました。それを聞いた時、彼らにはある変化が起こりました。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

ルカによる福音書24:32

 聖書は私たちをキリストへの愛によって駆り立てます。

 もし私たちの信仰生活の中に、恐れに縛られている部分があるとすれば、それは聖書を読み誤っていることになります。
 礼拝を守らなければ石で打ち殺されると思っている人はいないと思いますが、地獄が怖いからイエスを信じると言っておこうとか、善い行いをして天に富を積まないと天国で苦労するとか思っているとしたら、その信仰は危険です。
 ただキリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く神の愛を受け取ってほしいです。

自分で聖書を読む

 聖書を正しく解釈するのは難しいことです。ペトロはこう言っています。

20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

ペトロの手紙Ⅱ1:20-21

 聖書の預言は聖霊に導かれて語られたのだから、勝手に解釈してはいけません。
 パウロはさらに、聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれたと言っています。
 では誰が正しく聖書を解釈することができるのでしょうか。
 それは神の霊、聖霊です。真理の霊である聖霊が、真理をことごとく悟らせてくれます。
 そこで私たちは、神の言葉を聞くことになります。
 人が作った物語ではない、紙に印刷されたただの文字ではない、生きていて力ある神の言葉に出会います。
 神の言葉は命のパンとして私たちを養います。
 それと同時に、神の言葉は両刃の剣のように私たちを刺し通します。そして内に隠した問題を明らかにします。
 その目的は、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするためです。
 神の言葉が私たちを刺し貫くのは、私たちを滅ぼそうとするためではなく、私たちを神の子として癒し回復させるためです。
 こうして私たちは聖書を通して、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられていきます。

 ぜひ自分で聖書を読んでください。
 自分の読みたいところだけ読むのではなく、聖書全体を通読してください。順番通りでなくてもいいです。新約聖書から読んで、旧約聖書を読むのもいいです。
 この世のものは過ぎ去ります。社会は短期間で変化してしまいます。この半年間であまりにも大きな変化を経験してきました。
 移り変わるこの時代にあっても、神の言葉は変わりません。

草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

イザヤ書40:8

 教会で聖書を正しく学ぶことももちろん大事です。信仰の初めは正しく教えられる必要があります。
 しかし私たちが目指すところは、自立した神の民です。
 誰かにかみ砕いてもらった柔らかいものを食べる赤ちゃんではなく、硬いものも消化できる成熟した神の民になってほしいのです。
 牧師や教会の言いなりになってはいけません。
 もし教会が免罪符のような金儲けを始めたなら、この教会は間違っていると言えなければなりません。
 もし牧師が「私の言葉は神の言葉だ。無条件に従え」と権威主義になったら、この牧師はおかしいと言わなければなりません。
 私たちの最終的な権威は聖書のみです。
 旧新約聖書にある神の言葉だけが、私たちの信仰と行いの唯一の基準です。

 聖書に親しみ、キリストへの愛に駆り立てられて生きる私たちになることを願います。

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