良い香り

受難5

良い香り

コリントの信徒への手紙二2:14-16

14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

香水が思い出させる

 昨年の日本レコード大賞で優秀作品賞を受賞した瑛人さんの「香水」。「別に君を求めてないけど 横にいられると思い出す 君のドルチェ&ガッバーナの その香水のせいだよ」というサビがとても印象的です。
 3年前まで好きだった女性がドルチェ&ガッバーナの香水をつけていた。久しぶりに会おうと言ってきた彼女が前と同じ香水をつけていて、彼女と過ごした日々が思い出される。それと同時に人を傷つけ嘘をつく自分の醜さが思い起こされる。そんな切ない歌詞です。
 私にはドルチェ&ガッバーナの香水と言われてもどんな香りかわかりませんが、そういうことあるよな、と思います。
 前にも話したことありますが、私にとってはシーブリーズの香りで中学校の図書室が思い出されます。プルースト効果というやつですね。

 今日は教会のビジョンと使命の5つ目「人々に寄り添い、キリストのかおりを放つ」です。
 生活の中に調和していくことについて見ています。私たちはそれぞれの生活の現場で誰かに横にいることになります。私たちが放つ香りが、横にいる誰かにキリストの勝利を思い起こさせます。

誰がキリストの勝利の行進に連なるか

エルサレム攻囲戦の勝利を記念して紀元82年に建設されたティトゥスの凱旋門の一部

 今日の本文でパウロは私たちがキリストの勝利の行進に連なっていると言っています。
 戦争に勝利して自分の国に帰って来るパレードのイメージです。
 ローマのパレードでは、まず捕虜になった敵が鎖につながれて歩かされました。敵のリーダーは後で処刑されます。それから戦利品が披露され、議員たちが歩きます。そして馬に乗った将軍が登場します。その後に兵士たちが連なります。
 パレードの間は音楽が奏でられ、香が焚かれました。
 この勝利の行進に連なることができるのは身分の高い人たちや勇敢な人たちです。

 では誰がキリストの勝利の行進に連なることができるのでしょうか。
 身分の高い人や勇敢な人?命をかけて宣教した人や、社会的に成功し多額の献金を納めた人がキリストの勝利の行進に連なることができるということでしょうか。
 イエス様は地上の生涯の中で既にパレードを2回行いました。
 1度目はエルサレム入城です。
 これは預言の成就でした。

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

ゼカリヤ書9:9
ロバ(写真AC)

 イエス様は勝利を与えられた王としてパレードを行いました。
 しかし勇壮な将軍のように馬に乗ってではなく、柔和な方として子ろばに乗って登場しました。
 そのパレードに連なったのは田舎の漁師、取税人や罪人、目の不自由な人、女性や子どもたちでした。当時の社会で勝利者ではなく、むしろ敗北者のように扱われた人たちです。

茨の冠

 2度目のパレードはヴィアドロローサ。茨の冠を被ったイエス様は十字架を背負い、鞭打たれ、嘲られ唾を吐きかけられながらゴルゴタの丘へ歩きました。その姿はまさに罪人の頭であり、完全な敗北者です。
 そしてイエス様は十字架で死に、墓に葬られました。
 しかしイエス様は3日目に死の力を破り復活しました。

 イエス・キリストこそ勝利の主です。
 私たちは今、この勝利の列に加えられています。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

ローマの信徒への手紙8:37

 行いや身分は関係ありません。
 もちろん命をかけて宣教したり社会的に評価される人になることも尊いことです。
 しかしキリストはそのような人だけを勝利の列に招いているのではありません。
 むしろ社会の中で疎外され、圧迫されているような人たちを招いています。
 ただキリストにつながることで、私たちは輝かしい勝利を得、圧倒的な勝利者とされています。
 キリストの勝利の行進に連なるための唯一の条件は、イエスを神の子と信じる信仰です。

私たちの存在がキリストの勝利を告げる

 パレードは町全体に将軍の勝利を告げ知らせました。
 その姿は見えなくても、音楽によって、そして香りによって勝利が知らされました。
 パウロは私たちを通じて至るところにキリストを知る知識の香りが漂うと言っています。キリストの勝利の列に連なる私たちから、キリストのかおりが放たれています。

 おそらくヴィアドロローサのパレードのとき、イエス様から良い香りが漂っていたのではないかと思います。
 それは数日前に香油を塗られていたからです。ベタニア村のマリアはナルドの香油を持っていました。300万円ほどもする非常に高価なものです。
 彼女はその香油をイエス様のために惜しまずささげました。マリアがいた家は香油の香りでいっぱいになりました。
 イエス様は彼女のしたことを称賛し、埋葬の準備をしてくれたと言いました。
 ゴルゴタの丘へ向かうイエス様から漂う香りをかぎながら、弟子たちはこのことを思い起こしたかもしれません。
 香りはそのように空間全体に広がっていきます。そして香りをかぐ人に何かを思い起こさせます。

 パレードをするのは勝利を告げ知らせるためです。よい知らせとして勝利を告げ知らせ、人々と共に喜び祝うためです。
 このよい知らせ、キリストの勝利を告げ知らせることこそエヴァンゲリオン、福音です。
 福音を伝えるのは言葉だけではありません。パレードは、確かに言葉でも勝利を告げ知らせました。言葉がわからない異邦人や子どもも、音楽によって理解したでしょう。
 パレードを見ることでもわかります。
 そして香りもまた周囲に広がり、勝利を知らせました。
 今日は聖餐式があります。このような礼典はまさに福音を五感で感じる機会です。聖餐式のとき、私たちはキリストの死と復活を目で見、手で触れ、舌で味わいます。
 キリストのかおりである私たちの存在も、周りの人々に、そして私たちがいるその空間全体にキリストの勝利を告げ知らせる福音となります。

誰の横でかおりを放つのか

 瑛人さんにとってドルチェ&ガッバーナの香水の香りは、自分の惨めさを思い起こさせました。私が同じ香りをかいでも何とも思わないでしょう。ある人は同じ香りをかいで幸せな思いを抱くかもしれません。
 同じ香りでも、かぐ人によってそのイメージは変わります。

 パレードで焚かれる香の香りは、敵にとって死から死に至らせる香りでしたが、その国の民にとっては命から命へ至らせる香りでした。
 キリストのかおりである私たちの存在は、ある人にとっては愚か者で、目障りかもしれません。しかしある人々には命を与える香りになります。

 ここで誰が敵で、誰が命を受けるべき人なのかを判断するのは私たちではありません。
 教会はかつて自分たちで敵を定め、教会から排除しました。ユダヤ人を迫害し、十字軍を派遣し異教徒の住む地を占領し、海外宣教に乗じて世界を侵略しました。
 現代でも教会が人種差別や男尊女卑を肯定することがあります。
 先日、バチカンが同性婚は祝福できないと言う声明を発表しました。プロテスタントの中でも福音派などから賛同する声が上がりました。
 色々な立場があるわけですが、そのどこに福音があるのだろう、愛があるのだろうと疑問に思います。
 かおりの役目はキリストの勝利を告げ知らせること。それをどう受け止めるかは相手次第です。
 私たちが願うのは、福音を聞いた人が命を得ることではありませんか。排除することではないはずです。

 私たちはこの町でキリストのかおりを放っていきます。
 私たちは誰の横にいて良い香りを放つことができるでしょうか。この香りを届けたい人は誰でしょうか。

 先日、とても衝撃的な事件がありました。浜松に住んでいた中学3年生の女子生徒が遺体で発見されました。福岡から来た30代の男性と一緒に自殺しようとしたようです。男性の方は死にきれず助かりましたが、女子生徒は亡くなりました。

浜松市の山中に女子中学生遺体 誘拐容疑で福岡の男を逮捕

 小中学生でも彼女のように自ら死を願う子が、この国には数多くいます。30代男性でも、死を願います。
 2人がどうつながったのかはわかりません。私は同じ町に住んでいながら、死を願う彼女に寄り添えなかった。彼女の存在すら知らなかった。それなのに遠く福岡にいた男は彼女の願いを聞き、一緒に死のうとした。
 彼女は身近な人にも相談していたかもしれません。でも近い人には言えない悩みがあります。親を心配させたくないから、本当に辛いことは親に言えません。学校の先生たちは正解を出そうとするから、ちゃんと聞いてもらえる気がしません。
 だから親でも学校の先生でもない誰かが、子どもたちの悩みを聞いてあげられたらいいです。一緒に死のうと言う人ではなく、死にたくなるような世界だけど一緒に生きようと言ってあげられる大人に出会ってほしいのです。
 正解は出さなくていいです。ただ隣にいるだけでいい。その悩みや苦しみに耳を傾けていきたい。
 私たちがキリストのかおりを放つことで、私たちの横にいる誰かが命を得るかもしれません。

54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

コリントの信徒への手紙一15:54-58

 この町にいる、この国にいる死へ向かう人々に、死の力を破ったキリストの勝利を伝えたい。
 そのようなキリストのかおりになっていきましょう。

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