ダビデの最期とソロモンの即位

歴代誌講解32

ダビデの最期とソロモンの即位

歴代誌上 29:21-30

21 その翌日、彼らは主にいけにえをささげ、焼き尽くす献げ物をささげた。雄牛千頭、雄羊千匹、小羊千匹、それにぶどう酒の献げ物もささげ、全イスラエルのために多くのいけにえをささげた。22 その日、彼らは主の御前で大いに喜び祝って食べて飲み、ダビデの子ソロモンを改めて王と宣言し、油を注いで主のものとし君主とした。また、ツァドクを祭司とした。23 ソロモンは主の王座につき、父ダビデに代わって王となった。彼は栄え、全イスラエルが彼に従った。24 すべての将軍と勇士、ダビデ王のすべての王子がソロモン王に服従を誓って手を差し出した。25 主はソロモンを全イスラエルの目の前にこの上もなく偉大な者とされ、かつてイスラエルに君臨したどの王にも見られなかった王者の威厳を帯びる者とされた。26 エッサイの子ダビデは全イスラエルの王となった。27 彼がイスラエルの王であった期間は四十年に及んだ。ヘブロンで七年、エルサレムで三十三年間王位にあった。28 彼は高齢に達し、富と栄光に恵まれた人生に満足して死に、彼に代わって息子のソロモンが王となった。29 ダビデ王の事績は、初期のことも後期のことも、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』、および『先見者ガドの言葉』に記されている。30 そこには彼の統治のすべてとその業績、また彼とイスラエル、およびすべての近隣諸国に起こった出来事の経過が記されている。

人間の目は簡単に騙される

 同じ大きさの2つの図形が違う大きさに見えたり、静止画が動いて見えたり、同じ色の2つの領域が違う色や明るさに見えたりします。
 錯視という現象です。

錯視のカタログ(北岡明佳教授(立命館大学)のウェブサイト)

 人間の目は簡単に騙されます。
 目に見える通りが事実ではありません。マジシャンは真実ではないことを真実であるかのように見せます。
 目の前で起こることが全て真実であるとは限りません。
 目に見える現実を超えた真実があります。

神の約束が成し遂げられる前の戦い

 今日の本文はソロモンの即位式です。
 神殿建設の準備が整い、ダビデが感謝の祈りをささげた翌日、民は大いに喜び祝って飲み食いしました。そしてソロモンに油を注いで王にしました。
 歴代誌上23章でもダビデはソロモンを王にしています。
 列王記上1章ではソロモンが王になるまでのいざこざが記録されており、今日の本文のように全イスラエルが彼に従ったとは言えません。
 整理するとこういうことでしょう。
 ダビデは神から、ソロモンが王になり神殿を建てるという啓示を受けました。そしてソロモンを王位継承者として指名しました。
 ところがダビデが年老いて健康を害すと、王子アドニヤが思い上がって「イスラエル王に俺はなる!!!!」と言い出しました。ダビデの側近であった祭司アビアタルと将軍ヨアブもアドニヤに協力しました。
 それを聞いたダビデはソロモンの母バトシェバを呼び、ソロモンに油を注ぎ王にするよう指示しました。簡略化した即位式です。祭司ツァドク、預言者ナタン、ヨヤダの子ベナヤなどがこれに協力しました。
 その後アドニヤとヨアブは処刑され、アビアタルはアナトトに追放されました。
 こうして反対者はいなくなったところで改めて正式な即位式を行い、全イスラエルがソロモンに従うことを誓ったわけです。

神の約束が実現するためにダビデは戦った

 年老いたダビデにとってアドニヤの反逆は脅威だったでしょう。もう戦う力は残っていません。過去には愛する息子アブサロムに王座を奪われるという事件もありました。同じ悲劇を繰り返したくありません。
 しかしアドニヤを放っておいたら、神様の約束はどうなってしまうのか。ソロモンが王になって神殿を建てるはずではなかったか。目の前の現実は全く違う方向に進んでいます。
 そこでダビデは戦いを決意しました。
 神様の言葉が実現するために、ダビデは戦いました。

神の計画が成し遂げられるための戦いがある

 神様の約束が成し遂げられる前に、私たちは戦いを経験しなければならないことがあります。
 救いの計画が成し遂げられるために、神様は戦いました。イエス・キリストが受難週に経験した戦いです。
 イエス様は戦いの果てに十字架で死なれました。
 この戦いなしに、神の救いは成し遂げられなかったわけです。

邪魔する者、サタン

 同じように私たちの人生で神様の言葉が実現するために戦わなければならないことがあります。
 この世には私たちをだまそうとする者がいます。
 だます者、邪魔する者、それがサタンです。
 今はサタンがこの世を治めています。とすれば、この世で生きていく神の民をサタンがだまそうとするのは当然です。
 神様の約束を疑わせ、神様の言葉が間違っているかのように錯覚させます。
 目の前の現実にだまされてはいけません。
 やっぱり神様の約束なんか成し遂げられないじゃないか。日本で宣教なんて無理なんだ。この国は泥沼、宣教師の墓場だ。家族の救いなんて無理じゃないか。神様が愛なんて嘘だ。神は死んだ。宇宙は偶然できて、人間は猿から進化した。だから人生に意味も目的もないんだ。
 目に見えるものばかり見ているとそのようにだまされます。

信仰が問われる


 そこで私たちは戦わなければなりません。
 目の前にある現実を超えた真実な神様を信頼するのかと問われます。
 見えない事実を確認すること、それを握りしめること。それが信仰です。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

ヘブライ人への手紙11:1

現実を超えるキリストを信頼する

 イエス様が弟子たちを舟に乗せて湖の向こう岸に渡らせたことがありました。
 弟子たちは舟をこぎますが、夜中に逆風のため湖の真ん中で進めなくなってしまいました。
 これが弟子たちが置かれた現実です。真っ暗な湖の真ん中で逆風によって前に進めない。
 そのとき誰かが水の上を歩いてくるのが見えました。弟子たちは幽霊だと思って叫びます。
 すると湖の方から声がします。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエス様の声です。
 それを聞くとペトロは「主よ、あなたでしたら、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言います。
 するとイエス様は「来なさい」と招きます。ペトロはイエス様の声に従い、舟の外に足を踏み出しました。

 水の上を人間があるくことは不可能です。それが現実です。
 しかし神の言葉は目に見える現実を超えます。
 イエス様が来なさいと言うなら、どんな困難があってもイエス様のもとに行くことができます。
 イエス様の招きに従ったペトロは水の上に立ち、歩くことができました。

 ところがペトロは自分の置かれた現実に目が行きます。
 自分が立っているのは水の上。そこは人が立てない場所。しかも舟が進めないほどの逆風が吹いていたではないか。
 現実に目が行ったとき、ペトロは沈みかけました。
 イエス様から目を離すと私たちは現実に恐れ、だまされ、沈みかけます。
 ペトロはイエス様が手を伸ばし、助け出しました。

現実の問題に揺るがされるときこそ神を信頼する

 目に見える現実を超えて神様が働いています。
 神様の「来なさい」という招きに応えて一歩を踏み出してみた。
 しかしイエス様のもとにたどり着く前に、神の言葉の実現を受け取る前に、私たちをだまそうとする者がいます。私たちの信仰の土台を揺るがして倒そうとします。
 それでもイエス様は手を伸ばして支えていてくださいます。
 だからそういう時こそイエス様の手を握り、しっかり立つのです。
 そのとき私たちは見えない事実、望んでいる事柄が実現することを目撃します。

 神様の約束が疑われるとき、目の前の現実に揺るがされるとき、私たちの信仰が試されます。
 あなたは本当に私を信じるのか。神の約束の実現を本気で望んでいるのか。
 イエス様が私たちを握りしめ支えていてくれるので、神様の約束の実現を信じ、神の言葉を握って一歩を踏み出すのです。

すべての出来事は神の手の中にある

 後半部分はダビデの治世のまとめです。
 ダビデはヘブロンで7年、エルサレムで33年間王位にありました。ダビデは30歳で王になりましたから、70年の生涯でした。
 その事績は『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』、および『先見者ガドの言葉』に記されています。
 先見者も預言者も、神様の言葉を預かって語る人です。
 王様の働き、イスラエル王国と近隣諸国の出来事が預言者の言葉に記されているのは不思議な感じがします。
 『先見者サムエルの言葉』とは恐らくサムエル記上下のことでしょう。内容は歴史書ですが、それがなぜ預言者たちによって記されたのでしょう。
 それは歴史において神の言葉が実現した経緯を記したからと言えるのではないでしょうか。

歴史は神の手の中にある

 歴史は英語でhistory。His Story(彼の物語)。誰の物語か。それはイエス様。だから歴史の主人公はイエス様だ。なんて教会ではよく言われます。実際の語源はイエス様と全く関係ないギリシア語ですが。
 歴史を治めているのは神様です。
 歴代誌は系図から始まりました。しかも最初の人アダムから。
 今日の本文で歴代誌上が終わりますが、天地創造からここまで、そして今日まで、歴史は神の手の中にあります。

神の壮大な計画のごく一部を見ているに過ぎない

 神の言葉が現実になり、歴史が紡がれていきます。
 私たちの目の前に起こる様々な出来事も神の手の中にあります。
 私たちは目の前の現実を見ますが、それは壮大な神の計画の中のごく一部です。
 細かい部分に焦点を当てれば、全体は見えません。
 私たちが焦点を当てるべきところは目の前の現実ではなく、神様です。

救いはどこから来るのか

 イスラエルの民は毎年祭りのたびにエルサレムに上りました。
 その時にうたった歌の1つがこれです。

1 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

詩編121:1-2

 民にはそれぞれの生活がありましたが、そこから離れてエルサレムの神殿に向かいました。
 現実の生活には様々な問題があります。救いを求めていました。
 彼らはどこに目を向けたのでしょう。まずは山々を仰ぎ見ました。山の上には色々な神々の祭壇が作られていました。しかし救いはそんなところから来ません。
 救いは、あの祭壇が置かれた山々さえも創造された主から来ます。

世界が揺るがされても揺るがない神を信頼する

 生活の中で様々な問題に直面するのは昔も今も同じです。
 健康の問題、経済の問題、人間関係の問題。今年も現実の問題に悩まされるでしょう。
 人生を揺るがす問題も起こるかもしれません。
 そのとき、私たちの助けはどこから来るのか。
 この世界を創造された神がおり、その方のもとから来ます。
 たとえ戦争やパンデミックのような世界を揺るがす問題が起こっても、創造主が揺るがされることはありません。

 この世界は神の言葉で創造されました。神の言葉が実現し、この世界は存在しています。
 そして神の言葉は肉となって私たちの間に住みました。それがイエス・キリストです。
 この世界が揺るがされても、私たちの生活が揺るがされても、信仰が揺るがされても、イエス・キリストは揺るがされることなく私たちとと共にいて支えてくれます。
 このイエス様に目を向け、イエス様の言葉にすがって歩んで行きましょう。

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