ローマ書講解42 私たちを強める福音

ローマ書講解42

私たちを強める福音

ローマの信徒への手紙 16:17-27

17 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。18 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。19 あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。20 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。21 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。23 わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 善にさとく悪には疎くあれ

挨拶を中断してでも伝えずにいられなかったこと

 先週はパウロの個人的な挨拶を紹介しました。本で言うと後書きの部分。本題となる教えの部分は書き終わりました。
 ローマ側の人たちの名前をあげたので、今度はパウロ側の人たちの名前を紹介。そして最後のまとめを書いて終わりにしたら良さそうです。
 ところがパウロは唐突に「兄弟たち、あなたがたに勧めます。」と再び教え始めます。ローマの人たちのことを考えていたら、どうしてももう一言伝えずにはいられなかったのでしょう。
 でも文章の構成としてはおかしな感じがします。
 パウロの手紙の中には、こうして話が飛んでしまうことがあります。
 これはパウロが話した言葉を他の人が書くという、口述筆記をしているからです。
 もちろんパウロの中では、こういう構成にしようという考えはあったでしょう。
 しかし話している間に神様から示されたことを、語らずにはいられませんでした。
 人間の計画とは違う方向へ神に導かれることもあります。

不和やつまずきをもたらす人々を警戒する

 ここでパウロが勧めるのは、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさいということです。
 このような人たちはうまい言葉やへつらいの言葉でだましてきます。

 パウロはローマの信徒たちの信仰を評価しています。
 信仰で大事なのは従順です。素直に神を信じ従うこと。そんなローマの信徒たちの従順さ純朴さをパウロは喜んでいます。
 しかし同時に心配があります。
 従順だからこそ、不和やつまずきをもたらす人々にだまされてしまうのではないか。

 そこでパウロは、ローマの信徒たちが善にさとく、悪には疎くあることを望みます。善には敏感、悪には鈍感。
 では何が善で、何が悪なのでしょうか。

 善は神の御心です。
 聖霊によって心を新たにしていただくことで、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになります。
 こうして私たちは聖なる生けるいけにえとしてキリストに仕える礼拝者として生きます。
 そこで私たちはキリストを頭とする体の部分として互いに相手を優れたものと思い、互いに愛し合います。

 ところがキリストに仕えず自分の腹に仕える人がいます。
 腹に仕えるというのは、欲望のままに生きるということです。
 神の前に自分をささげることではなく、自分の欲が満たされることを願います。
 互いに愛し合うのではなく、人を利用し支配しようとします。
 このような人は自分に反対する人を敵に認定し、分断と対立を作ります。
 そしてキリストに仕えようとする人をもつまずかせるのです。
 これが悪です。

人間のことだけ考え神の邪魔をしてしまう

 パウロはイエス様について「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白しました。このイエスは主であるという信仰告白をきっかけとして、イエス様は十字架に向けて歩み始めます。そして弟子たちに、ご自分がエルサレムに行って殺され、三日目に復活するということを打ち明けました。
 これを聞いたペトロは弟子たちの間からイエス様を連れ出し、いさめました。「何弱気なこと言ってるんですか。メシアが殺されるとか、あっちゃダメでしょ。」
 そんなペトロにイエス様は言います。

イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

マタイによる福音書16:23

 ペトロは弱気なイエス様を励ましたつもりだったでしょう。メシアとしてもっとしっかりしなさいと、愛を込めて激励しているようです。
 しかしペトロはただ人間のことしか見ていません。
 結果として、キリストの十字架の死と復活という神の救いの計画の邪魔をするかたちになっています。そこでサタン、神の邪魔をする者だと言われてしまっています。

神の御心を求める

 かつて蛇を通してサタンは、うまい言葉で人をだましました。そして人は自分の腹に仕え、神に背いたのです。
 私たちもサタンのこの巧妙な言葉にだまされやすいです。
 正しいことを言っているようで、神の邪魔をする者になってしまいます。
 「そんなに熱心に信仰生活を送らなくてもいいじゃないか。奉仕や献金はほどほどにしときなよ。疲れたら礼拝も休んだらいいよ。」と家族が優しく言ってくれる。それは家族の愛です。
 では神は何を求めておられるのでしょう。
 イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、自分の家で休みなさい」とは言いませんでした。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いています。
 人間のことだけでなく、神のことを考えてください。

 今は多様性ということが強調されます。色々な人がいます。その違いによって人を分け隔てしないようにしよう。これは大事なことです。
 しかし「わたしの価値観も正しいし、あなたの価値感も正しい。どれも正解。」このように価値観が相対化し、絶対的な基準が見失われています。
 神が人を男と女にお造りになった。そして一人の男性と一人の女性が結婚するという祝福を与えられた。
 聖書はそう言うけれど、心の性別は色々あるの。それも愛だし、これも愛。あれも愛で、どんなかたちでも愛し合うなら結婚しちゃおう。
 本当にそれでいいのでしょうか。
 私はキリスト教会が伝統的に守ってきた価値観にも懐疑的です。疑り深いので。
 大事なのは、聖書が何と言っているかです。
 素直に信じ従う従順さは大事ですが、どんな言葉でも受け入れていいわけではありません。
 べレアの人たちのように、その教えが聖書の言う通りかよく調べてください。

 私たちはキリストの体。頭であるイエス・キリストを見上げ、その御心に従うのです。
 その時私たちはキリストの体の部分として、本当の多様性の中にある一致を生み出します。
 善にさとく、悪には疎くあれ。
 神はサタンを私たちの足下で打ち砕きます。

弱い時こそ強い

 そして再び挨拶に戻ります。今度はパウロと一緒にいる人たち。
 テモテはパウロの忠実な弟子の一人ですね。後に若くしてエフェソ教会を任されます。
 ルキオ、ヤソン、ソシパトロは使徒言行録にも名前が出てきます。ルキオはアンティオキア教会のリーダーの一人。ヤソンはテサロニケでパウロたちをかくまい、ユダヤ人たちに捕らえられた人。ソシパトロはべレアの人で、パウロに同行していました。
 それからテルティオという名前が出てきます。なんと、パウロの言葉を書き写しているご本人登場です。普通は名前を出さないのですが、彼もローマの教会の人たちと何かつながりがあったのでしょうか。
 他にもガイオ、エラスト、クアルトという名前が出てきます。ガイオは新約聖書に何回か出てくる名前ですが、たぶん別人です。このガイオはコリントの信徒への手紙で紹介されている、パウロが洗礼を授けた人かもしれません。パウロたちに家を提供していました。エラストは市の経理係。公務員です。クアルトはよくわからないので省略。
 このように色々な人たちの助けがありました。

肉体的な弱さを持っていたパウロ

 さて、パウロがこの手紙をテルティオに書かせたということをもう少し掘り下げてみます。
 新約聖書に残る手紙の中で、おそらく最初はガラテヤの信徒への手紙が書かれました。そこには、パウロが自分の手で書いたとあります。それも大きな字で書いたと。
 ガラテヤ書を読んでいくと、パウロは肉体的に弱くなり、ガラテヤの信徒たちに助けてもらったようです。
 彼らは自分の目を取ってでもパウロを助けようとしたとあります。
 もしかするとパウロは、目の病気になっていたのかもしれません。
 医者のルカが宣教旅行に同行していたことからも、パウロには何らかの肉体的な弱さ、トゲがあったことがわかります。
 しかしそのような弱さを持ったパウロを、ルカやテモテ、そしてテルティオのような仲間たちが助けてくれました。

 そしてパウロは祈りの中でこう示されました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

コリントの信徒への手紙二12:9

 私たちが弱い時にこそ、主の恵みを感じられます。
 そして支えてくれる家族や友人、仲間たちの存在に気付くことができます。

 私は神学生の時に足の骨を折りました。バイトができず収入がなくなり、貯金も底をつきました。
 それでも生き延びることができました。
 その時、多くの人たちに支えられ、主の恵みに養われていると実感しました。

 私たちはこうして弱さの中で、主の恵みに力づけられます。
 自分の思った通りにならない状況の中で、神の導きを体験します。
 私たちもそれぞれ弱さがありますが、互いに支え合っていきましょう。
 この弱ささえも神の恵みです。

ローマから世界へ

 福音はこのように私たちを強めることができます。
 この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。
 天地創造の時から既に神は計画を持っていました。人はサタンの巧妙な言葉にだまされて罪を犯しますが、その時から神はサタンを打ち砕くと約束しています。
 この秘められた計画は預言者たちを通して神の民に伝えられてきました。
 その預言の成就としてイエス・キリストが来ました。
 イエス・キリストの十字架の死と復活によって救いの業は成し遂げられ、異邦人も救いに招かれています。

私の福音

 この福音を私たちも受け取りました。
 パウロはこれを私の福音、自分自身のものとして受け取っています。
 私たちも福音を、パウロの福音、教会の皆の福音、お父さんお母さんの福音ではなく、私の福音として受け取ってほしいです。
 自分のものとして受け取るとき、福音の力を体験します。
 天にあるものも地にあるものも引き離すことができない神の愛で愛されていることを知ります。私は圧倒的な勝利者とされているのだと知ります。

全世界に福音を伝える

 福音の力強さを受け取った人は、私の福音に留まりません。
 この福音を分かち合いたくなります。

 「すべての道はローマに通ず」と言います。
 世界のあちこちにローマ帝国の影響があったことを見ます。
 だからローマから全世界に出ていくことが可能です。
 パウロはそうしてローマから地の果てまで福音を届けようとしました。

 今私たちも世界とつながる時代に生きています。
 このつながりを生かして、全世界に福音を届けることができます。
 さあ福音を伝えよう。
 私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
 God be with you. 神が共にいます。
 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

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