創世記1
天地創造
創世記 1:1-2
1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
因果の世界観
教会の2階の窓にエアコンを付けました。天井に付いているエアコンが壊れたからです。
なぜエアコンが壊れたかというと、単純に長く使ったからということもありますが、掃除などメンテナンスを怠ったからでもあります。
このように今ある出来事に対して過去の原因を追究することができます。
ある原因があって、この結果が生じた。
そうであれば、今こういう結果が生じたのは、それなりの原因があるはずだ。
このように原因と結果を結びつける考え方を因果と言います。
良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起きるはず。因果応報です。
今あるのは偶然の結果であり意味などない
本当にすべての結果に対して、ふさわしい原因があるのでしょうか。
原因を追究することは科学の発展に貢献します。
今この世界に多種多様な生き物がいるのはなぜか。長い時間をかけて遺伝子が変異し、自然選択によってその環境に適応した種が生き残ったからだ。
人間とサルに似ている部分が多いのはなぜか。人間はサルから進化したからだ。
宇宙を調べてみると、地球から遠く離れた天体からの光が赤く見えます。
これはその天体が地球から遠ざかっており、ドップラー効果によって波長が長くなっているからだと考えられます。
宇宙全体で同じ現象が観測されるので、今宇宙は広がり続けているようです。
ということは時間をずっとさかのぼっていくと、宇宙はもっと狭かった。さらに言うと、1点に収束される。そこから大爆発ビッグバンによって宇宙が生まれ、星々が生まれたのではないか。
このような進化論やビッグバン理論によって私たち人間が生きている原因、今のこの世界が存在する原因を理解している人は多いのではないでしょうか。
今は科学の時間ではありませんから、これらの理論に対してとやかく言うことはしません。
しかしそこから生じる世界観には気をつけていただきたいです。
結果にふさわしい原因を求めていくと、人はなぜ生きているのか、この世界はなぜ存在するのかという問いが生まれます。
これを科学で説明しようとすれば、結局あれがあって偶然こうなった。意味なんてないということになります。
神は天地を創造された
しかし聖書は断言します。「初めに、神は天地を創造された。」
この世界は偶然存在しているのではない。神が創造したのだ。
この世界は初めから終わりまで神の計画の内にある
因果関係を追及する人は問います。では世界を創造した神はどこから来たのか。
創造主なる神は、そのような世界の法則の外にいます。
「初めに」という時間の概念すら、神の創造です。過去の原因に対して今の結果があるなどという順序に縛られるはずがありません。
預言者イザヤは言います。
『わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。』()
イザヤ書46:10
神が創造した世界は、決して偶然の産物ではありません。
初めから終わりまで、神の計画の内にあります。
神が望んだ御心に従って、今この世界があります。
そして神が計画したゴールに向かっています。
因果応報の世界観では、今の苦しみという結果には過去の原因があるのだと考えます。
過去に悪いことをしたから、このような罰を受けるのは当然だ。
すると、あの人が今このようになっているのは、あの人自身か両親が罪を犯したからだと言うこともできます。
しかしイエス・キリストは言います。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
初めから終わりまですべては神の支配の下にあります。マイナスに思える状況も、神の栄光を現わす機会です。
この世界は三位一体の神の愛の現れ
創世記1章は創造主なる神をエロヒームというヘブライ語で表現しています。エリの複数形です。
複数形ですが、たくさんの神々がいたということではありません。
一種の強調表現です。強調するときに同じ言葉を繰り返すように、偉大なお方を表すときに複数形を使います。他に比べることのできない偉大なお方が、この世界を造られた。
今日の本文にはエロヒームの他に、ルーアハという単語が出てきます。これは風と訳すこともできますが、神の霊を意味する言葉です。聖霊のことです。
またヨハネによる福音書には「初めに言があった。」とあります。この言は世界を創造した神の言葉であり、イエス・キリストのことです。
三位一体の神が共に働いて世界を創造したのだということがわかります。
なぜでしょう。神が世界を創造したのにも意味、理由があるはずです。
人は不足を補うために物を作ることがあります。
しかし三位一体の神に足りないところ、欠けているところはありません。神が他のものを創造する必要などないのです。
では愛し合う夫婦を考えてみてください。互いに愛が満ちあふれ「あなたこそ私のすべて。他に必要なものはない。」と心から思っているとします。
でもそれで終わりですか。本当に何もなくていいのですか。
愛し合うからこそ、共に生活する場所が欲しくなるではありませんか。
そして愛の結晶として子どもが与えられ、夫婦で共に子どもに愛を注ぎたいと願うのではないでしょうか。
三位一体の神の間には完全な愛の交わりがあります。
だからこそ神は、その愛を表現する場としてこの世界を、愛を注ぐ対象として生命を造られたのでしょう。
この世界は偶然造られたのではなく、無意味な存在など何一つない。
すべては神の愛の計画の内にあります。
神の霊が動いていた
神から離れた空しい世界
天地創造の前の世界の有様について「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」とあります。
混沌というと何か色々なものがごちゃごちゃと散乱しているような感じがしますが、他の訳では「形なくむなしい」と訳されています。無秩序で意味をなさない状態です。
それに対して神の創造は、秩序を生み、意味を与えます。
神の支配が及ぶとき、そこに秩序と意味が生まれる。
しかし神から離れてしまうと、世界は再び無秩序になります。そして意味なんてないと思わされます。
今この世界に生きる私たちが、すべては偶然だ、意味なんてないと思わされるのは、神から離れているからではないでしょうか。
目の前の現実を見ながら、こういう良い結果になったのは私が良い行いをしたからだ。悪い結果になったのは私が悪いことをしたからだと思う。
全く神のことを考えていません。
因果応報の考えは、神の恵みの存在を排除してしまいます。
そして神を見失い、混沌とした闇の中をさまよう空しい人生に陥ります。
神の御翼の陰で守られている
しかしその混沌と闇の世界にあっても、神の霊が動いています。
聖霊なる神は今もこの世界で働いています。
この動くという動詞は特殊な言葉が使われていて、親鳥がヒナを守るように翼を広げる様子を表します。
私たちの人生が混沌とした空しさに覆われるような時がある。
闇がこの世界を覆っているように感じられるときがある。
荒野をさまようような空しい人生です。そのような時でも聖霊が共にいます。
神の御翼の陰で私たちは守られています。
10 主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた。11 鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように 12 ただ主のみ、その民を導き/外国の神は彼と共にいなかった。
申命記32:10-12
神は世界の初めに天地万物を創造し、後は知らないと放っておく方ではありません。
創造のプロセスは究極の完成に向かって今も働いています。
愛の対象として造られた一つ一つの被造物に目を留めておられます。一羽のスズメさえ、父なる神様の許しがなければ地に落ちることはありません。
今は神の愛などどこにあるのかと思えるような世界の現実がありますが、この世界を救い回復させるために、神の言葉は肉となって私たちの間に宿られました。
そして十字架で死なれ復活されたこのお方だけが、私たちをこの暗闇の世界から探して救い出す唯一の救い主です。
創造主なる神に出会う
私は理系の人間で、証明されたことしか信じられないと思っていました。神などいてたまるかという感じです。
しかし勉強をしていく中で、多くの数学者たちの神に言及する言葉に出会いました。そこで、神とは何なのかと疑問に思いました。
そんな時、教会に誘われて初めて聖書の言葉を聞きました。
それが創世記1章1節。
神がいるとかいないとか、そういう議論をすっとばして、神が世界を創造したのだと宣言する。
この言葉が深く胸に刺さり、神を知りたいと願いました。
そして神を知り、イエス・キリストに出会い、空しい人生から豊かな人生に変えられました。
これから創世記のシリーズを始めていきます。
神について、そして神が造られたこの世界について聞きながら、神に愛される者として造られた尊い人生を生きていってほしいと願います。
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