創世記31

神に見守られている

創世記 16:7-16

7 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、8 言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、9 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」10 主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」11 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。12 彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」13 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。14 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。15 ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。16 ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

神が悩みを聞いてくださる

 前回、サライは神様の計画を自分の力で成し遂げようとして問題を起こしました。自分に仕える奴隷ハガルちゃんをアブラムの第二夫人にしようとしたんですね。
 アブラムはそれを受け入れます。当時は合法でしたが、不倫です。
 ハガルちゃんは身ごもると調子に乗って、サライを軽んじるようになりました。
 怒ったサライはアブラムを責めます。
 アブラムは自分で責任を取ることをせず、サライに丸投げ。
 サライがハガルちゃんをいじめたので、彼女は逃げ出してしまいます。
 ここには色々な問題がありますが、2つにまとめると子どもの問題と家族関係の問題です。
 アブラムに子どもが与えられない。それを解決しようとしたのが事の発端です。しかし子どもを宿したハガルは出ていってしまった。
 そしてアブラム、サライ、ハガルは互いに関係が悪化してしまいました。

ハガルの悩み

 今日はその続きの話です。
 サライはシュル街道に沿う泉のほとりにいました。
 シュル街道はカナン地方とエジプトを結ぶ道です。アブラムたちがいたヘブロンも通っています。
 その道のエジプト近くに、シュルの荒れ野があります。おそらくそのあたりのオアシスのようなところにいたのでしょう。
 エジプト人のハガルは、故郷の両親のもとに帰ろうとしたのかもしれません。
 ハガルは奴隷の身分ですから、自分の財産はほとんどなかったと思います。着の身着のまま、歩いてきました。
 ヘブロンからは250㎞ほど離れています。歩くと1週間くらいかかります。お腹の大きいハガルは、もっと時間がかかったことでしょう。
 大変な旅だけれど、もう主人のところには帰れない。お腹の子は、自分がシングルマザーとして育てるんだ。そのような決意が感じられます。
 しかしエジプトに自分の居場所はあるだろうか。どのようにこの子を育てていっただろうか。そのような悩みを抱えながら旅をしていたことでしょう。

女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい

 そんな時、ハガルは天使に出会います。そして天使は聞きました。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
 人はどこから来てどこへ行くのか。哲学的な問いです。
 しかしサライの場合は難しくありません。サライから逃げて実家に帰るのです。
 すると天使は言いました。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
 今行くべきところはママのいる実家ではなく、主人であるサライのところだ。
 でもサライに会えばまたいじめられるかもしれない。
 確かにハガルをいじめたサライは悪いです。
 しかしハガルがサライを軽んじるという問題もありました。そこはちゃんと謝らなければなりません。そして主人に従順に仕えるべきです。
 ここに神様の御心があります。
 神様は問題ある人と関係を断つことを願っているのではありません。
 罪を認めて立ち帰り、和解することを願っています。

イシュマエル

 天使は続けて言いました。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。」
 お腹の子は男の子。その名はイシュマエル。
 この名前は、「神は聞いた」という意味です。
 神様はハガルのつぶやく悩みを聞いていました。
 そしてイシュマエルの将来についての約束を与えます。
 野生のロバのようになり、互いに敵対して暮らす。
 あまり幸せそうではありませんが、ハガルには希望となったと思います。誰かの奴隷として仕えたり虐げられたりする人生ではない。この子がそのように力強く独立した人生を歩むと思えば、これから待っている苦労も乗り越えられそうです。
 ハガルはサライのところに帰る決意をしました。ちゃんとごめんなさいと言って、仲直りするのです。

どこから落ちたのか

 私たちは人生の中で様々な問題を起こします。それで人との関係が難しくなる。
 その時、人との関係を断って自分の殻に閉じこもるのも1つの選択肢です。まず自分を守る必要がありますから、それもいいです。
 しかしずっとそのままでいていいわけではありません。
 神様は和解し回復することを願っています。
 その和解のプロセスとして大事なのが、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」という問いです。
 自分はどこから来たのか。この問題の発端は何か。
 黙示録でイエス様も言っています。

4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。

ヨハネの黙示録2:5-6

 エフェソ教会には愛がありました。神から受けた愛です。
 しかし異端との戦いがあり、自分たちを守ろうとする中で冷たくなっていきました。
 どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの愛に立ち帰るのです。

神に目を向ける

 過去の過ちや痛みや振り返ることは大切です。
 しかしそこに留まったままではいけません。
 どこから来てどこへ行くのか。
 その行くべきところを示してくださるのは神様です。

 イエス様もある井戸のそばで1人の女性に出会いました。
 彼女も問題を抱えていました。男女関係の問題があり、町の女性たちからも白い目で見られていました。それで暑い昼間に人目を避けて水汲みに来ています。
 イエス様は彼女に出会い、彼女の抱える問題に触れます。イエス様は彼女の深い悩み、心の渇きを知っていたのです。
 そして話題は礼拝の問題に移ります。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時だ。」と。
 これまでの問題を振り返り、神様を見上げるようになった彼女は変わりました。
 人目を避けていた彼女が、町中の人にイエス様のことを証しするようになりました。
 私たちの心の深い悩み、つぶやきを神様は聞いています。
 そしてどこへ行くべきかを神様が示してくださいます。

どんな人も神は見捨てない

エル・ロイ

 ハガルはここであることに気づきました。
 最初は天使だと思って接していたけれど、「主があなたの悩みをお聞きになられた」と言っていた。天使ではなく、主でした。
 主なる神様ご自身が自分に目を留め、悩みを聞いてくださった。
 それでハガルは神様をエル・ロイと言いました。
 そのまま訳すと「見える神」です。その後の言葉も「わたしは神を見て、神を見た後でも生きていたのだろうか」と訳すことができます。
 それでハガルはそのオアシスにあった井戸をべエル・ラハイ・ロイと呼ぶのですが、これは「わたしを見てくださり、生きておられる方の井戸」という意味です。
 ですから神様は見える神であり、私を顧みてくださる神です。

 ここにはハガルの大きな驚きがあります。
 彼女は身分の低い奴隷です。そして主人であるサライにいじめられて逃げて来た。お腹の赤ちゃんと寂しく孤独な旅をしていると思っていた。
 しかしこんな自分に神様は目を留め、出会ってくださる。
 ハガルはそこで神をこの目で見ました。聖い神を見てしまいました。
 ハガルがサライともめたのは、ハガルがサライを軽んじたからです。そこには高慢という大きな罪があります。
 またハガルのお腹にはアブラムの子がいます。これは合法とはいえ、不倫という不適切な関係で身ごもった子です。
 このような罪人が、聖い神様を見て無事なはずがありません。光に照らされると闇が消えるように、罪人が神様を見たら死んでしまうはず。
 しかし神を見てもなお生きている。生かされている。
 そのような驚きが、ハガルの言葉に込められています。

どんなに罪で汚れていても神の愛で生かされている

 神様は私たちを見ています。
 私たちがどのような者であったとしても、神様が見捨てることはありません。

5 だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、憐れみをかける者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。6 しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。

エゼキエル書16:5-6

 これはエルサレムに対する神様の言葉です。
 エルサレムは罪に汚れ、皆から嫌われ、野に捨てられていた。
 血の中でもがくエルサレムに対し、神様は「生きよ」と言ってくださった。
 私たちがどんなに罪の中で汚れているとしても、人間関係が難しくなっているとしても、神様は私たちに目を留め、「生きよ」と言ってくださいます。
 私たちはその神の愛によって生かされています。

十字架による和解

 私たちは問題を起こし、人間関係だけでなく神様との関係も壊れています。
 アダムとエバが罪を犯したとき、神様は彼らをエデンの園から追放します。神と人との間には越えられない深い断絶ができました。
 しかし神様はこの断絶を放っておきません。
 神様に立ち帰る道を用意していました。
 その父なる神様に至る唯一の道、真理、命がイエス・キリストです。
 神と人との間の壊れた関係を修復するために、神ご自身が人となって私たちの間に宿られた。
 そして十字架で私たちの罪を償ってくださった。十字架によって私たちは神との和解を得ます。
 また十字架はあらゆる隔ての壁を壊しました。だから人と人との間でも和解することができます。
 あらゆる問題の解決が十字架にあります。

神が問題を解決する

 ハガルはアブラムとサライのもとに帰りました。
 受け入れてもらうために、自分の間違いを認めてサライに謝罪したはずです。サライも反省していじめを止めたでしょう。仲直りできました。
 それから時が経ちアブラムが86歳の時、ハガルは男の子を産みます。そしてイシュマエルと名付けました。
 アブラムにとって待望の第一子です。この子は約束の子ではありませんでしたが、アブラムの子であることは間違いありません。アブラムも父親として責任を持って育てます。
 こうして子どもの問題も家族関係の問題も解決が与えられました。
 どんなに難しく思える問題があったとしても、神様はそれを最終的に解決されます。
 万事が益となるように共に働いてくださいます。

神は和解を願っている

 今皆さんも様々な問題の中にあるかもしれません。
 ある人は問題があるときに、人との関係を破壊しようとしてきます。
 それは神様のやり方ではありません。
 子どものいる既婚者が「この結婚は神が命じたものでではないから離婚します」と言うのを聞いたことがあります。それこそ神の御心ではありません。
 アブラムとハガルの関係は不適切なものであり、神が命じたものではありませんでした。
 イシュマエルも不適切な関係で生まれた子です。
 だからアブラムとハガルは別れるべきですか?
 イシュマエルは生まれない方が良かったのですか?
 決してそんなことはありません。
 たとえ人間の策略で結婚させられたとしても、神様はその二人を祝福してくださる。どんな事情があったとしても、神が結び合わせてくださいました。神が結び合わせたものを人が離してはいけません。
 どんな事情で身ごもったとしても、その子は神がお造りになった命です。この結婚は間違いだったなどと言うのは、神が与えた命を侮辱することになります。
 そのように人間関係を破壊するようなウソを吹き込む者を、断じて許すことはできません。
 神様は和解することを願っています。
 どこから来てどこへ行くのか。
 帰るべき道を神様が示してくださいます。

 神様は私たちを見守り、悩みを聞いてくださいます。
 その神に立ち帰り、人々の関係も回復していくことを願います。


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