喜びで満たす神に立ち帰れ

使徒言行録講解42

喜びで満たす神に立ち帰れ

使徒言行録 14:8-17

8 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで 15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。16 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

バウキスとフィレモン

 古代ローマの詩人オウィディウスの「変身物語」はギリシャの神々に関する物語を集めた作品です。イカロスの翼やナルキッソスが水仙になる話など、有名な話がラテン語で記録されています。
 その中にバウキスとフィレモンという年老いた夫婦の話が出てきます。
 昔々、ユピテル(Jupiter)とその息子で伝令の神であるメルクリウス(Mercurius)は貧しい旅人に変身し、小アジアのフリギア地方を旅していました。ギリシャではユピテルはゼウス、メルクリウスはヘルメスに当たります。
 やがて日が暮れ、神々は正体を隠したまま家々の戸を叩き、泊めてくれるよう頼みました。しかし戸を開けてくれる親切な家は見当たりません。
 神々は町の外れにあるあばら家にたどり着きました。そこに住んでいたバウキスとその夫フィレモンは、神々を快く迎えてくれました。老夫婦は旅人の足を洗い、燻製肉を煮込み、サラダやチーズ、玉子、ワインを食卓に並べ、晩餐を始めました。
 給仕をしていた老夫婦はしばらくして不思議なことに気づきます。旅人の杯にワインを何度も注いだのに、瓶の中のワインは少しも減っていないのです。それどころか満杯に満ちています。そこで老夫婦は、この旅人が神々であったことに気づきます。
 老夫婦は大切に飼っていたガチョウをいけにえとしてささげようとしますが、神々はそれを制してこう言います。
「我らは神である。この地の不愛想な住民どもは、すぐさまその報いを受けなければならない。しかしあなたたちは罰を受けなくていい。我らに従い、丘の上に上がりなさい。」
 老夫婦が驚きながら丘の上に上がり振り返ると、町は洪水によって水没していました。そして自分たちの住んでいたあばら家は、大理石の神殿に姿を変えていました。
 ギリシャ神話には様々な神々が出てきます。神々の王ゼウス、伝令の神ヘルメス、天の神ウラノス、大地の神ガイア、海の神ポセイドン等々。それぞれの神は互いに親子や夫婦、兄弟などの関係があり、よくケンカをします。ゼウスには結婚の神ヘラという妻がいますが、何人も愛人がいてヘラを怒らせました。物語としては面白いのですが、ケンカしたり浮気したり、とても人間的というか器が小さいというか。結局はこの世界を説明するために人々が作り上げてきた物語でしかないという感じがします。
 バウキスとフィレモンの話にしても、夜中に急に来てもてなしをしてくれなかったからといって、洪水で町を滅ぼすなんて理不尽すぎるでしょう。独裁者か。

機嫌を取らないと災いを起こす神

 しかしこのような神観は、古代ギリシャ人だけでなく、私たちの中にもあるかもしれません。神様の機嫌を取らないと、神様は怒って災いを起こすかもしれない。だからちゃんと礼拝をささげ、聖書を読み、祈り、献金をして、神様を喜ばせなければならない。神様は妬む神だ。もし他の神や人、財産を頼ったら、神様に対して浮気をしたことになる。偶像崇拝をしたら災いにあう。
 そのような考え方は、論理としてはよく理解できます。私たちが信じる神様とは、そのような方なのでしょうか。

 今日の本文はパウロとバルナバがリストラで経験した出来事です。
 2人はピシディアのアンティオキアで2週間にわたって会堂で福音を語りましたが、ユダヤ人に拒まれ、追い出されてしまいました。2人は足の塵を払い落としてから、イコニオンに向かいました。
 イコニオンでも今までと同じように会堂で福音を語りました。ここでもユダヤ人の反対にあいますが、2人はそこに長く留まり、しるしと不思議な業を行い、恵みの言葉が真理であると証ししました。しかし反対者たちが石を投げつけようとしたため、リカオニア州のリストラとデルベに移動し、そこでも福音を伝えました。
 今日の本文はその途中、リストラで起こったことです。
 リストラに、生まれつき足の不自由な人がいました。パウロがこの人の近くで福音を語っていたとき、彼も耳を傾けていました。パウロは彼に信仰が与えられたことを見抜き、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いました。すると彼は躍り上がって歩き出しました。
 群衆はこれを見てリカオニアの方言で「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言いました。さらにゼウスの神殿の祭司は2人にいけにえをささげようとしました。
 2人は服を裂き、福音を語ります。

神への恐れから出る過剰な反応

 足の不自由な人が癒される話は使徒言行録3章にも出てきました。ペトロが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って手を取ると、生まれつき足の不自由だった人が躍り上がって立ち、歩き出しました。
 そのとき周りにいた人たちは我を忘れるほど驚きました。しかしペトロとヨハネを神と同一視したり、いけにえをささげたりすることはありませんでした。
 それに対しリストラの人々はバルナバをゼウス、よくしゃべるパウロをヘルメスと呼び、いけにえまでささげようとしています。
 これはユダヤ人とギリシャ人の神観の違いから来るものですが、ちょっとやり過ぎですよね。なぜここまで過剰な反応になるかといえば、バウキスとフィレモンの物語があったからでしょう。
 ゼウスとヘルメスが旅をしたフリギアは、リカオニアの北西にある地域です。すごく身近な物語です。バウキスとフィレモンの話では、旅人のフリをしていたゼウスとヘルメスをもてなさなかった人たちはどうなりましたか。洪水で滅ぼされたのです。フリギアの人たちと同じ過ちを繰り返してはいけません。
 災いを起こす神への恐れから、過剰な反応が出てきてしまいました。

私たちが礼拝する神はどのようなお方か

 では聖書が語る神はどのようなお方なのでしょうか。聖書の中にも神が洪水で世界を滅ぼす話や、旅人の姿で老夫婦からもてなしを受ける話が出てきます。しかしもてなしがなかったからといって災いを起こすことはありません。
 イエス様が生まれるとき、宿屋はいっぱいで、泊まる場所がありませんでした。しかしベツレヘムの町が滅ぼされることはありませんでした。
 サムソンの両親のところに御使いが現れたとき、両親はもてなしをしようとしました。しかし御使いは、「わたしはあなたの食べ物を食べない。もしささげたいなら主にささげよ」と言いました。
 民数記の中では「わたしの食物である献げ物」という言葉が出てきます。しかし主は、私たちがささげるもので生きているわけではありません。ささげものがなかったり少なかったりすると飢え死にしたり、腹を立てたりすることはありません。
 むしろ主は、私たちがささげることができるように、日用の糧、十分な恵みを与えて下さる方です。私たちは主に養われています。その主から与えられたものの中から、贖いのための献げ物、感謝の献げ物、信仰の告白の献げ物がささげられました。そしてささげられたものの一部はレビ人を養ったり、幕屋や神殿を維持するために用いられました。
 今日も主は私たちの必要を満たしてくださっています。そして神の小羊イエス・キリストが十字架で贖いを完了してくださったので、私たちは贖いのための献げ物をする必要がなくなりました。今は感謝と信仰の告白として献げ物をすればいいし、それがないからといって災いにあったり神を怒らせたりすることはありません。
 しかし間違った動機でささげる献げ物に対して、神はその罪を指摘します。形ばかりで適当な心でささげたものは受け取らないし、パフォーマンスのように人から称賛されるためにささげてはいけません。
 サウル王に対して主は、聞き従うことはいけにえに勝ると言いました。

 もう一つ気をつけなければならないのは、偶像崇拝です。他の神や人、物を神にしてしまってはいけません。
 パウロとバルナバは人間です。
 リストラの人たちが自分たちにいけにえをささげようとしているのを見て、2人は服を裂きました。これはユダヤ人が悲しみや嘆きを表す行為です。そんなことをしてはダメだという思いが伝わってきます。
 そして群衆の中に飛び込み、このように言いました。
「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。」
 ギリシャにはゼウス、ヘルメス、ウラノス、ガイア、ポセイドン、色々な神々がいますが、それは結局人間の想像の産物です。
 石で作られた像は、人間が石の中から掘り出した物に過ぎません。そこに命はないのです。
 しかし私たちが信じる主は、生ける神です。天と地と海と、その中にあるすべてのものを造られた唯一の創造主です。

 ただ、これだけでは「それはユダヤ人の神でしょ。ギリシャにはギリシャの神がいる。日本には日本の神がいる。」で終わりです。
 そこでパウロは続けて言います。
「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
 ゼウスとヘルメスはもてなしをしなかった人たちを洪水で滅ぼした。主なる神はそうではない。すべての人に恵みをくださる。ユダヤ人もギリシャ人も関係ない。善人だけでなく悪人にさえも恵みの雨を降らせてくださる。そして食べ物を与えてくださる。

私たちはなぜ神を礼拝するのか

 私たちはなぜ礼拝をささげるのでしょうか。
 怒る神をなだめるためではありません。私たちが神を食べさせてあげるためでもありません。
 1つは神の栄光を表すことです。天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた生ける神の偉大さをたたえるのです。
 そして神への感謝を表すことです。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっている神に感謝を表すのです。
 私の大好きな御言葉の1つが、礼拝の本質をよく表しています。

『9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」』

ネヘミヤ記8:9-10

 私たちに恵みを与え、養ってくださる主を喜びましょう。

十字架と復活で生かされている礼拝者

 パウロのこの説教では、当然語られるべき福音が省略されています。それはイエス・キリストの十字架の死と復活です。ここには記されていませんが、パウロは当然このことも語ったはずです。
 私たちもこの十字架と復活という恵みを忘れてはいけません。
 静岡県にも緊急事態宣言が出ました。今世界では1日1万人のペースで人が亡くなっています。
 なぜこんなことが起こるのか。これは神からの警告ではないか。悔い改めなければならないのではないか。そのような思いになるかもしれません。
 もちろん罪は悔い改めるべきです。しかし、私たちの罪のために神が災いを起こしているということは決してありません。
 神に背き、神を捨てた私たち。その人間を罪から贖い、救うためにイエス・キリストは十字架で死なれたのです。そして復活し、新しい命に生かしてくださっています。
 私たちはこの世界に生かされています。
 たとえこの世界がウイルスによって揺り動かされても、キリストという土台の上に立てられた私たちは揺り動かされることがありません。
 そして絶えることなく恵みを受け、実を結ぶことができます。どのような実でしょうか。愛の実です。人々を生かす実です。

『1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。』

黙示録22:1-4

  この世界は弱者を切り捨てます。
 余裕のある人は家に閉じこもっても生きられます。その生活は誰かに支えられています。貧しい労働者たちは外の世界でウイルスの脅威にさらされています。
 政治家が家でくつろぎ、犬と戯れている間にも、今日明日を必死で生きている人がいます。
 やっと10万円を給付すると言ったかと思えば、電子マネーだとか手を挙げた人にだとかハードルを作る。
 この地上の政府が支給できないものが、神と小羊の玉座から流れ出ています。
 それはキリストの命です。すべてを生かす命の水です。
 最前線で働いてくれている人たちがいます。ある人々はマスクを作り、寄付しました。それが難しくても、身近な人やお世話になっている人に感謝の言葉をかけましょう。マザー・テレサが言ったように、世界平和のためにまず家に帰って家族を愛そう。
 私たちのこの小さな愛が、すべてを生かします。
 天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた生ける神を礼拝しましょう。
 もはや、呪われるものは何一つないという時が来ます。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
 私たちの心を喜びで満たす神に立ち帰り、礼拝していきましょう。

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