平和ではなく剣を

マタイによる福音書 10:34-39

34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。36 こうして、自分の家族の者が敵となる。37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 2週間に渡ってイースター関連の聖書箇所からメッセージを語ってきました。
 もう少しイースター関連の話を続けようか、創世記の講解に戻ろうか悩みました。
 それでどちらでもない別の箇所からメッセージをすることにしました。
 どうしてもここから語っておかないといけないという思いがありましたので。

平和をもたらすために来たのではない?

イエス・キリストは平和の王子

 預言者イザヤはいつか来る救い主について、その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると言いました。イエス・キリストは平和の王子です。
 パウロも「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」と言いました。
 イエス様ご自身も「わたしの平和を与える。」と言っています。この世の平和とは違うイエス様の平和がある。それを持っているから、与えることができるわけです。
 またイエス様は「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」とも言いました。平和を作る者になるよう、私たちに求めています。
 このように見ていくと、イエス様がこの世界に平和をもたらすために来たのは明らかです。

剣をもたらすために来た

 ところが今日の本文でイエス様は驚くべきことを言います。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。」
 え、違うの?
 じゃあ何をしに来たの?
 イエス様は言います。「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
 剣というのは戦いの武器。人を斬って殺します。
 なるほど、だからキリスト教徒が戦争を起こすときも、自分たちは神に従っているんだと言えてしまうわけですね。

 ではイエス様がもたらす剣によって断ち切るべき敵は誰でしょう。
 「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」
 人はその父と敵対し、母と娘も敵対し、嫁としゅうとめも敵対する。
 嫁しゅうとめ問題は全人類のあるあるだなと思いますが、血のつながった親子までもが敵になる。何だかショックですね。
 イエス様は続けて「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と言います。キリストに従う者になるために、父・母・息子・娘をイエス様以上に愛してはいけない。ということは、イエス様の言葉に従って父・母・息子・娘と敵対することがキリストの弟子になる条件なのでしょうか。

 旧約聖書を見ても、モーセが「おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ。」と命令するんですね。
 それに従って自分の同胞3千人を殺したのがレビの一族。中には自分の子や兄弟に手をかけた者もいたようです。
 この事件がきっかけで、レビ人は神に仕える祭司に任命されます。
 そうか、私たちはキリストの弟子になるために親兄弟と敵対しないといけないんですね。
 ルカによる福音書ではイエス様が、福音のために妻を捨てるという話もしています。夫婦も敵対しないといけない。
 さすがに剣で殺すのは「殺すな」という十戒に違反するのでダメですね。
 せめて縁を切るというところでしょうか。

聖書は戦争や家族との絶縁を勧めてなどいない

 このように聖書の一部を取り出して戦争を肯定したり家族の縁を切らせようとしたりするのは異端の教えです。
 完全に間違っています。騙されないでください。

 最初に見たように、イエス様は平和をもたらすために来たことは間違いありません。
 剣を取る者は皆、剣で滅びるのです。
 レビの一族がしたことは完全に暴走です。
 モーセも、主が命じていないことを主の言葉であるかのように語っている。
 レビ族がこのように暴力的なのは、先祖レビから受け継がれた呪いです。それでレビ族は約束の地に土地を持つことができなくなります。
 しかし神はレビの暴力性を神への熱心さに変え、祭司として生きる道を備えてくださいました。
 これはただ神の憐れみであって、レビのしたことを決して見習ってはいけません。

 夫婦は神が結び合わせてくださった神秘的な関係であり、子どもは神様が委ねてくださった宝物。
 だから神は家族が互いに愛し合うことを願っています。

対立が生じてもキリストに従うか

 ではなぜイエス様はこのようなことを言ったのでしょう。
 実はイエス様のこの言葉は、旧約聖書からの引用です。
 イエス様はこの言葉を、12弟子を宣教に派遣する前に語りました。そのような背景や文脈にも注意が必要です。
 弟子たちはユダヤ人でしたし、マタイは同胞のユダヤ人に向けてこの福音書を書いています。
 ユダヤ人は聖書の知識があるので、どのような意図でこれを語ったか理解できました。

神に背く民の間で神に従う

 イエス様が引用したのはミカ書7章6節。

息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。

ミカ書7:6

 聖書をお持ちの方はミカ書を開いてみてください。
 ミカは神から離れ堕落したイスラエルの民に向けて神の言葉を語ります。
 神を忘れた民は自己中心的で、互いにだまし合います。
 そのような民のところに主の裁きが臨むわけですが、そこで大混乱が起こります。
 隣人も親しい友も信頼できない。そして家族も敵になる。
 しかし、そのような中にあっても預言者は主を仰ぎ、わが救いの神を待つと告白します。

 そしてこの預言は、イエス様が来たことによっても成就するわけです。
 周りの人はイエスが主であることを知らない。隣人も友も、家族も知らない。
 そのような中でイエス・キリストに従おうとするなら、当然反対が起きる。愛する家族も反対する。
 それでもわたしに従うかと、イエス様は問うのです。

大切な人との縁が切れるとしても

 自分から家族や友人の縁を切る必要はありません。
 いや、むしろ切ってはいけない。家族や友人を大事にしてください。
 しかしイエス様に従うとき、イエス様が切ってくださる関係性もあります。

 私は大学生の時、よくお酒を飲んでいました。友だちの家に集まって夜中まで飲んで騒いでいました。
 しかし教会に行くようになってから、時間の使い方、お金の使い方が変わりました。イエス様を信じて心が満たされてからは、お酒がおいしくなくなりました。
 そうすると今までの友だちと一緒に遊べなくなるんですね。「土曜日の夜に飲もうぜ」と誘われても「ごめん、日曜日朝から教会だから」と。
 これが続いて友だちの縁は切れてしまいましたが、結果的に良かったと思っています。

 皆さんの愛する家族や大切な友だちと対立することがあったとしても、イエス様に従うことができますか?

自分の道を走り抜く

信仰者からも反対される

 このような対立はイエス様を信じる人と信じない人の間だけで起きるのではありません。クリスチャン同士の間でも起こります。
 イエス様は「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」とも言いました。それぞれ自分の十字架があるんですね。
 神様は私たちに個性を与え、それぞれ異なった聖霊の賜物を分け与えました。ですから人によって、神様から任された働きは違っています。
 たとえ血のつながった親子であっても、別々の人間です。だから理解ができない時があります。
 小さい時から宇宙が好きだったけど、宇宙飛行士になりたい?
 歌や踊りが好きだったけど、アイドルやミュージシャンになりたい?
 やめとけ、やめとけ、そろそろ現実を見ろ。
 ついこのように言ってしまいますね。
 子どもの可能性を否定したいわけではありません。子供の将来を案じるからです。
 それが神様から与えられた思いだったとしても、親の責任としてブレーキをかけます。
 私ももし自分の息子が牧師や宣教師になりたいと言ったら、まずやめとけと言うでしょう。

反対されても諦めない暴走しない

 皆さんが祈りの中で、あるいは聖書を読みながら与えられた思いがある。こういうことをやってみたいな。
 これが一時の感情ではなく、日に日に確信へと変わっていく。ああ、自分にはこれをする使命があるんだ。
 この思いが神様から来たものであるかを確かめるために、親しい人に相談して祈ってもらう。
 するとクリスチャンの親や友だちが反対した。
 そうしたら諦めますか?
 自分には神様から招かれているという確信があるのに、人に反対されたら諦めるんですか。
 ここで諦めるのも良くないし、親や友だちを無視して暴走するのも危険です。
 神様からの待てのサインだと思って、もっと祈ってみてください。
 やがて道が開き、神様が示す地に進むことができます。

愛に生きるようキリストが招いている

 特に危険を伴う道に進もうとするなら、当然反対があります。
 誰もが自分の命を得ようと、自分の幸せを勝ち取ろうという価値観で生きているからです。
 しかしイエス様に従うならば、必ずこの世の価値観と衝突します。

 イエス様は天の栄光を捨てて自分を無にして人になり、十字架で死なれました。
 ここに神の究極の愛が示されています。
 私たちはこのイエス様に倣い、自分の十字架を負うように求められている。
 友のために命を捨てるような愛に生きることが求められています。
 その道に進むとき、あなたの大切な人があなたを心配して「そんなことがあってはなりません!」と反対するでしょう。
 ペトロが反対した時、イエス様は「じゃあやめとこっかな」とは言いませんでしたね。
 パウロがエルサレムで危険な目にあうと、多くのクリスチャンたちが感じ取っていました。
 それでもパウロは言います。

しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

使徒言行録20:24

平和の主を中心に置くなら人間関係に平和が回復する

 死の力を打ち破り復活したキリストは今も生きておられます。
 釘跡の残るその両手を広げ、「わたしに来なさい」と招いています。
 そこは荒れ狂う嵐の中かもしれない。しかし神の御翼の陰に守られ、私たちにはキリストの平和が与えられます。
 イエス・キリストの十字架によって私たちは神と和解し、人々の間もあらゆる隔ての壁を壊して和解できます。実にキリストは私たちの平和です。
 この平和をこの地に実現していくことが、神の子とされた私たちの生き方です。
 こうして平和の君であるイエス・キリストを中心に置くとき、私たちは本当に家族を愛することができます。
 癒し主であるイエス・キリストが壊れた夫婦関係・親子関係を回復してくださるように。
 壊れたこの世界に平和をもたらす働きに私たちも共に加わることができるよう願います。

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