私たちの使命5

この街の祝福になる

ルカによる福音書 10:30-37

30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

神の民は祝福の源

 今日は私たちの教会が果たすべき使命の5つ目「浜松にいる様々な背景をもった人たちに寄り添います」について見ていきます。
 前回は、私たちが神の家族であるということを話しました。
 家族は家族だけで独立して存在しているわけではなく、社会の中に存在しています。家族の一人一人が、家庭の外に職場や学校などの居場所を持っています。
 神の家族も教会からそれぞれの場所に遣わされていきます。
 私たちの信仰の父アブラハムを、神は父の家から約束の地へと送り出しました。
 そしてすべての民の祝福の源になると約束しました。
 この約束は神の民へと受け継がれています。神の子とされた私たちも、遣わされた場所に祝福を流す通路になるのです。
 神はこの街に私たちを呼び集め、教会としました。
 私たちの教会はこの街に祝福を流すことが求められています。

この街の人たちの隣人になる

 私たちは神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する教会になることを求めています。
 では私たちが愛すべき隣人とは誰ですか。
 同じように問いかけた人に対してイエス様が答えたのが、今日の本文である善いサマリア人のたとえです。

隣人になったサマリア人

 ある人が強盗に襲われて半殺しにされました。
 その人を見た祭司とレビ人は道の向こう側を通って行った。
 しかしあるサマリア人は、その人を見て憐れに思い、助けた。
 このような話です。
 誰がこの人の隣人になりましたか?
 もちろん助けたサマリア人です。
 イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。

 私たちは、この人は自分の隣人であるかどうかを考えます。
 しかしイエス様は隣人になるようにと求めています。

目の前の人を助ける

 祭司とレビ人はなぜ目の前に困っている人がいるのを見て、避けて行ったのでしょう。
 律法には、祭司は自分の父母の遺体であっても近づいてはならないとあります。半殺しにされた人を遠くから見た祭司は、まだ息があるかどうかわからないので避けて行ったのかもしれません。死にかけの人の命を守ることより、戒律を守ることを優先しています。
 ただ単に、自分とは関係ないと思って見て見ぬふりをしたのかもしれません。
 理由はどうあれ、彼らは目の前にいる助けが必要な人を見捨てました。

 一方、善いサマリア人は、半殺しにされた人を見て憐れに思いました。
 彼もこの人を助けない理由をいくらでもあげることができます。
 ユダヤ人から憎まれているサマリア人が何の理由もなくその道を歩くわけがありません。しかし彼はあらゆる予定を後回しにし、持っているものを差し出し、目の前の人を助けました。それから本来の目的地に向かいます。
 そこには民族の対立など問題になりません。

人を教会から遠ざける壁

 私たちはこの街の祝福になるとしても、教会から人々を遠ざける理由はいくらでも見つけられます。この人は愛すべき隣人ではないと、言い訳をして見捨てます。

 かつて神殿には何重もの壁がありました。異邦人の庭、女性の庭、男性の庭。そして聖所と至聖所を隔てる垂幕。
 また祭司の家系に生まれても、身体に障害がある人は祭司としての働きができませんでした。
 神様の前に進み出るには、これらの壁をすべて越えられる人でなければなりません。

 今も教会には何重もの壁があるのではないでしょうか。
 いくつもの条件をクリアした人だけが教会に来れる。言葉の問題であったり、段差などによって体の不自由な人が入りにくかったりします。
 目の前に貧しい人など生活に困っている人がいても、それは福祉の専門の人に任せたらいいと見て見ぬふりをします。
 愛することがないばかりか、むしろ恨みを抱くような人がもしかしたらいるかもしれません。
 こうしてこの街に住む人々を教会から遠ざけます。

目の前の人を愛そうと決意する

 しかしイエス・キリストの十字架はあらゆる隔ての壁を壊しました。

14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

エフェソの信徒への手紙2:14-16

 十字架によって罪を赦された私たちは神と和解し、人々との関係も回復されます。
 教会はすべての民の祈りの家です。
 礼拝に来ようとする人を遠ざける壁があってはなりません。
 私たちは目の前にいる人がどのような人であれ、愛するべきです。
 お腹が空いている人にご飯を食べさせ、のどが渇いている人に水を飲ませ、旅人に部屋を貸し、着る物のない人に服を着せ、病人を見舞い、犯罪を犯した人を受け入れる。この小さな者の1人にしたことを、主はご自分に対してしたことと受け取られます。
 愛しやすい人を愛しても、何も特別なことではありません。むしろイエス様は敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れと言います。
 イエス様自身が、神に敵対していた私たちを愛してくださいました。
 神の愛を受け、愛しにくい人を愛してください。
 感情に頼っていては愛せません。
 この人は愛すべき隣人であるかどうかではなく、この人の隣人になって愛そうと決意するのです。
 善いサマリア人がしたのと同じように、私たちも目の前の人の隣人になるのです。

教会はこの街の人を生かす場

人生には第三の居場所が必要

 私たちの人生が安定したものになるために、第一に家庭が重要です。
 そして第二の居場所として職場や学校があります。そこで私たちは自分の役割を果たします。
 しかし2つだけでは不充分です。
 何かを支えようとするとき、少なくとも3つの点があれば安定します。
 私たちの人生にはもう1つの居場所が必要です。
 そこで人は家庭や職場の役割から解放され、一個人としてくつろげます。

 浜松という街を考えたとき、この第3の居場所は何でしょう。
 昔から住んでいる人には、祭りがその役割を果たしていると感じます。
 しかし祭りの中でも色々な役職があり、自由にくつろいでいるとは言えません。
 街中を歩いてみてください。車社会となったこの街には、なかなか自由にくつろげる居場所がありません。

この街の人々の必要に目を向ける

 そこで私は、教会こそこの街の中で人々の第三の居場所になれるのではないかと思っています。
 イエス様の前で重荷を下ろして安らぐことができる場所です。
 からしだねの木は空の鳥が来て巣を作る。そのように教会は、気軽に立ち寄って休める場所でありたい。
 せっかく良い場所に教会の建物があるのに、日曜日しか使われないのはもったいないではありませんか。
 ここに教会があるということすら知らない人がいる。
 むしろこの街に教会があってよかったなと、地域の人にも感じてもらえたらいいではないですか。

 そのために、教会が建てられたこの地域に目を向けてください。
 ここにはどのような人々が住んでいますか。
 浜松にはブラジル人など多くの外国籍の人が住んでいます。
 ここは近くに大学があり、一人暮らしの学生たちも多く住んでいます。
 一人暮らしのお年寄りの方もいます。
 子育て世代の方も多いです。
 彼らはこの地域で何を必要としているでしょうか。
 教会は彼らにどのような居場所を提供できるでしょうか。
 それを考えていくと、神様がこの地域に教会を立てた目的が見えてくると思います。
 教会の存在が社会によい影響を与えていきます。

教会に集まった人たちによって社会が変えられていく

 東西冷戦のとき、ドイツは東西に分かれていました。首都ベルリンも東西に分けられ、間には壁が築かれました。
 そのような時代、東ドイツのライプツィヒで毎週月曜日に集会が行われていました。「平和への祈り」と名付けられたその集会には、教会員だけではなく様々な市民が集まっていました。
 そこで心を動かされた人々が月曜日ごとにデモを行いました。
 やがてライプツィヒだけでなく東ドイツ全体に広がっていきました。
 こうして民主化への機運が高まり、ついにベルリンの壁を壊す原動力になります。
 教会に様々な人が集まることによって、社会が変わります。

人々を生かす命の川

 私たちは祝福の源。
 教会を通してこの地に神の国が建て上げられていきます。
 私たち一人一人から命の水があふれ流れ、その水が集まって大きな川になる。
 その命の水の流れはすべてを生かします。
 そこに神様が人々を招きます。

“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

ヨハネの黙示録22:17

 まず神が人々を招くと同時に、教会も招く。
 そして招かれた人も他の人を招きます。こうして多くの人々が命を得ます。

 教会はあらゆる壁を壊して人々の居場所となり、この街を祝福していきます。


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