私たちの使命6

こどもたちを招く教会

マルコによる福音書 10:13-16

13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

こどもに目を向けるように導かれて

 今日は私たちの教会が果たすべき使命の6つ目「こどもたちが心も体も信仰的にも健全に養われる場を作ります。」について見ていきます。
 神様は私たちをこの街に呼び集め、ここに教会を建てました。私たちはこの街で出会う人々に目を向け、祝福を流していきます。そしてこの建物が、地域の人々が安心できる居場所になればいいと願っています。
 この使命について、教会の皆さんで祈りながら色々な意見を出し合いました。
 その中で共通して出たキーワードが「こども」でした。
 神様は私たちに、こどもたちを招くように求めておられるのだと感じます。

子どもを遠ざける壁

 今日の本文は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」と、まさにイエス様がこどもたちを招くところ。
 しかしイエス様がこのように言われたのは、言わなければならなかったのは、こどもたちをイエス様から遠ざける壁があるからです。

子どもを連れてきた人々を叱った弟子たち

 イエス様はご自分の死と復活を予告し、エルサレムに向かって歩み出しました。
 ところがイエスが来たと知ると、人々が集まって来ます。イエス様は彼らに神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出します。中には議論を仕掛けてくる人もいます。なかなか進みません。
 それでこの日は、カファルナウムの家に戻って休みました。

 そんな時、ある人々が子どもたちを連れてきました。
 弟子たちはこの人々を叱りました。
 弟子たちの気持ちもわかりますよね。イエス様は一日旅をして疲れている。もうたくさんの人に会った。家にまで来られたら休めないではないか。
 もう閉店です。
 扉を閉めただけでは足りない。子どもたちの声がうるさい。
 イエス様の高尚な教えが子どもにわかるか?
 騒がしくて邪魔なだけ。
 こんなところに子どもを連れてくるなんてどういうことだ!

社会の中で子どもの存在が無視される

 聖書には「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」とあります。
 文脈を無視した引用になってしまうのでよくないですが、子どもには子どもの見方、考え方があります。しかし大人になると、子どもの時の見方、考え方を忘れてしまいます。
 社会を動かすのはおもに大人たちですから、大人の都合が優先されます。
 特に子育て経験が浅い大人が中心にいると、子どもの存在は無視されます。
 そして子どもが子どもらしくいることがうるさい、邪魔だと感じられます。

人々は子どもの最善を願って連れて来た

 イエス様のところに子どもたちを連れて来た人々のことも考えてみましょう。
 彼らはイエス様が外にいる時ではなく、家にいる時に来ました。
 外では他の大人たちに囲まれ、近づけなかったのかもしれません。やはり子どもを連れて行くのは迷惑ではないかと、遠慮してしまう。
 それで迷惑を承知で、家を訪ねた。
 それはイエス様に触れていただくため。祝福していただくためです。
 大人たちは子どもの最善を願って、子どもたちを連れてきました。
 それでも弟子たちから叱られてしまう。

子どもが安心して遊べる居場所はどこにあるのか

 子どもが安心して遊べる居場所はどこにあるでしょう。

 私は田舎の住宅地で育ちました。まだ家が建っていない空き地があり、そこに子どもたちが集まって遊びました。海辺や林の中も遊び場でした。道路まで使って鬼ごっこをしていたこともあります。近くに公園はありませんでしたが、どこでも子どもたちの遊び場でした。
 しかし道路は車が通ります。海辺や林の中は危険がいっぱいです。汚くすべりやすい側溝の中で遊ぶなど、本当に危険なところで遊んでいました。空き地にはやがて新しい家が建ちます。
 そうすると子どもたちはどこに集まって遊べば良いのでしょう。
 実家に帰省すると、自分の子どもたちを安心して遊ばせるために車を出さなければいけません。

 浜松くらいの都市になると、子どもの遊び場は本当に限られます。
 この元浜町の中に公園はありません。
 近くに北小学校があり、そこにブランコなどの遊具がありました。しかし統合して小学校がなくなると、遊具も撤去されてしまいました。
 ある街では、子どもの声がうるさいという苦情で公園がなくなってしまったところもあります。

 子どもたちを安心して遊ばせたい。
 しかしこの社会の中で子どもたちの存在は後回しにされ、邪魔者のようにさえ扱われます。

子どもをイエス様から遠ざける教会になっていないか

 教会の中ではどうでしょう。
 今私たちは大人も子どもも一緒に礼拝をささげています。小学生以上のお子さんは自分で座っていられますよね。
 それより小さなお子さんは、礼拝中にじっと座ってなんかいられません。それで歩き回ったり、親に話しかけたりします。
 それをうるさい、邪魔だと感じますか。
 大人の礼拝と子どもの礼拝を分けたら、より礼拝に集中できるでしょうか。

 子どもたちがイエス様のことをよく知れるように、子ども向けのプログラムを持つことは必要です。
 しかし大人だけの礼拝を作ってしまうと、子どものことを大事にできなくなってしまいます。
 そうして私たちも弟子たちのように、子どもたちやその親をイエス様から遠ざけてしまいます。

子どもたちをわたしのところに来させなさい

 イエス様はそんな弟子たちに憤って言います。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
 イエス様は神の国の福音を宣べ伝えました。
 弟子たちは、子どもにはわからない、邪魔だと考えました。
 ところがイエス様は、子どもたちこそ神の国にふさわしいと言います。
 子どもたちを見ていると、神の国はどのようなところかが見えてきます。
 子どもたちは私たちに神の国を示してくれる先生です。

神の国はこのような者たちのもの

 子どもたちたちは大人をよく信頼します。
 そしてあらゆる違いを超えて友だちになります。

 昨日はふれあいフェスティバルをしました。
 色々なところから子どもたちが遊びに来てくれました。日本語を話す人、英語を話す人、ポルトガル語を話す人などがいて、国際的な雰囲気でした。
 でもそれは大人の見方。
 子どもたちからしたら、国籍や言語、肌の色は関係ありません。
 誰もがそこに歓迎され、一緒にフェスティバルを楽しみました。
 「天の国は婚宴のようだ」と言われたイエス様の言葉を思い出します。

 フェスティバルの中で、パラバルーンの上に子どもが乗って持ち上げるということをしました。
 私は先に心配が来ます。破れたらどうしよう。誰かが手を放して地面に落ちたら痛そうだ。
 でも勇気ある子どもが手を上げ、楽しんでいました。
 信仰で一歩を踏み出し、その恵みを受け取ったのです。

子どもたちを遠ざけているものを取り除く

 私たち大人は子どもから学ぶ必要があります。彼らは神の国を指し示してくれる先生です。
 私たちは彼らを通して、誰もが無条件に愛されていること、信仰の一歩を踏み出すことなどを教えられます。
 そしてイエス様はそのような子どもたちを来させなさいと招いています。
 子どもたちを教会に招きましょう。
 子どもたちが安心して遊べる場を作りましょう。
 そのために準備するべきことは何ですか。
 取り除かなければならないものは何ですか。
 私たちの意識を変えなければならないところはありませんか。
 子どもたちが来ることを妨げるものを取り除いてください。

子どもたちを受け入れ養う

人は生まれながらに罪人

 しかし子どもたちと実際に触れあっていくと、やはり人間だなと思います。
 罪の性質をしっかり受け継いでいます。
 周りに配慮しない分、子どもの方が大人より残酷だなと感じることもあります。
 彼らを受け入れるのは難しいです。

子どもは未熟で無知でもある

 イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言いました。
 これは子どものように純粋な心で神の国を受け入れるという意味に受け取ることもできます。
 しかし子どもは本当に純粋でしょうか。
 子どもたちは狭い視野でこの世界を見ています。
 「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」と文句を言うように、自分が世界の中心です。
 きつい言い方になりますが、子どもは純粋なのではなく単に無知なのではないかとも言えます。

どのような子も大切な存在として扱う

 先のイエス様の言葉は「子どもを受け入れるように神の国を受け入れる」と読むこともできます。
 小さい存在。当時の社会では人数に数えられることもなく、無視されていた子どもたち。大人中心の世界の中で邪魔者扱いされる。未熟で、無知。
  そんな子どもたちを受け入れて、愛する。
 実際イエス様は子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福しました。
 その存在を受け入れ、大切にしています。
 私たちも、どのような子どもであっても大切な存在として扱っていきたいです。

子どもの声に耳を傾ける

 そのために子どもたちの声を無視してはいけません。
 何もわかっていないくせに生意気言うなと、子どもの口から出る言葉を軽んじないでください。

 5000人以上の人の食べ物を準備しなければならなかったとき、1人の少年が5つのパンと2匹の魚を持っていると言ってきました。
 物事をわきまえている大人は、これっぽっちの食べ物で何ができるのかと、少年の言葉を無視するでしょう。
 しかしイエス様は少年の言葉を受け取り、その5つのパンと2匹の魚で皆を満腹にさせました。
 小さな子どもの言葉に耳を傾ける時、神の国の大きな御業が現れます。

教会で子どもたちを育てる

 子どもたちは確かに未熟で無知です。
 だから教育し育てる必要があります。

 申命記6章で主は、子どもたちに御言葉を教えることを命じています。
 その教育の場は家庭でした。
 私たちは神の家族として、共に子どもたちを育てます。

 信仰面だけでなく、あらゆる面で子どもたちの成長を助けます。
 少年時代のイエス様は「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあります。
 人間の成長には、知恵や心といった内面、体、信仰、人間関係という側面があります。
 私たちも教会に子どもたちを招くなら、このような成長の機会を提供していきたいです。
 体を動かし、おいしいものを食べて健康な体を作る。
 勉強のサポートをして知恵を身につけ、様々な体験を通して豊かな心を持ってほしい。
 イエス様が子どもたちを抱きしめて祝福したように、人とのふれあいで愛を感じてほしい。そしてイエス様の愛を伝えたい。
 自分の子どもだけでなく、他の子も愛してくださいね。世代を超えた関りの中で、教会全体が成長していきます。
 そうして次世代のキリストの弟子が育っていきます。

御言葉の種を蒔き続ける

 子どもたちの中には限りない可能性があります。それを伸ばしていきたい。
 そうすると、必ずしも大人が願っていたように育っていくわけではありません。こういう道を歩んでほしいと願って敷いたレールから脱線し、勝手な道を行ってしまう。
 それでもいいです。子どもたち一人一人も、神様が作られた尊い存在。子どもたちそれぞれの意志を尊重してください。

ミレー「種まく人」

 もしかしたら「どんなに子どもたちを愛しても勝手な道を行ってしまう。」「どうせ大きくなったら部活に入って教会に来なくなり、就職して名古屋や東京に行くんでしょ。」と空しくなってしまう人もいるかもしれません。
 それでも、子どもの時に御言葉の種が蒔かれたならば、それはいつか時が来て実を結びます。
 ですから子どもたちを教会に招き、御言葉の種を蒔き続けていきましょう。
 やがて子どもたちが成長し、私たちの世代よりも立派なキリストの弟子たちが育っていくでしょう。
 その夢を共に見ていきたいと願います。


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