私たちの使命7
私たちはキリストの弟子
マルコによる福音書 3:13-15
13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
弟子たちが聖霊を受け教会となったペンテコステ
今日はペンテコステです。
イースターから7週間後、過越祭の土曜日から50日後、集まっていた弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生しました。
教会と訳されるギリシア語エクレシアは、呼び出された人の集まりという意味。神様に呼び集められた人の集まりが教会です。
神様は私たちも呼び集め、ここに教会をお建てになりました。
神様が造られたものに無駄はありません。
教会にも、神様がお造りになった意図があります。
神様はなぜこの時代、この場所に私たちを集められたのか。
それを御言葉から、7週間に渡って聞いてきました。
今日は最後の7つ目「キリストの弟子として生活の場に遣わされます。」について見ていきます。
ここまでを要約すると、神様はまず私たちが神を愛する教会になることを求めておられます。神様の愛を受け、神様を愛します。
私たちは自分が神に愛されていることを知って、自分自身を愛します。そしてキリストに似た者へと成長していく。
キリストを模範として、他の人を愛する愛を実践します。
誰かを模範とし、その人に似た者になっていく人を、何と言いますか?
ファン、フォロワーなど。弟子という表現もありますね。
私たちはキリストの弟子になります。
そして神は聖霊を受けた弟子たちを通して、その集まりである教会を通して、御心をこの地で成し遂げていきます。
私たちはキリストの弟子である
キリストによって呼び集められた弟子たち
今日の本文はイエス・キリストが弟子たちを呼び集める場面です。
キリストはご自分が選んだ人たちを呼び寄せました。
「おい、お前こっち来い。そこのヒゲのやつ。お前じゃない。もっとモジャモジャのやつだ。」みたいに適当に呼んだと思いますか。
イエス様は一人一人のことを知っておられ、その名を呼んで12人を呼び集めました。彼らが使徒と呼ばれる12弟子です。
私たちも神様に名前を呼んで集められました。キリストの十字架の血によって贖われた私たちは神のものとされ、神様が名前を呼んで呼び集めます。
適当に呼ばれたのではありません。神は天地創造の前から私たちを愛しておられ、キリストにおいて選ばれました。
私たちもキリストに選ばれたキリストの弟子です。
弟子を呼び集めたのはそばに置くため
弟子にまず求められることは何でしょう。
イエス様が弟子たちを呼び集めた目的の第一は、自分のそばに置くためだとあります。
イエス様は全知全能の神であり、お一人で何でもできます。しかしあえて弟子たちを選びました。そして一緒に生活し、旅をし、働きました。
弟子たちはその生活のあらゆる場面で、イエス様の姿を見、その声を聞きました。力を合わせて働きました。舟が沈みそうなほどの嵐にあっても、イエス様が共にいて乗り越えることができました。
何をするかより大事なこと
教会で弟子訓練という言葉が使われることがあります。私たちがキリストの弟子として成長することは大事なことです。
しかし訓練という言葉に引っ張られ、何をするかに意識が向いてしまうことがあります。聖書の知識を身につけ、熱く祈り、外に出て行って伝道する。
どれも大事なのだけれど、まずはキリストのそばにいることに集中してください。
訓練だけしても、キリストの弟子になっていないなら、弟子訓練の実は結びません。
何をするかより、どうあるかが重要です。
生活のあらゆる場面でキリストは共にいる
インマヌエルの神、イエス・キリストは約束しました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。
信仰の創始者、完成者であるイエスから目を離さないでください。
羊飼いであるイエス様の声をよく聞いてください。
生活のあらゆる場面でイエス様は共にいます。仕事をするときも勉強をするときも、家事をするときも遊んでいるときもイエス様が一緒です。
たとえ悲しいことつらいことがあっても、独りぼっちだと思うときも、イエス様は決して私たちを見捨てません。
私たちはキリストのそばにいるキリストの弟子です。
私たちはキリストのようになる
子どもは親の姿を見てマネをします。
何かを学ぼうとするとき、先生のマネをすることは上達の近道です。
キリストは神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出しました。
弟子たちにも宣教し悪霊を追い出すことを求めておられます。
そのために、キリストをよく見てマネることが求められています。
キリストが愛したように互いに愛し合う
イエス・キリストの最終講義は最後の晩餐。
そこでイエス様は弟子たちの足を洗いました。
そしてこう言いました。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
ヨハネによる福音書12:15
私たちはキリストのそばにいて、その愛を受け取ります。
そしてキリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合う者になります。
それを見た人たちは、私たちがキリストの弟子であることを知るようになります。
クローンではない
弟子は先生をマネて似ていきますが、クローンではありません。
ただマネをするだけだと、先生を超えることはありません。そしてコピーを繰り返すと劣化していくように、質が下がります。
弟子は先生の模範の上に自分の味を出します。
教会の中で皆がクローンのように同じ感じだったら気持ち悪いですね。
実際は多様性があります。
その多様性の中に、キリストに似た品性が見えます。
私たちは互いにキリストの体の部分なのです。
それぞれは個性的ですが、頭であるキリストの思いをそれぞれの仕方で表現します。
キリストのように愛をもって真理を語り、キリストの香りを放ち、キリストが目を留めるところに目を留め、キリストのように人々の声に(言葉にならない声にも)耳を傾ける。キリストが行こうとするところに足を運び、キリストが手を差し伸べようとする人に手を差し伸べる。そしてキリストが憐れまれるところに、私たちも心を痛めるのです。
そうしてキリストの弟子はキリストに似た者になります。
私たちはキリストと同じことをやる
神はキリストをこの世に遣わし、人々の間で生きるようにされた。
キリストは弟子たちをこの世に遣わし、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出させました。キリストがしたのと同じように、弟子たちにも実践させたのです。
キリストがした以上のことをする
キリストの弟子はキリストがしたのと同じことをします。
クローンではありませんから、同じことをして終わりではありません。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
ヨハネによる福音書14:12
イエス様は3年間パレスチナ地方で活動しました。
しかしその弟子たちによって福音は世界中に広がり、この東の果ての島国にまで伝えられました。
そして2000年後の今に至るまで、福音は世界中に広がり続けています。
イエス様の約束の通りです。
私たちもキリストの弟子を生む
イエス様は私たちも遣わします。行ってすべての民をわたしの弟子にしなさいと。
イエス様が弟子を呼び集められたように、私たちも人々をイエス様のもとに導き、弟子とすることが求められています。
自分のところに集めて自分の弟子を作るのではありません。キリストの弟子を育てます。
私たちの教会から、また次の世代の弟子、上の世代よりもっと神様に用いられる弟子が生み出されることを願います。
聖霊の力によって弟子は力を受ける
キリストの弟子である、キリストのようになる、キリストと同じことをやる。
ある、なる、やるの三拍子です。
これを数年続けたらどうなるでしょう。
3年半の間、弟子たちはキリストのそばにいて、それをマネし、同じように実践していきました。
ところがその弟子の1人が裏切ります。
他の弟子たちもそばにいることをやめて逃げ出しました。
「あなたも一緒にいた」と指摘されたペトロは、知らないと否認しました。
十字架につけられたキリストを見上げることをせず、愛することをやめ、人を恐れて隠れました。
弟子として失格です。
私たちはどうでしょう。
弟子である、なる、やるを何年くり返しても、弟子として失格だなと思わされることがありますね。
何年くり返せば弟子になれるのでしょう。
残念ながら何年たっても同じです。
聖霊を受けよ

そんな失格者の弟子たちのところに復活のイエス様が現れます。
そして息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われます。
聖霊の助けによって私たちはキリストのそばにいられます。
聖霊の働きによって栄光から栄光へと、キリストに似た者に変えられていきます。
聖霊が強めてくださるので、私たちにはすべてが可能です。
聖霊無くして、キリストの弟子として生きられません。
聖霊の火が消えてしまえば、教会は教会でなくなります。ただの人の集まり、ただの建物です。
だからイエス様の最終講義の中心主題は聖霊でした。
宣教の最前線に遣わされる
聖霊の力を受けて弟子たちはエルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地の果てまでキリストを証しする者に変えられました。
聖霊の力を受けた私たちはこの社会に遣わされていきます。職場、学校、家庭、この街へ。
そこにはまだイエス様に出会っていない家族や友人がいます。
そこが宣教の最前線、地の果てです。
神は私たちをそこに遣わしました。
そこでキリストのように生き、神の国を建て上げます。
キリストのそばにいて、キリストのマネをして、キリストがしたようにします。
キリストの弟子となり、次の弟子を育てながら、御心を成し遂げていきましょう。
そのために神はこの時代、この場所に私たちを呼び集められました。
聖霊に満たされ、共に神の御心を成し遂げていきましょう。
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