降誕の地ベツレヘム

降誕の地ベツレヘム

ミカ書 5:1-3

1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。

神の約束が実現した日を待ち望む

 アドベントに入りました。クリスマスを待ち望む期間です。
 クリスマスはイエス・キリストがこの世に来たことを記念する日です。
 それは神の約束の実現でした。
 旧約聖書にはイエス・キリスト誕生の預言がいくつかあります。その預言の通りにイエス様が生まれました。
 その神の約束を見ながら、今年のクリスマスも期待して迎えていきたいと思います。

小さな町に来たメシア

 今日の本文は預言者ミカを通して語られた神様のことばです。
 ミカは紀元前700年頃、南ユダ王国で活動した預言者でした。
 アッシリアやバビロンという大国の脅威にさらされていた時代です。
 こういう時に誰がリーダーであるかは重要です。
 どのようなリーダーなら国を守ることができるでしょうか。
 あなたがリーダーだったら、どうする?

どうするイスラエル

 今年の大河ドラマは戦国時代が舞台でしたから、家あるいは国を治める様々なリーダーたちが出てきました。
 圧倒的な軍事力を持った武田信玄。常識を打ち破る戦い方で勢力を拡大した織田信長。人の心をうまくつかんで欲しいものを手に入れた豊臣秀吉など。
 彼らはいずれも大きな力を得ましたが、自分たちを守るために戦い続けなければならず、平安はありません。戦って国を守ろうとすれば、新たな敵を生み出します。そしてそのリーダーがいなくなると次の代で滅んでいきます。
 預言者ミカも、イスラエルを治めるものはそのような人間の力ではないと言います。
 それは主の力、神である主の御名の威厳によってです。

小さな町ベツレヘム

 イスラエルを治める者はベツレヘムから出ると言われています。
 ベツレヘムというのはエルサレムの南8㎞ほどにある町です。

 族長時代にはエフラタと呼ばれ、ヤコブの妻ラケルの墓があります。
 ルツ記の舞台でもあります。
 聖書の中では重要な町ですが、町の規模は小さかったようです。
 ユダの地の中で最も小さい町と呼ばれていました。
 しかしその小さな町からイスラエルを治める者が出るというのです。
 不可能な話ではありません。今川、織田という大国の間で翻弄されていた三河の田舎侍が戦乱の世を終わらせ江戸幕府を開きました。

 また大河ドラマの話をしてしまいましたが、聖書の中でも既にベツレヘムからイスラエルを治める王が出ています。
 ダビデです。
 ルツとボアズの孫がエッサイ。エッサイの一番下の息子がダビデでした。
 サムエルが新しいイスラエルの王に油を注ぎに来たとき、ダビデは羊の群れの世話をしていました。父親からも期待されていない少年だったのです。
 しかし見た目ではなく心によって見る主が王として選んだのは、その羊飼いの少年でした。
 ユダヤの人々はダビデのような王メシアが再び現れることを待ち望みました。

メシア出生の地といえばベツレヘム

 新約聖書でベツレヘムの名前が再び出てきます。
 マタイによる福音書の2章で、東の国の博士たちが星に導かれ、ユダヤ人の王として生まれた方を拝みに来ました。
 彼らはまずエルサレムの王宮を目指します。王が生まれたのですから、王宮を目指すのは当然です。ところがそこにいたのはヘロデ大王。
 ヘロデ大王はメシアがどこに生まれると預言されているかと尋ねました。
 祭司長や律法学者たちはミカの預言を引用し、ベツレヘムだと言います。
 ベツレヘムはメシアが出る地として知られていました。

神の御子はベツレヘムに生まれたまう

 マリアとヨセフはガリラヤのナザレという村に住んでいました。
 ところがローマ皇帝アウグストゥスが住民登録を命じたので、ダビデの血筋であるヨセフはベツレヘムまで行かなければなりませんでした。婚約していたマリアも一緒に登録するために連れて行きます。
 その旅先のベツレヘムでマリアは出産することになります。
 こうしてイエス様はベツレヘムで生まれます。
 たまたまヨセフがダビデの血筋で、たまたま住民登録が命じられ、たまたまベツレヘムにいるときに生まれたのではありません。神の約束の実現です。
 そして神ご自身が人間になった時です。

 ミカ書には「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」とあります。
 永遠の昔とはいつか。天地創造よりも前、時間という概念を超越した存在。
 造られたものではなく、造った方、神ご自身です。
 神が人となられたのです。

小さな町の小さな人々の間にいる

カラバッジョ「羊飼いの礼拝」

 メシアの誕生を真っ先に知って祝ったのは、王宮にいた人々ではありません。ベツレヘムの郊外で野宿をしていた羊飼いたちでした。
 神様は最も小さい人々に目を留めています。
 ベツレヘムのような小さな町、敵の脅威にさらされ平安を失った人々、社会の中に居場所を失った人々。そのようなところに神は目を留めています。

 クリスマスの時期、明るくきらびやかなところに目が行きます。温かい楽しい雰囲気のクリスマスにあこがれます。
 その一方で、クリスマスを暗く寂しく過ごす人々もいます。きらびやかな世界にあこがれても、入ることを許されない人々がいます。
 神はそのような暗く寂しいところに目を留め、そこにいる人々の間におられます。

 マタイによる福音書25章には王が人々を裁く話が出てきます。
 王は、正しいとされた人々が自分によくしてくれたと言います。しかし彼らは身に覚えがありません。

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

マタイによる福音書25:40

 飢え渇いている人、着るものが足りない人、住む家を奪われた人、病気の人、社会に居場所のない人がいます。
 そのような小さな者の一人にしたことは、王にしたこと。この王はイエス様です。
 イエス様ご自身が小さな人に目を留め、彼らの間に生きているからです。

民は養われ安らかに住む

 ミカの預言で、イスラエルを治める者は羊飼いのように民を養うとあります。
 かつて羊飼いだったダビデもそのような王でした。
 羊飼いは羊を見守り、羊のために命をかけて戦います。
 羊が野獣に襲われているなら、ライオンや熊が相手でも戦うのです。

羊を救うために命を捨てる

 イスラエルとペリシテとの間に戦いが起こりました。ペリシテ軍にはゴリアテという巨人がいて、イスラエルを挑発していました。
 徴兵された兄たちに弁当を届けに来たダビデは、その挑発の言葉を聞きます。
 生ける神の戦列イスラエル軍が挑発されて沈黙しているというのは、ダビデにとって屈辱でした。
 少年ダビデは立ち上がり、巨人ゴリアテに立ち向かいます。
 サウル王は自分の武具を貸そうとしますが、ダビデは断ります。そしていつも羊を守るために使う石投げひもで戦うことにしました。主は救いをくださるのに、剣や槍は必要ではありません。
 ダビデは万軍の主の名によって立ち向かい、石ころ1つの一撃でゴリアテを倒しました。

 イエス様は私たちのことをよく見守っています。私たちがどのような敵に圧迫されているのか、どのような問題に苦しめられているのかをよく知っています。
 そこから救うために、まことの羊飼いイエス様は命を捨てます。

この世の王は命を奪う

 この世の王は敵対するものを力で滅ぼそうとします。
 エジプトのファラオにとってヘブライ人は脅威でした。彼らを弱らせるために、ファラオはヘブライ人を奴隷として酷使しました。それでもヘブライ人が増えてきたので、ファラオはヘブライ人の男の子が生まれたら殺せと命じました。
 ヘロデ大王はユダヤ人の王が生まれたと聞き、自分の立場が危うくなると思いました。
 そこでベツレヘム一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。
 ベツレヘムはそのような虐殺の地でもあります。
 これが、この世の王の統治です。

平和の王イエス・キリスト

 イエス様は王としてエルサレムに入城しました。
 しかし乗っていたのは勇ましい馬ではなく、のどかなロバでした。まさに平和の王として来たのです。

 まことの羊飼いイエスは私たち羊のために命を捨てました。
 私たちのあらゆる問題の根本にある罪を、十字架の死によって解決しました。
 十字架の死によって平和が打ち立てられました。

14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

エフェソの信徒への手紙2:14-16

 イエス・キリストの十字架によって立てられた平和があります。
 私たちは復活の主によって生かされ、養われ、安らかに住まいます。

この世の力で平和は実現しない

 現代においてベツレヘムがあるのはヨルダン川西岸地区という地域。パレスチナ居住区です。
 同じパレスチナ居住区のガザ地区は戦争状態にあります。ガザ地区を実効支配するハマスがイスラエルにテロを行ったことがきっかけです。
 テロリズムは許されない暴力です。
 それを武力で鎮圧しようとしています。ハマスを壊滅させるのだと。
 では、武力によってテロをなくすことができるのですか?
 21世紀に入って、世界はテロと戦い続けてきました。
 20年にわたるテロとの戦いで、テロはなくなりましたか?
 いや、むしろ新たなテロリストを生み出しています。
 武力でテロをなくすことはできないのです。
 なぜテロリストが次から次へと出てくるのでしょう。
 壁の内側で圧迫され小さくされた人たちは、なぜテロリズムに頼るようになったのでしょう。
 
 クリスマスが近づいてきました。
 最も小さな人たちの間にイエス様が来てくださいました。そして平和を打ち立ててくださいました。
 小さな町ベツレヘムから出る羊飼いのような王によって、人々は安らかに住みます。
 その力は地の果てに及びます。
 私たちの間にもそのような平和が実現することを願い、小さくされた人々と共にクリスマスを喜び祝っていきたいと願います。

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