Blog主日説教使徒言行録講解

別の福音はない

使徒言行録講解44

別の福音はない

使徒言行録15:1-6

1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

みにくいアヒルの子

アヒルのひなは黄色くてかわいい!

 アンデルセンの「みにくいアヒルの子」は世界中で愛されている物語です。
 アヒルのお母さんが卵を温めていました。次々に赤ちゃんが出てきます。黄色くてかわいい赤ちゃんたちです。

このひなは全身灰色…

 1つ、大きな卵が残っていました。そこから出てきたのは、くちばしも体も灰色の赤ちゃんです。
 アヒルの子はくちばしも体も黄色であるべきです。あまりに違っています。
 友だちやきょうだい、親からも「お前はなんてみにくいんだ、ここから出て行け」と言われていじめられました。
 とうとうみにくいアヒルの子は、池から逃げ出しました。
 旅を続け、冬になりました。そして白くてとても美しい鳥のいる湖に着きました。白鳥の湖です。
 今まで散々みにくいと言われ、いじめられました。こんな美しい鳥に見つかれば、またいじめられるでしょう。
 でももういいです。白鳥のくちばしにつつかれて死のうと思いました。
 そして白鳥の群れの中に飛び込んでいきます。みにくいアヒルの子は目をじっと閉じて首を差し出しました。

 …。
 
 しかし誰も彼をつつきません。
 そっと目を開けてみると、水面に真っ白で本当に美しい鳥が映っています。それは自分の姿でした。
 みにくいアヒルの子は、白鳥の子だったのです。

 私たちは、こうあるべきだというイメージに縛られることがあります。
 男らしさ、女らしさ。男の遊び、男の色。女の遊び、女の色。
 またクリスチャンらしさ。クリスチャンはこうあるべき。クリスチャンはこれをしてはいけない。
 そのイメージから外れれば、みにくいアヒルの子のような扱いを受けます。
 それで努力してそのイメージに合わせようとします。

 福音とは何でしょう。
 私たちの教会は福音派です。福音派は聖書通りに生きることを大事にします。実際どうするかと言うと、日曜日の礼拝を厳守したり、お酒を飲まない、タバコを吸わないとかいうことを大事にします。
 それはまさにクリスチャンのイメージに努力して合わせることです。理想的なクリスチャンになることが福音と言われています。
 しかし努力すれば立派なクリスチャンになれるのでしょうか。
 努力すればみにくい灰色の体をきれいな黄色にすることができるのでしょうか。
 福音とは何なのでしょうか。

ユダヤ主義者との対立

 今日の本文は第1次伝道旅行の後の出来事です。
 パウロとバルナバはアンティオキアに帰ってきました。そこで、ある人々がユダヤから来て「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていました。彼らはユダヤ主義者と呼ばれます。
 アンティオキア教会には異邦人も多くいて、彼らは割礼を受けていませんでした。
 一部の人はイコニオン、リストラ、デルベなどガラテヤ地方にも行き、パウロたちが開拓した教会にもそう教えていたようです。
 パウロは律法の行いではなく、ただイエスへの信仰で救われると教えていました。実際、割礼のない異邦人がイエスを信じ、聖霊を受けるのを見てきました。
 それでパウロ、バルナバとユダヤ主義者の間で激しい意見の対立と論争が生じました。
 パウロはこの頃、ガラテヤの諸教会にあてて手紙を書いたようです。
 そして使徒や長老たちと協議するため、エルサレムに上ることにしました。

自分たちに負えない軛を異邦人に負わせる

 ユダヤ主義者の主張は、「異邦人も律法を守らなければ救われない」ということでした。その律法の代表的なものが割礼です。
 割礼はアブラハムの子孫に契約のしるしとして命じられました。割礼があるかどうかが、神の民の証しでした。
 確かに聖書には、律法を忠実に守れば命を得ると約束されています。

あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。

申命記5:33

 しかしすべてを忠実に守らなければ、呪われます。

「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。

申命記27:26

 旧約聖書には613の戒めがあると言われます。たとえ612を守っても、1つ違反すればアウトです。
 十戒を思い出してください。嘘をつかないことやむさぼらないというのは本当に難しいです。
 完全に守れる人は誰もいないのです。

だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

詩編14:3

 ユダヤ人だって誰も守れなかったのに、異邦人にもそれを守らせるのは苛酷です。
 割礼という1つの戒めを守らせてユダヤ人のように生きさせるというのは、自分たちの負いきれなかった軛をかけ、神を試みるようなものです。神様はユダヤ人に律法を守らせることができませんでしたが、異邦人なら守らせることができますか?と。

割礼の有無ではなく信仰によって生きる神の民

 律法を完全に守れば救われます。しかし私たちは守れず、呪われた者になっています。
 とすると私たちの内に救いはないということになります。
 では救いはどこから来るのか。外から来ます。
 神の子イエスが人となり、私たちの間に住んでくださいました。イエス様は何一つ罪を犯すことがありませんでした。
 その罪なき神の独り子が十字架で死にます。罪人の頭として木に架けられました。これはイエス様が私たちの呪いを引き受けてくださったことを意味します。

死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。

申命記21:23

 イエスを主と信じた私たちは、キリストと共に十字架で死にました。律法の呪いから解放されています。そしてキリストと共に新しい命に生かされています。聖霊によって心に割礼を受け、義と認められています。
 これは私たちの行いとは全く関係なく信仰によって与えられた救いです。
 そもそもアブラハムが義と認められたのはどうしてでしたか。律法が与えられる数百年前、割礼が命じられるより前です。

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

創世記15:6

 律法を守ったから、割礼を受けたから神の民になったのではありません。神の民とされたから割礼を受けました。
 だから信仰で生きる人こそ、アブラハムの子孫、神の民なのです。

 と長々と話してきましたが、こういうことをパウロはガラテヤの信徒への手紙の3章に書いています。

 だから私たちは律法に縛られることはなく、割礼を受ける必要もありません。
 それはどのように生きてもいい、というわけではありません。パウロはこう教えています。

13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

ガラテヤの信徒への手紙5:13-14

 自由とされた私たちは、愛に生きることが求められています。
 それで神の子としての新しい生き方が求められるわけです。

 神の子としての新しい生き方とはどのようなものでしょうか。
 聖書は何回も恐れるなと言います。イエス様は何を食べよう、何を着ようかと思い悩むなと言いました。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい、これが神の御心だと言われています。
 だからクリスチャンはどんな時も恐れず、笑顔で、感謝しますと言うべきだ!
 服を選ぶときは迷わず、タンスに手を突っ込んで最初に触ったのが今日着るべき服だ!
 不平不満や否定的なことは言わない!
 …もしそのように生きられたら、美しいでしょう。

今はみにくいが、神の子とされた

 しかし現実の私たちは、みにくいです。
 恐れるし、心配するし、喜べず祈れず感謝できない状況に置かれるし、愚痴だって言いたくなります。
 時にそのようなみにくいクリスチャンは、立派な生き方をしているクリスチャンから攻撃されます。「お前は何てみにくいんだ、ここから出て行け」と。

 このコロナウイルスの状況で、恐れることや不平不満を言いたくなることはあるでしょう。
 すると、この緊急時には批判をするべきではないとか、クリスチャンならリーダーのためにまず祈るべきだとかいう声が聞こえてきます。
 もちろん祈りは大事です。しかし怒るべき時は怒っていいです。心に不平不満がたまったら、愚痴をこぼしていいです。
 もしクリスチャンが祈ることしかしなかったなら、宗教改革も奴隷解放も公民権運動も起こらなかったかもしれません。
 もし国民が怒らなかったら、私たちは10万円ではなく和牛商品券を手にして途方に暮れていたかもしれません。
 教会や牧師に対しても同じです。まずは祈ってほしい。しかし批判できない雰囲気を作ってはいけません。言いたいことは遠慮なくおっしゃってください。愛をもって、真理を語るのです。
 そうでなければ自分も苦しいし、他の人も同じ問題で苦しむことになります。

橙猫さんによる写真ACからの写真

 怒りや愚痴は美しいものではありません。みにくいものです。
 この世界もまた、怒りや愚痴なしでは生きられないほど、みにくいものです。
 私たちは美しく生きられない、みにくいアヒルの子。
 灰色のひなが白鳥になったのは、努力のおかげではありません。白鳥の子だったからです。
 私たちを美しくするのは、努力ではありません。私たちが、誰の子か、という事実を受け取る信仰です。
 私たちはキリストの十字架の死と復活により、神の子とされています。これが福音です。
 別の福音はありません。

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