十戒4 【第二戒】 偶像を造るな

十戒4

【第二戒】 偶像を造るな

出エジプト記 20:4-6

4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

アイドル

 アイドルと聞いて何を思い浮かべますか?
 私は嵐やモーニング娘。です。
 なんとか48とかなんとか坂とか、色々な女性のアイドルグループがありますね。
 昨年はジャニーズ事務所の問題もあり、男性アイドルグループの名前が色々出ましたが、よくわかりません。
 韓国のアイドルグループも人気ですね。東方神起とかKARAとか。

古い?

 とにかく日本でアイドルというと、熱狂的なファンを持つビジネス形態をとる歌手や俳優という感じです。
 そういうビジネス形態で大事なのは、アイドルのキャラクターです。
 それがフィクションだとしても、ファンが持っているアイドルのイメージを壊してはいけません。
 たとえば恋愛が禁止されていて、アイドルの恋愛などが報道されると「夢を壊す」などと言われたり事務所が否定したりします。
 いいじゃないですか、人間なんだから当然恋愛しますよ。ファンなら、推しの幸せを願うべきではないですか。アイドルだって普通の女の子に戻りたい!と言いたくなることはありますよ。
 それが許されないのは、アイドルを消費の対象、人ではなくただの商品として扱っているからではないでしょうか。

 これはアイドルの元々の意味と通じています。
 英語のidolは偶像のことです。木や石で形作った像で、崇拝の対象になります。
 アイドルも偶像にしてしまいます。

 今日は第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。」について見ていきます。
 偶像を造るなです。
 私たちは見えない神を、見える形(偶像)にして拝もうとしてしまいます。

見えない神を見える形にしてしまう

仏像

 第二戒は偶像を造ることを禁じています。
 偶像は崇拝の対象になる物です。
 寺には仏像があります。神社にはご神体という神が宿るものが納められています。祭りでかつぐ神輿もそうです。大きな木や火山がご神体になることもあります。富士山もそうです。
 これらは聖書のいう主なる神様とは別の神です。
 第一戒ですでに他の神を持つことが禁じられているので、このような偶像は当然禁じられます。
 それなら第二戒は不要ですね。
 気をつけなければならないのは、主なる神様を信じていながらも、偶像を造ってしまうことがあるということです。

主を礼拝するために金の子牛の像を造った

 出エジプト記32章にはこのような事件が記録されています。
 イスラエルの民はモーセを通してエジプトから救い出されました。彼らはその目で、主の御業を見ました。十の災い、海の中に道を作る、マナ、岩からほとばしる水。
 そして主を礼拝するためにシナイ山に集められます。
 モーセはシナイ山で神から戒めを授けられ、神ご自身が十戒を刻んだ石の板を受け取りました。
 その間、民はふもとで待っていました。
 彼らはアロンに頼み、金の子牛の像を造ってもらいます。
 彼らは主を礼拝するために偶像を造りました。

 私たちは主だけを神としていても、偶像を造ってしまうのです。

様々な偶像

 十字架はキリスト教のシンボルの1つです。
 映画などで、悪魔が十字架を嫌がる場面を見たことはありませんか?
 十字架そのものに特別な力があるわけではありません。
 青銅のヘビは、主の癒しを求めるためのシンボルとしてモーセが造りました。しかしそれが偶像になっていたので、ヒゼキヤ王は打ち砕きました。

十戒の石板

 聖書には神の言葉が記録されていて、私たちの信仰と行いの唯一の基準になります。
 しかし聖書というこの本自体は、ただの本です。薄っぺらな紙にインクが染み込んでいるだけです。
 聖書を身に着けていれば銃で撃たれても守られるということはありません。
 イスラエル軍が神の箱を持ち出して敵に勝とうとしたように、聖書で相手を精神的あるいは物理的に殴ってはいけません。
 聖書そのものではなく、そこに記録された神の言葉を大切にしてください。
 モーセは神ご自身が刻んだ十戒の石板を壊しました。

 教会の建物を神聖視する人もいます。
 寺や神社だと、境内そのものが神聖な場所だと考える人もいます。
 プロテスタント教会にそのような概念はありません。聖地などないです。
 教会は建物ではなく、人の集まりです。
 エルサレムの市民は、神殿があるから自分たちは守られると思っていました。しかしバビロンやローマに破壊されます。

偶像を造ることで神をおとしめている

 偶像を造るのは、見えない神を礼拝するためです。
 木や石の像を拝む人も、木や石が神だとは思っていません。そこに神が宿ると考え、偶像を拝みます。
 神を見える形に納めることで、交わりを持とうとするのです。
 それを神が喜ぶはずはありません。

 あなたのことをよく知らない人が、あなたに対して勝手なイメージを持っていたらどうですか。
 あの人は理系だからパズルが好きなんでしょ。あの人は九州男児だから無口なんでしょ。あの人はAB型だから変わり者なんでしょ。
 勝手に判断するな!と言いたくなります。
 間違ってはいないけれども。

 偶像を造ることで、人は神を理解できる範囲に押し込め、扱いやすい道具にしてしまいます。
 神との交わりを求めながら、神をおとしめています。
 偶像を造ってはいけません。

見えない神と交わりを持つには

 それでは私たちは、見えない神をどのように礼拝したらいいのでしょうか。
 皆さんが自分のことを知ってほしいと思ったらどうしますか。
 自分で書いた履歴書を送ったり、面接をしたり。もっと素の部分を知ってほしかったら、一緒に食事をしたり遊びに行ったりしますね。
 見えない神様と交わりを持とうとするなら、こちらからの一方通行ではいけません。
 神様からの発信を受け取り、コミュニケーションを取る必要があります。

霊と真理で礼拝する

 神様は聖書において、ご自身がどのようなお方であるかを示してくださっています。
 特にイエス様は、人となられた神です。
 そして真理の霊である聖霊が神様のことを悟らせてくれます。
 聖書に示された真理の言葉、また聖霊の助けで、私たちは神様を礼拝できます。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

ヨハネによる福音書4:23

 神様はまことの礼拝者を探し求めています。

御言葉・礼典・祈り

 礼拝で神様と交わりを持つ方法は、御言葉と礼典と祈りです。

 礼拝の中で神の言葉が宣言されます。
 牧師のお話ではなく、神の言葉として聞いてください。
 牧師が神の言葉を宣言し、皆さんが神の言葉として受け取るとき、神の言葉は現実になります。

 礼典はイエス様が命じた儀式です。
 プロテスタント教会では洗礼と聖餐の2つです。
 儀式によって見えない神様の恵みを五感で味わいます。

 祈りも神様とコミュニケーションを取る方法です。
 一方的に願い事をつぶやくだけでなく、神を賛美し、神様の声に耳を傾けます。
 祈りは神様との対話です。

 イエス様を通して、聖霊の助けで、父なる神様を礼拝します。

熱情の神

 第二戒の真ん中には「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」とあります。
 激しい言葉です。

神に向けるべき愛を偶像に向けてはいけない

 主なる神様は熱情の神です。
 別の訳だと、妬む神となっています。
 この妬みというのは、本来受けるべきものを受けられない時に感じる思いです。
 夫や妻が自分ではなく仕事や趣味、あるいは他の人を愛していたら妬ましく思いますね。
 神に向けられるべき愛を偶像に向けてはいけません。

神からの熱い愛に応えているか

 妬みを感じるのは、それほどの熱情をもって相手を愛しているからです。
 神様は熱情を持って私たちを愛しています。
 愛は死のように強く、妬みは陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎です。

 皆さんはその愛を受け取って、応答していますか。
 皆さんも熱情を持って神を愛していますか。
 たとえば、礼拝に対して熱情を持っているでしょうか。
 毎週のルーティンでマンネリ化していませんか。
 よく準備をしてささげてみてください。
 ただ座っているだけの礼拝と、準備をしてささげる礼拝では、受ける恵みが全然違います。

神の愛の交わりの輪に加わる

 三位一体の神様は、互いに愛し合っています。
 そこには完全な愛の交わりがあります。
 神様はその愛を、私たち人間にも向けてくださっています。私たちも愛の交わりに招かれています。
 私たちが神の愛を受け取り、神を愛するとき、私たちも神の愛の交わりの輪に加えられます。

礼拝者の生き方は次世代に影響する

 第二戒の後半には「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 とあります。
 少し注意が必要です。父の罪が直接その子どもに影響することはありません。父が正しく生きても、その子が正しく生きるかどうかはわかりません。個人の責任です。
 しかし礼拝者の生き様は、次の世代に影響します。
 もし親が教会では神を愛するように振る舞っていて、家では神を愛していなかったらどうでしょう。
 子どもは、親の信仰なんて上辺だけなんだと見抜きます。神を愛そうとは思えなくなりますね。

 私たちの礼拝する姿勢は見られています。
 自分の子どもだけでなく、他の若者や子どもたち、次世代から見られています。
 教会だけではなく、家庭で、職場でどう生きるかが見られています。
 普段の生活の中でも神を愛して生きるなら、その信仰は次の世代に受け継がれていきます。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

ローマの信徒への手紙12:1

 私たちは神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ。
 普段から神を愛するなら、次世代にもその信仰が受け継がれ、より優れた信仰のリーダーが育っていくでしょう。
 幾千代にも及ぶ祝福が約束されています。

 生活の中でも神を愛していきましょう。
 それがまことの礼拝者の生き方です。

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