死は勝利にのみ込まれた

イースター礼拝

死は勝利にのみ込まれた

コリントの信徒への手紙一 15:54-58

54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 今日の本文は聖書の中で復活の章とも言われるコリントの信徒への手紙一15章の最後の部分です。パウロは15章の初めに福音の確信を語ります。それはイエス・キリストは聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、3日目に復活したこと、弟子たちに現れたこと。パウロは教会の迫害者でしたが、イエス・キリストに出会い、使徒に変えられた。その恵みは決して無駄にならず、恵みによってこの福音を伝えました。そして復活がなければ私たちの信仰はむなしく、私たちはこの世で最も惨めな者だとも言います。しかし実際にキリストは復活したのであり、眠りについた人たちの初穂になりました。そして復活の体がどのようなものかを語ります。

 14世紀の旅行家マルコ・ポーロは「東方見聞録」の中で日本のことを紹介しています。マルコ・ポーロは日本のことをジパングと呼び、「中国の東の海上にある島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」と書きました。
 日本は黄金の国ジパングでしょうか。そんなことはありません。どこに金でできた民家がありますか。資源の乏しい国です。実際にはマルコ・ポーロは日本まで来ませんでした。中国で聞いた噂を大げさに書いただけです。当時ヨーロッパでは誰も日本まで行ったことがなかったので、何とでも言えます。誰も行ったことがないところ、誰も経験したことがないことは何とでも言えます。
 死後の世界もそうです。何かに生まれ変わるとか、無になるだけだとか、勝手なことを言えてしまいます。イエス様は、死者が復活するとき、天使のようになると言いました。何かが変わるわけです。イエス様が復活したときも、弟子たちはそのお方がイエス様だとすぐにはわかりませんでした。しかし手には釘のあと、わき腹には槍のあとがありました。個性は残るけど、何か別のかたちになります。

 たとえば、麦があります。一般的に麦といえば粒の形で、これを加工して食べます。しかしこの麦を畑にまくとどうなるでしょう。この麦は朽ち、柔らかくなっていきます。そして根が出て、やがて芽が出てきます。青々とした生命力に満ちあふれた麦になります。どちらも麦であることに違いありませんが、粒の麦と、それが朽ちた後に生まれる緑の麦は違うかたちです。
 パウロは言います。

42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

コリントの信徒への手紙一15:42-43

 イエス・キリストの復活の体はどうだったでしょうか。鍵をかけた部屋の真ん中に突然現れたり消えたり、500人以上の兄弟たちに同時に現れたりしました。弱い人間の体ではなく、力強い栄光の体です。
 今の私たちは弱い体を持っています。小さな麦のように、やがて朽ちていきます。コロナウイルスは全ての人類に襲ってきます。日本での致死率は大体2%。世界では6%くらいになります。感染者が多くなると医療体制が追い付かなくなってしまいます。特に高齢者の致死率が高く、80代以上だと15%くらいになります。40代以下の若者でも0.2%です。500人に1人は亡くなります。
 遊園地で500回に1回、死亡事故を起こす乗り物があったら乗りたいですか?5分に1回動いて、1日10時間動くとしたら、4日に1回くらいで死亡事故を起こしてるんですよ。やばいでしょ。近づかない方がいいです。
 誰も抗体を持たない未知のウイルスに対して、人間はこんなにも弱いのです。そしてこの危機の時に、人間の差別意識や自己中心性、無関心も浮き彫りにされます。私たちはなんと卑しく弱い存在なのでしょう。
 しかしイエス・キリストは私たちに新しい命を与えます。最後のラッパが鳴るとき、朽ちるべき私たちは朽ちないものを着、永遠の命を生きるようになります。だから私たちは、私たちに襲いかかる死に対して、そして私たちに今もまとわりつく罪に対してこのように宣言できます。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しましょう。

 この危機的状況の中で、私たちに何ができるのでしょうか。コロナウイルスは恐ろしいです。しかし恐れてばかりではいけません。「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」とパウロは勧めています。では主の業とは何でしょうか。集会を怠らず、集まり続けること?折が良くても悪くても伝道、伝道、伝道?
 神の子イエスは何をするためにこの世に来られたのですか。何のために十字架につけられ、復活したのですか。何のために聖霊を送り、教会を建てたのですか。

つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

コリントの信徒への手紙一15:22

 すべてを生かすため。私たちを通して世界を祝福するためです。
 どんな状況に置かれても、神を愛し、隣人を愛することを忘れてはいけません。
 互いのために祈り合いましょう。今まで以上にコミュニケーションを取りましょう。助けを求めている人に何ができるか考えましょう。
 今の欧米の姿は、1週間後2週間後の日本の姿かもしれません。この世界のために涙と共に種を蒔いていきましょう。やがて私たちは喜びの歌と共に刈り入れるときが来ます。
 イエス・キリストが帰って来るとき、天の玉座からこのような声が聞こえます。

3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

黙示録21:3-4

 死に支配され、悲しみと嘆きと労苦の中にあるこの世界で、愛の涙を流していますか。イエス様は、もう泣かなくていいと涙をぬぐい取ってくださいます。もし無関心で涙がないなら、イエス様は素通りしていくでしょう。
 私たちが置かれたこの町で、今できることをするのです。復活の主が、今私たちの内で生きて働いています。キリストの命を、この世界に届けていきましょう。
 主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

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