神が共にいて全てを行われる

使徒言行録講解43

神が共にいて全てを行われる

使徒言行録14:19-28

19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。24 それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。28 そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。

何もできないもどかしさ

 外出自粛が続いています。休業要請を受けて休業しているお店もあります。教会の前の通りを南に行ったところにあるカレー屋とお好み焼き屋では新しくテイクアウトを始めたそうです。息子の通う保育園では、保護者が在宅勤務などの場合は自宅保育をお願いするということになりました。息子たちは早めのゴールデンウィークに入りました。
 ゴールデンウィークと言っても、どこにも行けません。多くの施設は休みだし、観光地に人が集まるのも避けなければなりません。家でのんびり過ごし、ちょっと散歩するくらいしかできないです。
 活動的な人にとっては退屈でしょう。何もできなくて、もどかしい感じがします。
 この世界の状況を見ながらもどかしさを感じる人もいるでしょう。
 地震や洪水などの災害であれば、体を動かして人助けができます。しかしウイルス感染が流行っている状況では、下手に動くべきではありません。このウイルスは人から人へとうつるからです。家にじっとしているというのが多くの人にとって最善の選択肢になります。
 もどかしいですね。この世界で問題が起きているのに、家にいるしかない。ただの傍観者のようです。
 私たちは本当に何もできないのでしょうか。
 いいえ、たとえ私たちが直接何かができないとしても、神が共にいて全てを行います。

第1次伝道旅行の終わり

 今日の本文は第1次伝道旅行の終わりの場面です。
 リストラで神のようにあがめられたパウロとバルナバは、創造主なる神について語り、いけにえをささげるのをやめさせました。
 そこにピシディアのアンティオキアとイコニオンからユダヤ人が来ました。彼らはパウロとバルナバを迫害してきた人たちです。
 彼らはリストラの人たちも巻き込み、パウロに石を投げつけさせました。いくつかの石がパウロに命中し、パウロは倒れました。
 パウロが死んだと思った彼らは、パウロを町の外に引きずり出しました。
 しかしパウロは死んでいませんでした。弟子たちが周りを取り囲むと立ち上がり、また町に入っていきました。
 翌日パウロとバルナバはデルベに行き、そこでも福音を伝えました。
 そして来た道を戻りながら弟子たちを励まし、アンティオキアに戻りました。

何もできないときこそ神が働く機会

 パウロとバルナバはデルベまで行きました。
 さらに東に行くとキリキア州に入ります。パウロの故郷、タルソスがある地域です。そこから南東に行ったところがアンティオキアです。帰り道としてはこっちが自然な感じがします。
 バルナバの故郷であるキプロスには行ったのだから、タルソスに行って帰るのが公平ではないですか。
 しかし二人はあえて来た道を戻ります。自分を石で打った人たちがいる町々に再び行くのです。
 なぜそんな遠回りをしてまで危険な道を行くのでしょうか。
 それは今まで出会った弟子たちを励まし、リーダーを立てるためでした。
 自分たちのような宣教師ではなく、現地の人たちの中から教会の指導者を立てます。パウロとバルナバは一時的にこの地に来ているだけで、現地の人は長くその地で信仰生活を送るからです。
 その地の教会を守り、信仰を受け継いでいくのはそこに住んでいる兄弟姉妹たちなのです。それで信徒のリーダーが必要になります。

 神はエデンの園に人を住ませ、耕させました。神は人に、この世界に対する責任を委ねています。
 イエス・キリストも弟子たちを呼び、彼らを派遣しました。
 イエス・キリストが復活し天に上げられた後、聖霊が降り教会が誕生しました。
 この地上に教会があるのは、この世界に対して教会が果たすべき使命があるからです。
 もちろん神は、私たちに責任を押し付けて放っておく方ではありません。私たちが実を結ぶことができるように、必要な恵みは神から注がれています。

 パウロとバルナバも教会のリーダーを任命するとき、彼らをその信ずる主に任せました。
 神が共にいて全てを行われる。神が共にいて教会を守る。迫害や苦難が来るが、教会は死なない。教会を通して世界は変えられていく。そして次の世代に受け継がれていく。
 「主に任せた」というのは何もしないという意味ではありません。
 そこに留まって直接何かをすることはできないが、主が共にいて働いてくださると信じることです。
 自分の力で何もできないと思う時こそ、神が働かれるチャンスです。
 もちろんパウロが何もしなかったわけではありません。
 ガラテヤとも言われるこの地域の信徒たちのために、パウロは手紙を書いて送っています。
 そして第2次第3次伝道旅行でもこの地域を通っています。
 自分にできる範囲で彼らの信仰を励まし続けました。

 今日も私たちがこの地で実を結ぶことができるように、必要な恵みが注がれています。
 神が共にいて全てを行われます。
 だから自分にできる範囲で、この地に教会を建て上げていきましょう。
 まず恵みに貪欲になることです。
 聖書を読むこと、祈ることは繰り返し言っていますが、とても大切なことです。
 礼拝の恵みはどうでしょう。インターネットでどこでも聞けるからと、適当な態度でささげていないでしょうか。まさかパジャマのままとか、お菓子を食べながら聞き流している人はいないですよね。
 ただの視聴者になってはいけません。
 私たちは教会のお客さんではなく、私たち自身が教会です。私たち一人一人に、この世界に対する責任があるのです。
 たとえ家から出ることができないとしても、私たちがいるその場所が礼拝の場です。そしてそこから世界が変えられていきます。
 自分の力で何もできないと思う今こそ、神が働かれるチャンスです。
 神が共にいて全てを行われると信じてください。

苦しみの中で生まれるもの

 パウロは弟子たちを励ますとき、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言いました。クリスチャンにはこの世で苦難があります。
 もちろん苦しむことが救いの条件ではありません。私たちはただ信仰によって救われます。
 しかし私たちがキリストの弟子であろうとするとき、苦難は避けられないのです。
 パウロはただ福音を伝えただけで迫害され、石打ちで死にかけました。ただイエスを主と信じるということだけで迫害を受ける人たちは今も世界中に多くいます。

11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。』

テモテへの手紙二3:11-12

 信仰に生きるということは、時にこの世の流れに逆らうことになります。そこでは当然、摩擦が生まれます。
 そのような苦難や迫害の中でも神は共にいて、救い出してくださいます。

 パウロは迫害や苦難を嫌だと言いません。そこから生まれるものを知っているからです。それは私たちの生き方を変え、人々を救いへ導くということです。
 パウロはこのようにも言っています。

今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

コロサイの信徒への手紙1:24

 「キリストの苦しみの欠けたところ」。不思議な表現です。
 イエス・キリストは十字架で死なれました。この受難に何か足りないものがあったというのでしょうか。
 私たちの救いのための苦難は、十字架ですべて完了しています。
 しかしこの世界で宣教をしていくとき、まだ苦難が残っています。キリストの体である教会が受けるべき苦難があります。
 苦しめば苦しむほど宣教が前進するという意味ではありません。この世界はそれほど公正ではありません。
 ただ、この地に神の国を建て上げて行こうと思ったら、苦しみは避けられないのです。そして後の栄光に比べれば今の苦難は取るに足りないものです。

 パウロはリストラでの苦難を帳消しにしてくれるような出会いを、ここでしています。
 それはロイスとエウニケというユダヤ人女性の親子との出会いです。この本文には出てきませんが、おそらくリストラで出会ったと考えられます。
 エウニケはギリシア人の男性との間に、男の子が与えられていました。その子の名はテモテです。
 パウロとバルナバが帰った後、リストラの教会は異教の文化や迫害の中でも信仰に踏みとどまりました。そしてテモテは評判のいい弟子に成長していきました。
 パウロは第2次伝道旅行でこのテモテをどうしても一緒に連れて行きたいと願いました。そして若いテモテは、パウロの次の世代のリーダーとして成長していきます。
 パウロがリストラで殺されかけたとき、このような弟子がこの町から出ると想像できたでしょうか。
 迫害や苦難の中でも神が共にいて、驚くべきことを行われるのです。

 今教会も変化が求められています。
 変化すること、苦難を通ることを恐れてはいけません。
 この地に神の国を建て上げて行こうと思ったら、苦しみは避けられません。わざと苦しみに行く必要はありませんが、福音を伝えるためなら喜んで犠牲を払ってもいいではありませんか。
 自分の家にいながら、私たちはどのように神の国を建て上げることができるでしょうか。
 しばらく連絡を取っていなかった人に、勇気を出して連絡をしてみてください。
 家族にもっと仕えてください。
 友だちや家族、この町の人たちに福音を届けるために何ができるでしょう。
 牧師に指示されるのを待たないでください。自分で悩んでください。あなたが神に祈り、あなたが神からアイデアをもらうのです。あなたにはあなたの責任があります。神様は一人一人にそれぞれの使命を与えます。
 新しいことをしていきましょう。
 新しいことを始めるとき、今までと違うことをしようとするとき、私たちは犠牲を払います。
 大丈夫です。私たちが実を結ぶために必要な恵みは、神が注いでいます。
 この時期、涙を流しながら蒔いた種が、驚くべき実を結ぶのをいつか私たちは見るでしょう。
 そのとき私たちは、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、友だちや家族やこの町の人たちに信仰の門を開いてくださったことを喜びをもって報告できるでしょう。

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