イースター礼拝
あなたがたに平和があるように
ヨハネによる福音書 20:19-23
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
生き生きとした命
この春、私の周りで新しいことに挑戦する人たちがいます。
新しい保育園に入園した人もいます。受験を終えて新しい高校や大学に進学した人、親元を離れて生活を始めた人。海外に留学に行った人。結婚した人、結婚する人。牧師を交代した人。それまでの仕事をやめて新しい分野に挑戦する人。
彼らには新しく始まることへの期待があり、変わりたい変えていきたいという熱意があります。
生き生きとしているのです。
まさに生きているという感じです。
そのような人たちに出会ったり話を聞いたりすると刺激を受け、こちらまで生き生きとしてくる感じがします。
命あるものは周りに影響を与えていきます。
私たちも生き生きとした命をいただいて、周りによい影響を与えていきたいと思いませんか?
そのままを愛し一緒にいてくれるイエス
今日はイースター礼拝です。
金曜日に十字架で死んで葬られたイエス・キリストは日曜日の朝に復活しました。
復活というのは人間の理解を超えているので、受け入れがたい感じがするかもしれません。
それは弟子たちも同じでした。彼らはイエス様自身から死と復活を繰り返し予告されていましたが、受け入れることができませんでした。
恐れに捕らわれた弟子たち
イエス様が逮捕されると皆逃げ出してしまいました。エルサレムで滞在していた部屋に逃げ帰った彼らは、戸に鍵をかけて引きこもりました。
外では群衆の「十字架につけろ!」という叫び声が聞こえます。
ユダヤ人に見つかれば弟子である自分たちも同じ目にあわされるのではと恐れます。
やがて群衆の声はゴルゴタの丘の方に遠ざかっていきます。
昼になると急に外が暗くなりました。何が起こったのでしょう。
3時過ぎにまた明るくなりましたが、今度は大きな地震が起こります。
外で一体何が起きているのか。恐ろしくて出られません。
夕方になり、帰って来たヨハネと女性たちからイエスの死と埋葬を聞かされました。
イエスは死んでしまった。もう何もかも終わりだ。もはや何の希望も持てません。
安息日が始まったので仕方なく部屋に留まりますが、安息日が明けて日曜日になればそれぞれの故郷に帰ろうと思います。
ところが日曜日の早朝、マグダラのマリアがイエスの墓が空になっていると告げます。
ペトロともう一人の弟子が確かめに行くと、本当に墓は空でした。
その後、マグダラのマリアが「わたしは主を見ました。」と言います。復活のイエス様に出会ったと言うのです。そしてイエス様の言葉を弟子たちに伝えました。
イエスは確かに死んだ。しかし墓は空になっている。そしてマグダラのマリアは復活の主に出会ったと言っている。
外で一体何が起きているのか。
気にはなるけれど、弟子たちは部屋の戸に鍵をかけたまま出ようとしません。
それほどユダヤ人への恐れに捕らわれています。
復活のイエスに出会い平安と喜びを得る
そこにイエス様が来て弟子たちのいる部屋の真ん中に立ちました。そして「あなたがたに平和があるように」と言います。
元の言葉では、イエス様は「シャローム」と挨拶したようです。これはユダヤ人の日常の挨拶です。
その聞きなれた声を聞くだけでイエス様だとわかります。死んだはずのイエス様がここにいます。
手には釘の跡があり、わき腹には槍の痕があります。確かにイエス様です。
しかしどうやってここに来たのでしょう。部屋は鍵をかけていました。
イエスは死の力を打ち破り、栄光の体をもって復活したのです。
どうしてそんなことができるのか説明はできませんが、弟子たちは確かに復活のイエス様に出会いました。
そうでなければ彼らの変化を説明できません。
弟子たちは主を見て喜びました。
それまで恐れに捕らわれ希望を失っていた弟子たちでしたが、彼らの心は平安と喜びに変えられました。
イエスは私たちに平安を与えてくれます。
外の環境や状況がどうであれ、イエスは私たちの内に来て平安と喜びを与えます。
生き生きと生きられなくてもイエスは共にいる
生き生きとした命をいただいて、周りによい影響を与えていきたいと思いませんか?と聞きましたが、そのような思いがわかないかもしれません。
それでもいいです。
希望を持てずに同じところに留まっていてもいいです。
イエスはそのままのあなたを愛しています。
そんなあなたと一緒にいてくれます。
逃げ帰る弟子たちと共に歩くイエス
日曜日にエルサレムからエマオ村に向かう2人の弟子たちがいました。
彼らはイエスの死に失望し、故郷に向かっていたのかもしれません。
マグダラのマリアの「わたしは主を見ました。」との話も聞いたけれど、そんなことはあり得ないと思います。
その2人に近づき、何の話をしているのかと声をかける人がいました。
彼らは対話を続けながら、エマオまで歩き続けます。
後になって2人の弟子はそれがイエスだったと気づきます。
イエスは彼らが聖書を理解しないことを嘆きはしましたが、復活を信じなかったことやエルサレムから離れたこと、話している相手がイエス様だと気づかなかったことについて責めることをしませんでした。
共にいるイエスに出会う
私たちには生き生きと生きられないことがあります。
希望を持てないこともあります。
恐れて隠れることもあれば、あきらめて逃げ帰ることもあります。
それでもそこにイエスがいてくれます。
そのままのあなたを愛し、部屋に一緒にいてくれ、一緒に逃げてくれるイエス様がいます。
そのイエス様に気づくなら、私たちの心は平安と喜びに変わります。
イエス様は私たちに語ります。「あなたがたに平和があるように」
そのままではいられない
イエス様はそのままの私たちを愛し、一緒にいてくれます。
しかしイエス様は私たちに、そのままでいていいよとは言いません。
外に遣わし行くべきところに行く
ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけ引きこもっていた弟子たちに、イエス様は「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言います。
恐れて閉じこもっている弟子たちを愛しているけれど、イエス様はそこから弟子たちを外に遣わします。
ここから出て行きなさい、現状を変えなさいと背中を押します。
そのためにイエス様は弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言いました。
エマオ村に着いた弟子たちは、聖書の話をしていた時に自分たちの心が燃やされていたことに気づき、急いでエルサレムに帰りました。
エルサレムから逃げるように出てきた彼らが、急ぎエルサレムに戻りました。
いつまでも隠れていいわけではありません。いつまでも逃げていていいわけではありません。
そこから変わる力をイエス様が与えてくれます。
希望のない枯れた骨を生かす
エゼキエル書37章に枯れた骨の谷の話が出てきます。
エゼキエルは幻の中で谷底にカラカラに渇いた骨があるのを見ました。
骨にはもう生きる望みなどありません。
これは国を失い捕囚にあったイスラエルの民の姿です。生きる望みを失った民は枯れた骨のようになっています。
神はエゼキエルに命じ、骨に神の言葉を聞かせます。
すると骨に肉がつきました。これはまだ死体の状態です。
次にエゼキエルは霊に呼びかけます。
すると死体に霊が入り、彼らは自分の足で立ち上がりました。
霊が入り、生きる者になりました。
人は神の霊によって、本当に生きる者になります。
人を生かす神の息吹
イエス様が弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言ったとき、息を吹きかけました。
これはペンテコステの出来事の象徴でもあります。この7週間後に激しい風の音が聞こえ、聖霊が弟子たちの上に降りました。
この息、風という言葉は霊と同じ言葉です。
だからイエス様が弟子たちに息を吹きかけたのは、弟子たちに聖霊を与えることの象徴になっているわけです。
創世記でも神様が人に息を吹き込む場面がありました。
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。
創世記2:7
人間は土の塵に過ぎず、生き生きとした命など持っていません。
神は人の鼻に命の息を吹き込みます。神の息吹を吹き込みます。
こうして人間は本当に生きる者になりました。
イエス様は私たちが聖霊を受け、本当に生きる者になることを願っています。
恐れて隠れていた弟子たちが、聖霊を受けて外に出て行くことを願っています。
人とぶつかって殻が破れる
私たちはいつまでもそのままでいるわけにはいきません。
京都精華大学の学長だったウスビ・サコさんは、マリ共和国出身で、日本で初めてアフリカ大陸出身で学長になった方です。
彼が授業の一環で京都精華大学の学生をマリ共和国に連れて行ったことがありました。
その中のある学生が、あまりに緊張して面接の時点で泣き出してしまいました。
この人大丈夫だろうかと心配していましたが、学生たちはマリに着いて現地の家庭にホームステイをします。そこから先は任せるしかありません。
ある夜、学生たちが集まってマリの人たちの前でパフォーマンスをする機会がありました。
見ていると、あの緊張しすぎて泣いていた学生が、舞台の中央で生き生きと踊っているではありませんか。
サコさんは驚き、彼女に何があったのか聞きました。
彼女がホームステイを始めたとき、やはり緊張し、恐れ、話しかけないでくれという雰囲気を出していたのだそうです。
それでもマリの人たちは彼女に関わり続けました。断っても関わってきます。
そうしてしつこく関わられていく中で、彼女の中に変化が起こりました。
日本では大丈夫ですと言うと、他の人は関わるのを止めて距離を置いてくれた。だから変わらずにいられた。
しかしマリの人たちはどんどん距離を詰めてくる。だから、私はこのままじゃいけないんだと思わされ、自分の殻を破れたそうです。
日本の距離感を大事にする関わり方も良さがあります。迷惑をかけないように気をつけることや、そのままでいいよと認め受け入れることも大事です。
しかし人は人との関わりの中で生きていきます。互いに迷惑をかけずに生きていくことなどできません。
だから互いに迷惑を承知で相手の領域に入り込み、迷惑だと思いつつもそれを受け止める。
そのぶつかり合いの中で、人は殻が破られ変えられていきます。
新しい命への招き
イエス様はそのままの私たちを愛し受け入れつつ、鍵のかかった部屋の中に入り込んできます。
逃げ帰って行くところについてきて、離れません。
そして私たちとぶつかり、私たちを変えようとしてくれます。
無理に変えることはしません。
死を打ち破る復活の命を得たいのか。今の生き方を変えたいのか。生き生きとした命を得て周りによい影響を与えていきたいのか。
そう願うのなら、自ら扉を開けて出て行きなさい。行くべき場所に帰りなさい。
イエス・キリストは新しい人生へ私たちを招いています。
新しい命を伝えるために
イエス・キリストは「聖霊を受けなさい」と言った後、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言いました。
イエスは弟子たちを遣わして、罪の赦しを得させたいのです。
罪の赦しはあくまで神の領域です。
人の罪を私が赦すと赦され、私が赦さなかったら許されないなどということはありません。
イエス様が願っているのは、イエス様の十字架によって罪赦された私たちが、罪の赦しを他の人にも伝えることです。
「あなたの罪のためにイエス・キリストは十字架で死にました。そしてキリストは復活してあなたに新しい命を与えます。あなたも生き生きとした命を持って生きることができます。」
この命を他の人に伝える力が私たちに与えられています。
教会には天と地をつなぐ鍵がある
イエス・キリストは教会の役割をこう語りました。
私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」
マタイによる福音書16:19
教会には天と地をつなぐ鍵が委ねられています。
私たちには罪の赦しを、キリストの福音を、新しい命を伝える責任があります。
周りの友だちに、家族に、この町の人々に。
新しい命に生かされ、その命を伝える
まずは私たちがこの命を受け取る必要があります。
今のまま、何の希望もなく生きていていいや。今のままで十分。どうせ何も変わらない。そのように思って生きることもできます。
恐れて隠れて生きることもできます。逃げ出すこともできます。
しかしイエス様は、私たちが神の言葉によって心燃やされ、神の息吹を吹き込まれて生きることを願っています。
そしてその命を周りの人に伝えることを願っています。
イエス様はイースターの朝に復活してから、40日に渡って弟子たちの間に現れました。
聖霊が与えられているので世の終わりまでいつも共にいるわけですが、これからの40日間は特に、イエス様が一緒にいてくださるのだと意識しながら、生き生きとした命を持って周りの人にも命を分け与えていくことを願います。
人が生き生きと生きるところに平和があります。