ローマ書講解14
聖なる神の奴隷
ローマの信徒への手紙 6:12-23
12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
聖なる神の奴隷を目指した郷土の先人
聖隷福祉事業団は医療、福祉介護、教育などを行っています。
このグループは約100年前に長谷川保ら浜松の青年クリスチャンたちによって創設された聖隷社から始まりました。
彼らはヨハネによる福音書13章でイエス様が弟子たちの足を洗った場面を模範とし、自分たちも聖なる神の奴隷となって神と人に仕える生き方をしようと誓い合ったのでした。
私たちも浜松の先輩クリスチャンに倣い、イエス・キリストを模範として聖なる神の奴隷を目指しませんか。
でも正直、奴隷になるのはイヤですよね。
イエスにある本当の自由
私たちは奴隷ではありません。
自由です。
…本当に?
偽りの自由
皆さんが大豪邸に招かれて「自分の家だと思って自由に過ごしていいよ」と言われたら何をしますか。
ある人は何をしていいかわからず、ただ怠惰に過ごします。
子どもたちはおもちゃなどで適当に遊びだしますが、他の子が持っているものを見て妬みます。
そして怒り、奪い合います。
ある人は冷蔵庫を開けて好きなものを好きなだけ食べます。
またある人はその家の主人になったかのように振る舞い、他の人を支配しようとします。
自由が与えられたために問題を起こしてしまいます。
今日は東京都知事選挙の投票日ですが、候補者の一人が「表現の自由」を主張しながらわいせつなポスターを貼って問題視されました。
別の政治団体は掲示板を金儲けに利用しています。
カトリック教会には七つの大罪という思想があります。
傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。
人間が何に支配されているかをよく表しています。
人は自らの自由な意思で神に背き、食べてはいけない木の実を食べました。
それ以来私たちは神に支配されず自分勝手に生きることが自由だと思い込んできました。
しかしその生き方は、この体を不義の道具として利用される罪の奴隷状態でした。
罪の奴隷であった自分はもうキリストと共に死んだ
奴隷は主人の言うことに従うしかありません。
罪の奴隷ならばこの体を罪のために使われるのは仕方ありません。
しかし思い出してください。先週私たちはどのような神の約束を認めたのですか。
そう、古い自分はキリストと共に死に、今は復活の主と共に新しい命に生かされています。
罪の奴隷の自分は死んだのでもう罪に支配されません。
自由です。
本来の力を発揮できる状態が自由
自由とは何でしょう。
自分勝手に生きることではないんですね。
ここに電子ドラムがあります。
自分勝手に叩くとうるさいだけです。私がこのドラムセットの中で使いこなせるのはイスだけ。
このドラムをどのように使ったら、自由に使いこなせていると言えますか。
ビートを刻み音楽を奏でる時ですね。
だから自由とは、その本来の力を発揮できる状態だと言えます。
聖書は、人間は神のかたちだと言います。だからこの体を通して神の素晴らしさが表わされるとき、私たちは本当に自由に生きます。
またパウロは私たちを道具にたとえます。
この電子ドラムの使い方を知りたければ、Rolandさんに聞いてください。
道具の本来の使い方を誰よりも知っているのは造り主だから。
私たちが創造主なる神の手にある道具として用いられる時、私たちは本当の自分でいられます。
これが自由です。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ヨハネによる福音書8:32
恵みの下にいる神の子
クリスチャンになってからも「~しなければならない」「~であるべき」という思いに縛られることがあります。それは律法的な価値観です。
私たちはもう律法の下ではなく、恵みの下にいます。
イエスを主と信じた私たちは、行いに関係なくただ信仰で救われました。
神様の子どもになりました。
「私は神様の子どもなんだから礼拝をささげるべき。聖書を読み祈らなければならない。」子どもがそんなこと考えますか。
子どもとしての自由な関係の中で、父なる神様との交わりを楽しんでください。
大豪邸に招かれてどうしていいかわからないお客さんじゃないんです。
神の宮で過ごす自由な神の子です。神様の前で平安にくつろげます。
イエスを主と信じるとき、私たちは本当に自由に生きられます。
神の奴隷
ああ、私たちは自由だ。もう何者にも支配されない。束縛されない。
恵みの下にいるのだから、何をしてもいいんだ。
だったら別に罪を犯してもいいでしょ。
このように考える人は、神の恵みというものを安っぽく考えています。
罪の奴隷か神の奴隷か
私たちはどのような価値観で生きていますか。
この世の価値観か、神の国の価値観か。
私たちが神の恵みを罪を犯す自由のように考えているなら、それはまだこの世の価値観に従っていることになります。
そしてこの世の価値観に従うなら罪が自分の主人であり、罪の奴隷状態に戻ってしまいます。
私たちは従うものの奴隷になります。
神の国の価値観に従うなら神が主人であると認めることになります。
その人は神の奴隷です。
イエス様が言ったように、誰も二人の主人に仕えることはできません。
つまり罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかしかないのです。
もう罪の奴隷ではないから神の奴隷である
ここで神の奴隷という表現が出てきました。
どうです。皆さんは神の奴隷だと思って生きてきましたか。
なかなか「自分は神の奴隷です」なんて言えませんね。
神の奴隷でないなら、自分は相変わらず罪の奴隷ということになってしまう。
そこでパウロは唐突に感謝の祈りをささげます。「神に感謝します!」
どうした?
ローマの信徒たちは確かにかつては罪の奴隷だった。しかし彼らは伝えられた教えの規範、つまり彼らの罪のためにイエス・キリストが十字架で死んで葬られ、復活したという福音を受け入れた。
そのキリストの血により買い取られ、罪の奴隷状態から解放され、神のものとされた。
今はあなたたちの信仰が全世界に言い伝えられるほど正しく生きる者に変えられたよね。
そういう諸々の思いを込めて「神様ありがとう!」です。
もちろん神に従えない時はありますよ。パウロだってそうです。
でもそのパウロが自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」だと名乗っています。
神に従えない時は神の奴隷ではない。だから罪の奴隷だ。
この考え方は間違っています。それは悪魔のウソです。
私たちが正しく生きることによって神の奴隷としての身分を勝ち取る。これはまさに律法的、この世の価値観です。
私たちはもうイエス・キリストの死と復活によって、罪の奴隷ではなくなったのです。
罪の奴隷でないなら、神の奴隷です。
神の奴隷とされたから、神に従うことを選び取る自由が与えられたのです。
愛するから自ら喜んで仕える
皆さんは家族に仕えることがありますよね。お手伝いをしたりプレゼントを贈ったり。
それは家族に支配されているからですか。
家庭を支配しようとする人もいますが、皆さんは違いますね。
家族に仕えるのは家族を愛しているからではありませんか。
愛するからこそ喜んで仕えられます。
パウロはこうも言っています。
19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一6:19-20
この体は聖霊が宿る神殿。キリストの血という代価によって買い取られ、神のものとされた。
このように三位一体の神の愛の交わりの中に招かれています。
愛は自由な関係の中にあります。
神は決して私たちを奴隷のようには支配しません。
私たちは自由な選択の中で、神を愛することを選び取ります。
神の愛を受けたなら、喜んで神に仕える聖なる神の奴隷になりましょう。
神の手にある道具として用いられ、この人生を通して神の素晴らしさを現すのです。
愛の交わりの中で生きる永遠の命
最後にとても大事な言葉が出てきます。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
覚えてください。
この世の価値観を追い求るほど死んでいく
罪に支配されていた時、私たちは神に支配されず自分勝手に生きることが自由だと思っていた。
しかしそのような生き方はどのような結果を結びましたか。
傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。自分でも恥ずかしいと思うものばかりです。
そしてその行き着くところは死。
神との関係が壊れ、自分自身を見失い、隣人を愛せなくなります。
そうとは知らず、私たちは罪に支配され、この世の価値観で生きていきます。
この世が提供する幸せを求めれば求めるほど、報酬として死を受け取ることになるのです。
永遠の命というプレゼント
今は罪の奴隷状態から解放されました。もう罪には支配されません。
聖霊によって愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の実を結んでいきます。
その行き着くところは永遠の命。神との関係の回復です。
神のかたちが回復され、神の傑作品として本当に自分らしく生きることができるようになります。
もう自分勝手には生きられません。
本当に自分らしく生きるとは、この人生を通して神の御心が行われることです。
私たちはキリストを頭として、互いに体の一部とされています。
だから自分を愛するように隣人を愛するようになります。
こうして神との愛の交わりの中で共に生きること。これが永遠の命。
神の賜物として差し出されています。プレゼントはただ感謝して受け取ってください。
しもべのようになって愛を示したイエスの模範
イエス・キリストは十字架につけられる前の夜、弟子たちと最後の晩餐をしました。
イエス様は彼らの裏切りを知った上で、弟子たちをこの上なく愛しました。
そして自らしもべのようになり、弟子たちの足を洗ったのです。
そしてこう言います。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
ヨハネによる福音書13:15
キリストの愛を受けた者は、その愛を周りの人に流します。
神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者になっていきます。
愛するから喜んで神に仕え、人に仕える人生を送れます。
私たちもイエス・キリストを模範として聖なる神の奴隷を目指しませんか。