ローマ書講解15
キリストとの再婚
ローマの信徒への手紙 7:1-12
1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
大切にしていたものから離れる後ろめたさ
私の伯父はセガで働いていました。いとこの家に行けばセガのゲーム機があり、いとこと一緒に遊びました。父が最初に買ってくれたテレビゲームもセガのメガドライブでした。特にソニックシリーズが大好きでよく遊びました。
しかし友だちの家に遊びに行くとファミコンやスーパーファミコンがあります。外で遊んでいてもゲームボーイを持ってきている子がいます。任天堂のゲーム機ばかり。みんなマリオは知っているけどソニックなんて知らないんです。
寂しい気持ちはありましたが、兄の友人に貸してもらったゲームボーイ、面白かったですね。スーパーファミコンも名作ぞろいですよ。
父にねだってゲームボーイを買ってもらい、数年後にスーパーファミコンも買ってもらいました。
そしてセガより任天堂のゲーム機で遊ぶ時間が多くなりました。
私は別にセガのゲームだけで遊ぶと誓ったわけではありませんが、お世話になった伯父さんを裏切ってしまったような気持ちも多少ありました。
もしこの道を信じて行くと誓ったのにそこから離れてしまったら、それは裏切りというか浮気というか、後ろめたい感じがしますね。
律法からの解放
前回、キリストを信じた私たちはもう律法の下ではなく、恵みの下にいるのだと学びました。罪から解放され、自由になりました。「あれをするべき。これをしてはならない。」という律法に縛られることなく、喜んで神に仕える自由があります。
律法から離れる後ろめたさ
しかし律法を大事に守ってきた人たちが、そう簡単に律法から離れられるでしょうか。
律法も神の民に与えられた神の言葉なのです。それなのに律法を捨ててしまったら、神に対して浮気をしているような後ろめたさを感じます。
結婚の律法は生きている間だけ有効
そのような兄弟姉妹に対し、もう律法に支配されないということを伝えるため、パウロは結婚のたとえを話します。
結婚した女性は夫と結ばれています。「姦淫してはならない」などの律法がありますから、他の男と結ばれることがあってはいけません。
しかしその律法が有効なのは、生きている間だけです。
夫が亡くなれば、彼女と夫を結び付けていた律法から自由になります。だから他の男性と再婚し関係を持ったとしても問題ありません。
結婚は神様が結び合わせ一体になる神秘的な結びつきですから、実際は相手がなくなったからと言って他の人と再婚しようなどと思わないかもしれませんが、仮に再婚しても問題はありません。
ならず者と別れ将来の王と再婚したアビガイル
サムエル記上25章にはアビガイルという女性が出てきます。彼女にはナバルという夫がいました。
ナバルはならず者で、親切に接してきたダビデの使いを侮辱し追い返しました。
ナバルはダビデの怒りを買いますが、アビガイルが知恵をもって執り成し、事なきを得ます。
ナバルは後でそのことを知り、気絶して倒れてしまいました。そして10日後、亡くなります。
それを聞いたダビデに迎えられ、アビガイルはダビデと再婚します。
ならず者の夫が死んだことで解放され、将来の王様と結婚することができました。
律法という夫とは別れた
ユダヤ人もかつては律法という夫と結ばれていました。
しかしイエスを主と信じ洗礼を受けた人は、キリストと共に死にました。
死んだので、律法という夫とは別れました。
だからキリストに結ばれても問題ありません。
律法との結婚生活は終わり、キリストと再婚したのです。
聖霊に従う新しい生き方
ここではユダヤ人のように律法を神の言葉として守ってきた人たちに対して語られていますが、私たちも同じです。
かつて肉に従って生きていたとき、つまり神を頼らずに生きてきたときは、この世の価値観に縛られていました。ルールを守り、自分の力で救いを勝ち取らなければならない。自己責任だ。
罪は私たちをそのようなルールに縛られた生き方によって神から引き離し、滅びへと向かわせていました。
しかしそのような生活は終わりです。
私たちはもう石に刻まれた文字に従う古い生き方ではなく、聖霊によって心に記された新しい生き方をします。
イエス・キリストの死と復活によって、エレミヤが預言した新しい契約の時代が始まっています。
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
エレミヤ書31:33
私たちは死者の中から復活したキリストのもの。キリストの花嫁です。
結婚したら生き方が変わりますよね。
結婚したのに独身の時のように自分の都合ばかり優先してはいけませんよ。
モラハラ夫に支配されていた人が再婚しても自由になれなかったら、新しい夫は悲しみます。
キリストと再婚した私たちは、もう古い生き方はできません。
自己中心には生きられない。罪に支配された生き方はしない。
聖霊に従う新しい生き方をもって、神の民としての人生を歩みます。
律法は善いもの
むさぼるなと言われてむさぼる心に気づく
なるほど律法はモラハラ夫。ナバルみたいな悪党だったのか。
いやいや、律法そのものは悪いものではありません。むしろ善いものです。
神から与えられた神の言葉だからです。
律法は神の民としての生き方を指し示します。
それは神を愛し、隣人を愛する生き方です。
たとえば第十戒で「むさぼるな」と命じられていますね。
神の恵みで心を満たされ、隣人と恵みを分かち合うためです。
ところが「むさぼるな」と言われたら、自分の心の中にむさぼりがあることに気づかされます。
あ、そう言えば隣の芝は青く見えるな。
律法そのものは善いものだけれど、罪はその律法を足掛かりにして私たちの心を攻略してきます。
エデンの園で人は神様からの恵みで満足していたのに、ヘビと話しているうちに善悪を知る木の実がおいしそうに見えてきました。
「食べるな」と言われたら食べたくなっちゃいますよね。カリギュラ効果です。
罪は神の言葉をも足掛かりにし攻撃してくる
もともと私たちは生まれながらに罪人ですから、罪の支配下にありました。
しかし何も知らなければ、罪は力を発揮しません。
たとえばタバコの存在を知らなければ、20歳未満でタバコを吸おうとは思いません。
先ほど夫が死ねば自由になるという話をしました。
「ああ、うちのナバルも死んでくれないかな」と思った人はいませんか。
全然本心じゃないんですよ。むしろ冗談。
本当は夫や妻と幸せな結婚生活を送ることを望んでいる。
でもちょっとアビガイルに共感する部分がある。
それで聖書を読みながら、「私のところにも将来の王様が迎えに来てくれないかな」という思いが入って来ます。
魔が差すという言葉がありますが、ふとしたきっかけに自分の中にある罪が生き返り、私たちの心を攻略してきます。
神の言葉さえも足掛かりにして、罪は攻撃を仕掛けてきます。
そうして本来は命に導くはずの律法が、私たちを死に導くのです。
自分の罪を知ることでキリストと結ばれる
しかしそれこそ律法の役割です。
暗かった部屋に照明をつけたら、部屋の汚れが見えてきます。
「ああ、自分の部屋はこんなに汚かったのか」と気づく。
そうしたらどうしますか。
見なかったことにしようと照明を消しますか。そうしたら部屋は汚いままです。
照明をつけたから部屋が汚くなったんだと照明のせいにしますか。いいえ、部屋が汚いのはあなたの責任です。
照明は自分の部屋の汚さを教えてくれました。そうして部屋をきれいにするきっかけを与えてくれます。
律法によって私たちは自分の罪を自覚させられます。
見て見ぬふりはできない。律法が悪いのではない。自分自身の罪の問題。
それで私たちはこの罪を解決するお方、イエス・キリストを頼るようになります。
私たちの罪を負い十字架につけられたキリストに結ばれ、共に死にます。
そして復活の主と共に新しい命に生きます。
神のものとされ、キリストの花嫁としての新しい生活が始まります。
私たちはキリストの花嫁
イエス様も福音書の中でご自身を花婿にたとえました。
パウロはエフェソの信徒への手紙5章でキリストと教会との関係を夫婦にたとえています。
そしてほふられた神の小羊、王の王、主の主である花婿が私たちを迎えに来ます。
わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。
黙示録19:7
私たちはキリストの花嫁です。
男も女も関係なく、結婚歴があっても独身でも何歳でも、キリストの花嫁です。
かつてはこの世の価値観に従い、ルールに縛られ生きてきた。
しかしそのような古い生き方は死にました。
前の男とは別れました。
私たちはキリストの花嫁。キリストと再婚しました。
だからもう古い生き方はできません。
聖霊に従う新しい生き方をもって、神の民としての人生を歩むのです。
聖書は「むさぼるな」と言う。では神はどのような生き方を望んでいるのか。神の恵みで心を満たされ、隣人と恵みを分かち合うことです。
もう罪に攻撃の機会は与えない。
喜んで神の言葉に従うことができます。
律法は聖なるものであり、正しく善いもの。
それは愛する花婿の言葉だからです。