主の御心が行われるように

使徒言行録講解61

主の御心が行われるように

使徒言行録21:8-14

8 翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。9 この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。10 幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。11 そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」12 わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。13 そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」14 パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。

状況や人だけでなく神様にも目を向ける

 9月に入りました。浜松市内の新型コロナウイルスの新規感染者数が0の日が続いています。
 オンライン礼拝や時間を分けての礼拝などに協力してくださってありがとうございました。来週から礼拝や集会を再開していきます。
 このような判断は本当に難しいです。
 目に見える数字に恐れを感じたり、社会の雰囲気に流されたりしてしまうことがあります。
 人にも目を向けて、兄弟姉妹の健康を守るためにどうすればいいか、信仰を守るためにどうすればいいか、など総合的に判断しなければなりません。
 考えなければならないのはそれだけではありません。
 神様は何を願っておられるか、その観点が大事です。

神様に目を向けても

 このような話があります。
 ある男の人が登山中に足を滑らせてしまいました。
 崖を滑り落ちていく中で、一本の枝にしがみつきました。なんとか両手でぶらさがっています。
 彼は上を見上げて助けを求めました。
 男「誰かいませんかー、助けてくださーい」
 すると上の方から優しい声が聞こえてきました。
 ?「大丈夫か?」
 誰かはわかりませんが、なぜか懐かしい感じのする声です。
 男「あなたは誰ですか?」
 ?「私はあなたの神、主だ。」
 男「主よ、助けてください!」
 主「私に信頼しなさい。そうすれば私はあなたを助ける」
 男「どうすればいいですか?」
 主「その手を放しなさい」
 男「手を放す?そんなことしたら落ちちゃいます!」
 主「私に信頼しなさい。その手を放しなさい。私はあなたを守る」
 男「…。」
 彼はしばらく考えてから叫びました。
 男「他に誰かいませんか?」
 私たちは状況や人ばかりを見て、神様の御心を無視してしまっていないでしょうか。

カイサリアへ

 今日の本文はパウロたちがエルサレムに行く途中、カイサリアでフィリポ執事の家に泊まった時の出来事です。
 ミレトスでエフェソの長老たちと涙の別れをした後、パウロたちはコス島まで行きました。それからロドス島、そしてパタラに行きます。このパタラか隣のミラという港から、シリア州のフェニキア地方に向かう船に乗り込みます。船はキプロス島の南を通り、ティルスに着きます。ここで7日間滞在しました。五旬節までにエルサレムに行こうとしているのにここで長く滞在したのは何か事情があったのかもしれません。
 ティルスにも弟子たちがいました。彼らはパウロに、エルサレムに行かないようにと繰り返し言いました。パウロがエルサレムで苦難を受けることを、彼らも聖霊によって示されたのでしょう。
 それでもパウロたちは旅を続け、プトレマイス、それからカイサリアに到着しました。エルサレムまであと少しです。
 このカイサリアにはフィリポ執事がいました。
 エチオピアの宦官に洗礼を授けた後、アゾトに遣わされ、海沿いの町で福音を伝えながらカイサリアまで来たのでした。
 そこにアガボという預言の賜物のある人が来ました。彼は以前、アンティオキアの教会で大飢饉が世界中で起こると預言し、その通り実現していました。確かに預言の賜物のある人です。
 彼はパウロの帯を取り、自分の手足を縛りました。
 そして「この帯の持ち主はエルサレムでこのように縛られ、異邦人の手に渡される」と預言しました。

苦難を覚悟をしエルサレムへ向かう

 使徒言行録の前半に出てきた人物が再び出てきて、この物語が大きな山場に差しかかっていると感じられますね。
 エルサレムで大変なことが待っているのは明らかです。パウロ自身がそう聖霊に告げられていました。ティルスの弟子たちもエルサレムに行かないようにと言いました。
 アガボがパフォーマンスを交えながら預言すると、旅に同行していた人たちもカイサリアの人たちも皆、エルサレムに行かないようにとしきりに頼みました。
 しかしパウロはこう答えます。
 「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」

 パウロはエルサレムで大変なことが待っているとわかっているのに、覚悟を持って進んでいきます。
 この姿はイエス様を思い起こさせます。
 イエス・キリストは「エルサレムで苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」と3回予告していました。
 苦難が待っていると知りながら先頭に立って歩むその姿を見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れを感じるほど、覚悟を持って進んでいきました。
 しかし救い主だと信じている方がこれから死ぬなんて、あってはいけないことです。
 ペトロはイエス様を弟子たちの間から連れ出し、言いました。「主よ、とんでもない爆弾発言です。炎上します。そんなことがあってはなりません」
 ペトロの良心的なアドバイスです。それに対しイエス様はこう答えました。

イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

マタイによる福音書16:23

 ペトロに向かって、「サタン、引き下がれ」と厳しい言葉を使っています。
 あなたは神のことを思わず、人間のことばかり思っているのだと。

 誰かが苦しんで殺されるなんて、あってはならないことです。
 しかしイエス様が十字架で死ぬことは、私たちを救うためにどうしても必要なことでした。
 だから私たちを愛しておられる神様のことを考えるなら、イエス様がエルサレムに行くことを止めてはならないのです。
 パウロも神様に焦点を当てていました。主イエスの名のために、福音のために、エルサレムに行かなければならない。そこで縛られることばかりか死ぬことさえも覚悟の上なのです。

判断基準は何か

 私たちは人生の中で、様々な選択を迫られます。
 就職や結婚、進学など、大きな決断をしなければならないこともあります。
 毎日の生活の中で、何を食べようか何を着ようかという選択もあります。礼拝の後、何を食べよう。服は何を着ようかな。どうせオンライン礼拝だからパジャマでいいか。など悩むことが多くあります。
 最近は10万円をどう使おうかという大きな悩みもありましたね。特別定額給付金、受け取りましたか?浜松市は8日が締め切りなので、まだの方は忘れないようにしてくださいね。受け取らないという選択肢はナシですよ。
 今日は後で防災学習センターに行って防災学習をします。台風や地震、火事といった緊急事態にどう行動するかというのも大事な選択になります。
 そのとき私たちは何を基準に判断を下すでしょうか。
 長いものに巻かれろ。周りの人と足並みをそろえて、流れにしたがっていきますか?
 それとも自分の心に従いますか?Let it be. ありのままの自分を生きようか。
 そのどちらの判断基準も、この世の状況や人を見ています。

 主なる神様も私たちに選択を迫ります。

15 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。16 わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。

申命記30:15-16

 命と幸いか、死と災いか、どちらかを選び取れと言います。
 もちろん主は命と幸いを選び取ってほしいと願っています。
 それなら「いやー、皆がそう言うなら仕方ないよね。アガボさんの預言に従ってエルサレム行くの止めます!」とパウロも言うでしょう。
 イエス様も「ペトロ、お前もそう思うだろ。うちのお父ちゃん俺のこと愛してないのかと疑っちゃうよな」と答えたかもしれません。
 しかしそうは言いませんでした。
 一見すると、死と災いの方に行ってしまったかのように見えます。
 そう思わせるのは、サタンの策略です。私たちの目をこの世の状況や人に向けさせるのです。

 主が私たちに命と幸いを選び取らせるために示した判断基準は、この世のものではありません。
 主を愛し、主に従えということでした。
 主に目を向けるのです。

主が判断基準

 主は私に何を願っておられるのでしょうか。
 時にそれは、この世の流れに逆らうことかもしれません。この世の99%の人が歩むのとは逆の道かもしれません。
 自分自身に変化を迫ってくるかもしれません。ありのままの自分ではいけないと示されるかもしれません。
 自分で自分を救おうと、ぎゅっと握りしめているものがありませんか。これを手放したらお終いだと思っている。しかし主は、「私に信頼しなさい。その手を放しなさい。私はあなたを守る」と言ってくるかもしれません。
 誰かのために、自分の命をも犠牲にしなければならないこともあるかもしれません。
 それでも主が行けと言うなら行き、止まれと言うなら止まるのです。
 主が私たちの判断基準です。

私たちの選択によって主の御心が行われるように

 イエス様だってエルサレムで苦しみを受けて殺されるのは嫌でした。
 でもその十字架の死と復活によって私たちを救うために、十字架の道、悲しみの道を進みました。
 その道を歩み出す前に、イエス様はこう祈っています。

こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

マルコによる福音書14:36

 苦しい心の内を告白しながらも、御心に適うことが行われるように祈っています。
 私たちも人生の選択に悩むことは多くあります。主に従い、主の御心が行われるように祈っていきましょう。

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