信じる者に伴うしるし

使徒言行録講解72

信じる者に伴うしるし

使徒言行録28:1-10

1 わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。2 島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。3 パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。4 住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」5 ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。6 体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。7 さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。8 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。9 このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。10 それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。

その対策が何の役に立つのか

 浜松市では今日が成人式です。成人を迎えられたことは素晴らしいことです。おめでとうございます。
 しかし今年は参加しない決断をした方や、参加したくても帰省できなかった人も多くいるのではないでしょうか。
 特に関東では1月8日から東京、埼玉、千葉、神奈川に緊急事態宣言が行われました。さらに京都、大阪、兵庫でも緊急事態宣言を行うように要請を出しました。
 新型コロナウイルスの感染者が急速に増えています。新規感染者数は全国各地で最多を更新しています。静岡県でも昨日初めて、一日で100人を超えました。その増え方も加速しています。
 このままでは医療機関で対応しきれなくなるかもしれません。早めに強力な対策を打ち出す必要がありましたが、クリスマスから正月にかけて目立った対策をしなかった結果がここに出ていると思います。
 今回出された緊急事態宣言もあまり緊急事態という感じがしません。宣言が出された後の3連休に入っていますが、都心の人出は宣言前と変わらなかったようです。
 一方で地方の観光地は人が少なく、苦しい状況が続いています。仕事を失う人も出ています。
 経済対策も必要です。しかし飲食店の時間短縮に協力しない場合は店名を公表するという話も出ています。十分な補償はありません。
 どうすればいい。
 頑張ろう!という言葉とか、医療機関を応援するために青い照明をつけるとか、そういうことは何の助けにもなりません。励まされる人もいるでしょうが、本当に苦しんでいる人からすれば腹立たしいでしょう。

福音が何の役に立つのか

 私たちの信仰はどうでしょうか。
 このパンデミック、経済的困難、大雪といった具体的な問題に対して、福音は何ができるのでしょうか。
 本当に苦しんでいる人に、祈りますとか、聖書を読みましょうとか、あなたは愛されていますとか、そんな言葉が何になるのか。
 信仰は現実から目を背け、あるかどうかわからない天国に逃げ込む現実逃避に過ぎないのでしょうか。

マルタ島に漂着

 使徒言行録の最後の章に入りました。
 今日の本文はパウロたちがローマに送られる途中、クレタ島の沖で難破した後、マルタ島に漂着した時のことです。
 島の人たちはとても親切で、たき火をたいてもてなしてくれました。
 パウロは一束の枯れ枝を集めてきて火に入れました。その枯れ枝の中に毒蛇が紛れ込んでいたようです。熱気のために出てきて、パウロの手に絡みつきました。
 島の人たちはこれを天罰だと考えました。ローマ皇帝に送られるほどの犯罪者。きっと人殺しなのだ。だから船は難破した。奇跡的に海では助かったが、この毒蛇にかまれて死ぬのだ。正義の神は人殺しを生かしておくはずがない。
 ところがパウロは毒蛇を火の中に振り落とし、何の害も受けませんでした。
 これを見た住民たちは、「この人は神様だ」と言い出しました。
 その後パウロたちは島の長官プブリウスの所有地に招かれ、もてなしを受けました。
 パウロはプブリウスの父の病を癒し、評判を聞いて来た他の病人たちも癒しました。

信仰によって問題を解決していく

 使徒言行録には教会の活動が記録されています。
 教会はエクレシア、呼び出された人の集まりです。弟子たちは集まり、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心でした。この集まる姿によって好意を持たれ、日々救われる人が仲間に加わり一つにされていきました。
 教会はこのような集まり、内側に向いた働きと同時に、外に出ていく働きがあります。イエス様は約束しました。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

使徒言行録1:8

 聖霊の力によって教会はエルサレムから地の果てに向かって出ていくのです。
 ペンテコステの日に集まり祈っていた弟子たちは、聖霊を受けて他の国々の言葉で神の素晴らしさを語りました。 そしてサマリアやアンティオキア、ローマなどに教会が誕生し、異邦人も信仰に入りました。
 その過程で色々な壁を打ち壊していきます。言葉の壁、民族の壁、身分の壁など。
 また病や障害という問題も乗り越えてきました。生まれつき足の不自由な人にペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。するとその人は立ち上がり、歩き出したのです。
 目が見えなくなったパウロはアナニアによって見えるようになり、死んだはずのタビタは生き返りました。
 信仰によってキリストの命が注がれ、人間の抱えるあらゆる問題が解決されていきました。
 この信仰は現実逃避などではなく、現実の問題を解決する力、社会を変える力がありました。

信じる者に伴うしるし

 パウロたちが嵐にあっても全員が無事に上陸でき、蛇に絡みつかれても害を受けず、病気を癒したのも信仰の力でした。
 イエス・キリストは私たちに、全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさいと命じています。そして約束しました。

17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

マルコによる福音書16:17-18

 福音を信じる者にはこのようなしるしが伴います。
 パウロはまさにこの約束の通りになりました。

信仰によって具体的な変化が起こる

 神様の約束は今日も変わりません。福音を信じる者にはしるしが伴います。現実の問題を解決し、社会を変えていきます。
 同じ一つの聖霊が与えられ、キリストの命が私たちの内に注がれているからです。
 必要なものは信仰です。約束を受け取る条件はただ1つ。福音を信じること。私たちの罪のためにイエス・キリストが十字架で死に、復活したと信じることだけです。
 曖昧な信仰ではいけません。確信を持つことが必要です。
 確信するとそれが行動に現れます。
 パンデミックの終息のために何ができるか。今私たちにできることは本当に祈りしかないかもしれません。でも祈りができます。わたしを呼べと言われる神を信頼し祈れます。わたしの名によって祈ることはわたしが叶えると約束したイエスの名によって祈れます。祈りの力を確信し祈るのです。
 私たちのためにすべてを捨てて死なれたイエスの愛を受け取ったなら、私たちはその愛に駆り立てられます。温まりなさい、ごはんを食べなさいと口先で言うのではなく、行いをもって愛するようになります。
 ささげることを惜しむことはありません。独り子をさえ与えてくださった神は、私たちの必要なものを与えないはずがない。だから惜しまず豊かにささげることができます。
 すべてを新しくする福音を確信しましょう。

信じても変わらないこともある

 そうは言っても確信した通りにならないこともあります。毒にやられることもあるし病気が治らないこともあります。
 世界中で祈りがささげられているのにパンデミックは終息するどころか拡大しています。癒しを確信したのに癒されなかったということもあります。目の前にいる生活困窮者に対して、具体的な助けができないということは多くあります。
 信仰の無力さを痛感させられます。

 パウロたちがマルタ島で色々なしるしを行いました。しかしイエス様を証ししたとか誰かが救われたとかいう話は一切出てきません。
 島の住民たちは、人殺しだから蛇にかみ殺されるという因果応報的な考えを持ち、逆に害を受けなければパウロを神扱いするという極端な信仰を持っていました。パウロは彼らのこの偏った信仰を変えることもできませんでした。
 宣教という観点からすると実りがなかったように見えます。

主はすべてを新しくする

 私たちの力ではどうしようもない問題、変えられない問題もあります。
 しかし今は変えられなくても、やがて変わる時が来ます。今はその途上にいます。
 黙示録で主はこう言いました。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

黙示録21:5

 すべてが新しくなる時が来ます。やがて神の国が完成します。これは信頼できる真実な約束です。今はそのゴールに向かっているところです。
 この神の国は、あるかどうかわからない空想ではありません。死んでみないとわからないギャンブルの対象でもありません。既に来ている、現実のものです。
 まだ完成してはいないけれど、イエスを信じる私たちの間に、神の国は来ています。

状況は変わらなくても信じる

ディートリヒ・ボンヘッファー

 ドイツがヒトラーに支配されていた時代、キリスト教会もナチスの影響を強く受けていました。そんな中、ナチスに反対する牧師たちによって告白教会が設立されました。
 告白教会はナチスへの反対運動を行いましたが、状況は変わりません。
 そんな中、告白教会の設立者の1人であるボンヘッファーはヒトラー暗殺未遂事件を起こし逮捕されます。
 牧師なのに暗殺なんて、と思うかもしれません。しかしこの悲惨な世界では、汚れたパンを食べなければならないことがあります。罪を犯さずにはいられません。殺人はもちろん罪です。しかしヒトラーを生かしておけばもっと大変なことが起こる。大きな罪を避けるために小さな罪を選び取るのです。
 ボンヘッファーは処刑の4か月前に恋人に詩を送りました。その詩をもとに作られたのが「善き力にわれ囲まれ」という賛美歌です。

1 善き力にわれかこまれ、守りなぐさめられて、
  世の悩み共にわかち、新しい日を望もう。
2 過ぎた日々の悩み重くなお、のしかかるときも、
  さわぎ立つ心しずめ、みむねにしたがいゆく。
3 たとい主から差し出される杯は苦くても、
  恐れず、感謝をこめて、愛する手から受けよう。
4 輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。
  望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。
5   善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう。
  夜も朝もいつも神はわれらと共にいます。

 ナチスの支配という悲惨な現実は変わりません。ヒトラーは倒せなかった。自分はやがて処刑されるに違いない。その絶望的な状況の中でもボンヘッファーは希望を歌っています。
 私たちを囲む現実も、私たちの信仰ではどうしようもない問題もあります。それでも神は私たちと共にいます。私たちのために十字架で死なれ復活されたキリストが私たちと共にいます。そのキリストの霊が私たちの内に住んでいます。キリストの命が私たちに注がれています。

 神の祝福を受けて私たちはこの世に遣わされていきます。福音には私たちを変え、社会を変える力があります。信じる者にはしるしが伴います。
 状況が変わらなくても、神の国の民として歩み続けていきましょう。

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