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力ある者の誇りは挫ける

エゼキエル書講解10

力ある者の誇りは挫ける

エゼキエル書 7:14-27

14 角笛が吹き鳴らされ、準備がすべて整っても/だれひとり戦いに出る者はない。わたしの怒りが群衆のすべてに及ぶからだ。15 外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。野にいる者は、剣にかけられて死に/町にいる者は、飢えと疫病が滅ぼす。16 たとえ、逃れた者たちが逃れて山に行っても/皆、おのおの自分の罪のゆえに/谷間の鳩のように嘆く。17 手は力なく垂れ/膝は水のように力を失う。18 彼らは粗布を身にまとい、戦慄が彼らを包む。どの顔も恥を表し、髪はみなそり落とされる。19 彼らは銀を外に投げ捨て/金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も/彼らを救うことができないからだ。銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず/腹を満たすこともできない。かえって、それは彼らをつまずかせ罪を犯させた。20 彼らは美しい飾りを驕り高ぶるために用い/憎むべき忌まわしい偶像を造った。それゆえ、わたしはそれを汚れたものとし 21 戦利品として、他国人の手に渡し/分捕物として、地上の悪人たちに与える。彼らはそれを汚す。22 わたしは彼らから顔をそむける。彼らはわたしの宝を汚し/乱暴な者が襲いかかって汚す。23 鎖を用意せよ。この地は流血の罪に満ち/都は不法に満ちているからだ。24 わたしは諸国から悪者どもを来させ/彼らの家を奪い取らせる。わたしは力ある者の誇りを挫く。彼らの聖所は汚される。25 恐怖が臨む。彼らが平和を求めても、どこにもない。26 災いに災いが続き/悪い知らせが相次いで来る。彼らが幻を預言者に求めても得ず/律法は祭司から失われ/助言は長老たちから失われる。27 王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」

本当に頼れるもの

三浦綾子「海嶺・上」(角川文庫)

 今まで頼りにしていたものを失ったり、今までの生き方が通用しなくなったらどうしますか。
 経験したことのない出来事があったり、家を失ったり、サッカーで3点差をつけられたりしたら。
 三浦綾子さんの小説『海嶺』は江戸時代に日本からアメリカへ漂流した3人の漁師の物語です。
 彼らは今までの生活とは全く違う世界に置かれますが、若さ、柔軟さ、持ち前の技能などで適応していきます。
 初めはネイティブ・アメリカンの村に漂着します。それで村長の奴隷にされてしまいます。物として扱われ、鞭を振るわれる毎日を送りました。
 しかし器用な3人は任された仕事をよくこなし、村長に気に入られます。それでも奴隷の身分に変わりありません。村長の弟に妬まれて殺されそうになったり、いけにえにされそうになったりします。
 岩松は日本から持ってきた筆を使い、助けを求める手紙を書きました。誰に助けを求めればいいかわかりません。日本語が読める人がいるはずもありません。それでも手紙を書きました。
 その手紙が様々な人の手に渡り、当時アメリカの貿易を独占していたイギリスのボストン湾会社のマクラフリン博士の手に渡ります。手紙の内容はわからなくても、それが助けを求めるものだということは伝わりました。そして3人は多額の代価を支払って買い取られました。彼らは奴隷としてではなく、客人として扱われました。
 そこで英語を教えてもらうと、みるみるうちに会話ができるようになりました。すると3人は毎週日曜日に行われていた集会の意味も理解するようになります。集会所には十字架が飾られてあり、ジーザス・クライストの話が語られています。クリスチャンの礼拝でした。
 当時日本ではキリスト教は邪悪な教えとされ、信者は死刑にされていました。
 日本という帰るべき国が、3人の心にまだ大きく存在していました。日本を恐れながら聞いた話でしたが、失われた一匹の羊をジーザス・クライストが見捨てず救い出す話は彼らの心に大きな感動を与えました。
 その後3人は船で世界を一周して、マカオまでやってきます。様々な危機を乗り越えてきた3人でしたが、彼らだけの力ではここまで来ることはできませんでした。縁もゆかりもないイギリス人が親切に送り届けてくれました。
 そして3人はモリソン号に乗って日本に向かいました。ところが日本は話を聞くこともなく大砲を打って追い返してしまいます。外国のイギリスは日本人の3人を対等な人間として扱ってくれました。それなのに日本は、日本人を送り届けに来た船を、武力で追い返したのです。
 帰るべき国として心のよりどころにしていましたが、そこから捨てられてしまったわけです。
 もはや何も頼るものが残っていません。しかしそこで岩松は絶対に見捨てない方がいることに気づきます。自分の力でもない。財産でもない。国家でもない。まるで谷底に迷い込んだ何も持たない羊のような自分を、探して救い出す方がいる。かつてアメリカで聞いた話が思い出されました。

今まで頼ってきたものが頼れない

 今日の本文は主が終わりを告げる場面の続きです。今までの生き方は通用しません。角笛を吹いても戦いに出る者がいません。力を失って水のようになってしまいます。金銀も頼れません。神殿も頼れない。人も頼れない。何も頼れるものがない。そこで本当に頼るべき方を知るようになります。今日の本文を通して、私たちの力、主人、頼るべき方である主を知る私たちになることを期待します。

力を失う

 まず今日の本文の14節から18節で『14 角笛が吹き鳴らされ、準備がすべて整っても/だれひとり戦いに出る者はない。わたしの怒りが群衆のすべてに及ぶからだ。15 外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。野にいる者は、剣にかけられて死に/町にいる者は、飢えと疫病が滅ぼす。16 たとえ、逃れた者たちが逃れて山に行っても/皆、おのおの自分の罪のゆえに/谷間の鳩のように嘆く。17 手は力なく垂れ/膝は水のように力を失う。18 彼らは粗布を身にまとい、戦慄が彼らを包む。どの顔も恥を表し、髪はみなそり落とされる。』 とあります。
 私たちの力はどこから来るのでしょうか。

角笛と鳩

ショファーを吹くユダヤ人

 主はエルサレムに終わりが来ると予告します。それはバビロンによる包囲を意味します。戦争です。
 戦争となればただ死ぬのを待つだけではなく、抵抗しなければならないこともあるでしょう。
 イスラエルでは戦争の合図としてラッパや角笛を鳴らしました。ショファールと呼ばれる角笛があります。プオーッという勇ましい音がします。
 今日の本文で主は、角笛が吹き鳴らされても誰一人戦いに出る者はないと言われます。
 なぜでしょうか。主の怒りが群衆の全てに及び、徹底的に滅ぼされるからです。
 戦える者は誰も残っていません。都の外に逃げ出したとしても剣で殺されます。都の中に残っても飢饉と疫病で死んでしまいます。
 人々の中には山に逃れて助かる者もいるかもしれません。鳥のように山に逃れたとしても、それは鷲のような雄々しい姿ではありません。彼らの声は戦いに臨む勇士の声ではありません。谷間の鳩のような悲しげな声です。ポーポーという寂しそうな声です。
 イスラエルの民は自分たちの罪に気付かされ、嘆きの声を上げるのです。
 どのような罪でしょうか。それは自分の力を頼った高慢の罪です。

立てなくなる

 イスラエルの民は力を失います。ひざは水のように力を失うとあります。
 水を立たせることができるでしょうか。噴水のように水の柱を作ることはできます。しかし放たれた水は地面に流れていってしまいます。
 そのように立つ力も失い倒れ伏すしかなくなってしまいます。
 とても戦える状況ではありません。粗布をまとい、灰を被って嘆くしかありません。
 恐怖が臨むとき、私たちはこのように力を失います。
 2011年の東日本大震災の直後、私は学校の職員室にいて、地震の情報収集のためにテレビを見ていました。すると東北地方を襲った大津波の映像がテレビで中継されました。今まで見たことのない恐ろしい映像でした。巨大な津波がまるで生き物のように町を襲い、車を流し、家を流していく。しばらくの間、職員室中の誰もが、立ち上がる力を失い、言葉を発する気力も失ってしまいました。

誰が立たせるか

 私たちの力はどこから来るのでしょうか。
 私たちは自分の力で立っていると思います。
 しかし圧倒的存在の前では私たちに立つ力がないことを悟らされます。
 エゼキエル自身、ケバル川の河畔で主の臨在に出会ったとき、立つことができなくなりました。
 主はエゼキエルに自分の足で立てと命じますが、そのような力は彼の内にはありません。
 そこで主は聖霊を送りました。エゼキエルは聖霊の力により、自分の足で立つことができたのです。
 主こそ私たちの力です。
 バビロンから帰還した民はネヘミヤの時代に城壁を再建し、礼拝をささげました。そこで祭司エズラがモーセの律法を朗読しました。民はそこで自分たちの罪を理解し、悲しみ嘆きました。
 しかしネヘミヤはこのように言います。

彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

ネヘミヤ記8:10

 主を喜ぶことが私たちの力の源です。
 鳩は必死に羽ばたいても、空高く飛ぶことはできません。自分の力で生きていこうとすればいつか力を失い、倒れてしまいます。
 しかし主の力で生きる者は空高く飛ぶ鷲のように、優雅に力強く生きることができます。
 鷲はなぜそのように舞うことができるのか。鷲は羽ばたくのではなく、風にその身を委ねているからです。
 聖霊の風に身を委ねるのです。
 年末は仕事も学校も家庭も忙しいです。その中でも祈りと御言葉で主を喜びとするなら、主の力によって立つことができます。
 主が私たちの力です。

富に支配される

 また今日の本文の19節から22節で『19 彼らは銀を外に投げ捨て/金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も/彼らを救うことができないからだ。銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず/腹を満たすこともできない。かえって、それは彼らをつまずかせ罪を犯させた。20 彼らは美しい飾りを驕り高ぶるために用い/憎むべき忌まわしい偶像を造った。それゆえ、わたしはそれを汚れたものとし 21 戦利品として、他国人の手に渡し/分捕物として、地上の悪人たちに与える。彼らはそれを汚す。22 わたしは彼らから顔をそむける。彼らはわたしの宝を汚し/乱暴な者が襲いかかって汚す。』 とあります。
 私たちの人生の主人は誰でしょうか。

金銀は人を救えない

 私たちを力づけるものの一つに、お金があります。
 どんなに一生懸命働いても報酬が変わらないなら、人は適当に働きます。このことは共産主義の歴史が証明してくれました。お金という報酬があるから、つらい仕事を頑張ろうと思えます。
 運動しようと思っても普段はなかなか実践できません。しかしジムに高い会費を払っていれば、行かないともったいないと思って運動します。
 お金というのは大きな影響力を持っています。
 イスラエルの民にとって財産は祝福の象徴でした。財産が多くある人は神様から祝福をいただいた証拠だと考えました。つまり金銀を多く持っていればその人は神の国に近いという考えです。
 ところが終わりの時にエルサレムの人々は銀を外に投げ捨て、金を汚れた物として扱うと言います。
 どうして困難な時に、力あるものを手放してしまうのでしょうか。
 金や銀に人を救う力はないからです。
 財産が多ければ剣から逃れることができるでしょうか。財産が多ければセキュリティを強化して守ることもできるでしょう。そもそも、なぜ守る必要があるのでしょうか。財産があるから、狙われます。財産がなければ狙われる心配はありません。
 飢饉の時、財産があれば腹を満たすことができるでしょうか。食料があればそれを買って腹を満たせるでしょう。しかしその食料もなくなってしまえばどうでしょうか。いくら金や銀があっても、それは私たちの腹を満たすことはできません。金メダルをかじったマラソン選手がいましたが、金メダルはチョコレートではありません。

金銭の欲は罪の根

 確かに富には力があります。それは私たちを救う力ではありません。私たちを支配する力が富にあります。
 パウロはテモテに、金銭の欲はあらゆる罪の根だと警告しました。

 2017年12月7日に東京の富岡八幡宮で、宮司の女性を弟が日本刀で斬って殺害したとされる事件がありました。
 400年近い歴史がある大きな神社です。宮司は代々富岡家が継いでいました。
 1994年にお父さんが病気になって入院したことをきっかけに、一時は長男の茂永さんが宮司をしていました。しかし問題行動があったため、2001年に茂永さんは宮司を解任され、お父さんが復帰しました。この頃からすでに姉弟間でトラブルがあったようです。2006年には茂永さんはお姉さんに脅迫状を送ったことで逮捕されています。
 2010年にお父さんが高齢のため引退することになりました。後任の宮司になったのはお姉さんでした。正式に宮司に就任したのが今年の9月です。そして今回の事件に至ります。
 容疑者の茂永さんもその場で自殺してしまったので、詳しい動機はわかりません。
 しかし富岡八幡宮の宮司という強い権力を持った立場、富岡家の財産をめぐるお姉さんへの妬みがあったのではないかと思われます。この富の誘惑が殺人へと導き、自らの人生まで破壊してしまったのではないでしょうか。

誰が主人か

 私たちも富に支配される人生になってしまってはいけません。
 イエス・キリストはこのように言いました。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

マタイによる福音書6:24

 富を追い求める人は富を使う人生ではなく、富に使われる人生になってしまいます。
 富によって自らを美しく飾る。高慢に神に背かせる。金の偶像を作らせる。
 そこで主は金銀を戦利品として他国人の手に渡し、分捕り物として悪人の手に渡すと言います。
 富を誰の手に渡すかは主が決めます。
 私たちの手元にある財産も、主が与えてくださったものです。これらは主の栄光のために私たちに委ねられたものです。しかし私たちはこれを罪の道具とし、逆に富に支配された人生を送るようになってしまいます。
 私たちが正しく使わないなら、他の正しく使う人や、あるいはよく使う悪人のところに流してしまうのです。
 これは財産だけの話ではありません。主が与えてくださった恵みをよく用いないなら、その恵みは腐ってしまいます。与えられた恵みはよく分かち合い、主の栄光のために用いるために一時的に管理を委ねられているに過ぎません。
 本当の主人は誰でしょうか。主なる神様が本当の主人です。
 たとえ他の人が自分より豊かに見えたとしても、妬んではいけません。この世では悪人の方が繁栄しているように見えるでしょう。それをうらやんではいけません。その心の隙間をサタンは狙っています。
 私たちの主人は公平な方です。それぞれの必要を充分に満たしてくださる方です。
 よく用いることのできる人には多くのものを任せます。しかしよく管理できず腐らせてしまうような人に、必要以上に与えることはしません。
 富は私たちの主人ではなく、主の栄光のための道具です。
 主が私たちの主人です。

誇りは砕かれる

 最後に今日の本文の23節から27節で『23 鎖を用意せよ。この地は流血の罪に満ち/都は不法に満ちているからだ。24 わたしは諸国から悪者どもを来させ/彼らの家を奪い取らせる。わたしは力ある者の誇りを挫く。彼らの聖所は汚される。25 恐怖が臨む。彼らが平和を求めても、どこにもない。26 災いに災いが続き/悪い知らせが相次いで来る。彼らが幻を預言者に求めても得ず/律法は祭司から失われ/助言は長老たちから失われる。27 王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」』 とあります。
 私たちは何を誇りにしているでしょうか。

イスラエルの誇り

 イスラエルの民が特に頼りにしていたのは、選ばれた民族としての誇りでした。イスラエルは神に選ばれたアブラハムの子孫です。
 エルサレムという名は平和の町という意味があります。ですからエルサレムの平和は揺るがないと思っていました。
 しかもエルサレムには神殿があるのです。神がおられるので、エルサレムが滅びることはない。終わりは来ないと思い込んでいました。
 どんな困難な状況にあっても、預言者を通して主は希望のメッセージを伝えてくれる。
 神に選ばれたイスラエル人には律法がある。割礼がその証拠。割礼のない異邦人とは違うのだ。
 困ったことがあれば、経験豊富な長老たちが助言をくれるだろう。このような目に見える誇り、頼れる人々がいました。
 実際エレミヤに対して人々はこのように言い、警告を侮りました。

『彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」

エレミヤ書18:18

神殿も人も頼れない

 しかし忘れてはいけません。かつてエリが祭司をしていたころ、ペリシテ人との戦争がありました。当時の民は神の箱を頼っていました。イスラエルの陣営に神の箱が到着すると、イスラエル軍はまるで神が味方になったかのように奮い立ちました。ところがイスラエルは大敗し、神の箱はペリシテに奪われてしまいました。
 またかつてモーセは青銅の蛇を作りました。これを見上げれば病が癒されました。これは木にかけられた蛇が民の罪の贖いの象徴となったためです。主が民を愛し、信仰を見て病を癒してくださったのです。青銅の蛇に力があるのではありません。ところがイスラエルの民は青銅の蛇そのものを偶像化してしまいました。そこでヒゼキヤはモーセが作った青銅の蛇を壊しました。
 目に見える何かを頼ってはいけません。神殿そのものに力があるのではありません。
 主ご自身が、終わりが来る、終わりが来ると繰り返し語っています。主は神殿をも破壊しようとしているのです。
 イスラエルの民が誇りとしていたものはことごとく鎖がかけられ、奪い取られていきます。そして神の臨在の象徴であった聖所まで異邦人が入り、神殿は荒らされてしまいます。
 主はエルサレムから平和を奪い取ります。都のどこを探しても平和は見つかりません。
 その時には人も頼りにはなりません。預言者は何を告げるでしょうか。偽預言者たちは平和を告げました。しかしそれは実現しません。
 エレミヤやエゼキエルが伝えた主の御言葉は、徹底的な主の裁きでした。
 それはもはや幻ではなく、現実となります。その時には割礼を受けているからと言って何になるでしょうか。汚れたパンを食べなければならないような状況がやって来ます。神殿も破壊され、もはや儀式は成り立たなくなります。長老も助言ができません。かつて経験したことのない破滅だからです。そして政治的に無力になってしまいます。

契約を守る方

 主は突然心変わりしてエルサレムを滅ぼそうとしているのでしょうか。
 そうではありません。主は法に従ってこの裁きを下すのです。神とイスラエルとの契約通りに、イスラエルの行いに報いるのです。
 それはカナンの地に入る前にモアブで更新された契約です。民は主に従わなければならない。主は民に祝福を約束する。もし違反すれば呪われる。
 申命記28章にある通りのことが今まさに起ころうとしています。主は1つの国民を起こす。それは言葉のわからない民で、鷲のように襲ってくる。
 エゼキエル書において鷲はバビロンの象徴として出てきます。鷲のようなその民は町を包囲し、困窮した民は自分の子供を食べるようになる。そして堅固な城壁も破壊され、世界中に散らされてしまう。
 主だけは変わることなく契約を守り続けました。主は真実な方です。
 『そのとき彼らは私が主であることを知るようになる。』
 主こそが私たちの頼るべき方だと悟らされます。
 目に見えるものを頼ってはいけません。人を頼ってもいけません。宗教的な行いも頼ってはいけません。
 私たちの誇るものがあるとするなら、それは主を知ることだけです。

22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

エレミヤ書9:22-23

 誇る者は主を誇れ。主は私たちの誇りです。

 主は私たちが誇りとするものを挫きます。
 私たちの力は自分にあるのではありません。主こそ私たちの力です。
 富が主人になってしまってはいけません。主こそ私たちの主人です。主こそ私たちの誇りです。
 そのような主を知る私たちになることを願います。

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