十戒11
【第九戒】 言葉に気をつける
出エジプト記 20:16
隣人に関して偽証してはならない。
クレタ人はいつもウソつき?
パウロはクレタ島にいる弟子のテトスに手紙を送りました。その手紙の中でパウロはこういう話を紹介しています。
12 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」13a この言葉は当たっています。
テトスへの手紙1:12-13a
クレタ人はいつもウソつき。これは本当のこと。
ということはこの預言者もクレタ人ですから、ウソをついていることになります。
だったらクレタ人はいつもウソをつくわけではない?
何が本当なのかわからなくなってしまいます。
今日は第八戒「隣人に関して偽証してはならない。」です。
単にウソをつくなと言い換えることもできます。
しかし出エジプト記には偽証、偽りの証言という言葉が使われています。
当時の裁判は人の証言が主な証拠になりました。
もし証人が本当のことを言わないなら、真実が曲げられてしまいます。
権力者が「全く身に覚えがありません」とか「証言を差し控えさせていただく」などと言って犯罪をごまかす。
あるいは弱い立場の人に罪をなすりつけることもできてしまいます。
列王記には北イスラエルの王妃イゼベルが2人のならず者に偽証させる話が出てきます。
ぶどう畑の主人ナボトの家は、神から与えられた土地を先祖代々守ってきました。王の頼みでもゆずれません。
このナボトが神と王を呪ったと証言させたのです。明らかなウソです。
しかし律法によれば、2人の証言があれば死刑にできてしまいます。
神の前でも王の前でも正しく生きたナボトは、石で打ち殺されました。
偽証はこの世界を悪の支配する王国にしてしまいます。
裁判の時だけ気をつければいいわけではありません。
普段の生活から、偽りではなく愛に根差した言葉を語るべきです。
愛に根差して真理を語る
ウソをつかずには生きられない
皆さんの中でウソをついたことがある方は手を上げてください。
今手を上げなかった人もウソつきです。
ウソをついたことがないというウソをついたから。
第九戒は十戒の中で最もストレートに私たちの罪を指摘しているとも言えるかもしれません。
ウソをつかずに生きることはできないのです。
「元気?」と聞かれたら、本当はどこか調子が悪くても「元気だよ」とウソをついてしまいませんか。「花粉症がきつくて辛い」「年をとってから毎日体のどこかが痛い」など正直に話したら相手を心配させてしまいます。
誰かが作ってくれた料理がおいしくなくても「面白い味だね」「へえ、こっちはこういう味噌で味付けするんだ」など言います。
「まずい」など正直に言うと、せっかく作ってくれた人に失礼です。
久しぶりに会った人の体型が変わっていても、正直に言うと相手を傷つけ、場合によってはセクハラで訴えられる。
ウソをつくのは、人をだますためだけではありません。相手への配慮、愛の動機でつくウソもあります。
『隣人に関して』の戒め
第九戒は「隣人に関して」と、これが人との関わりについての戒めであることを明らかにしています。
そして神は私たちに隣人を愛することを求めています。
だから単純にウソをついたらダメとかついてもいいという話ではなく、愛をもって語っているかが問われます。
パウロはこう言っています。
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
エフェソの信徒への手紙4:15
愛に根差して真理を語るのが成熟したクリスチャンです。
本当のことを言う
小さなウソが大きな罪に発展する
愛が動機ならウソは許されるのでしょうか。
たとえ相手を安心させるためだとしても、ウソはできれば避けた方がいいです。小さなウソが大きな罪に発展することもあります。
ある人が一人暮らしを始めました。親には大学に進学するためだと言っています。
しかし実際は大学になど行っていません。親を安心させるためにウソをついたのです。
息子が親元を離れて大学で勉強をしている。親を安心させてあげて、なんて親孝行な息子でしょう。
しかしそんなウソ、いつかバレます。
だから親だけでなく親戚や友人もだまさなければなりません。
しかしとうとう限界が来ました。4年後、卒業の時期です。
もう隠しきれないと思った彼は、家族を殺しました。これでもうウソはバレません。
アメリカで実際にあった事件です。
最初は親に心配をかけないようについた小さなウソだったかもしれません。
それが4年後には殺人という大きな罪にまで膨れ上がってしまいました。
偽りに基づく悪魔の王国で本当のことを隠す
相手を安心させるためだと言いながらも、ウソをつく人の心には自己中心的な思いがあります。自分を守りたいのです。
本当のことを言ったら嫌われるのではないか。
笑われるのではないか。
どうせ聞いてもらえず惨めな思いになるだけだ。
あるいは相手をだまして自分が利益を得たい。
そうして本当のことを隠します。
しかしすべては神の目に明らかで、隠されていたものはいつか明るみに出されます。
イエス様は人の心に何があるかよく知っています。
そしてイエス様を信じない人たちについてこう言っています。
あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
ヨハネによる福音書8:44
悪魔は偽り者の父である。そしてあなたたちは偽り者の子である。
だからイエス・キリストの真理の言葉が聞こえないのだと。
人は悪魔のウソにそそのかされて罪を犯しました。
今この世界は悪魔の支配下にあります。
私たちは本当に愛を動機として語っているのでしょうか。
偽りに基づく悪魔の王国の側につき、ウソを正当化してしまっていないでしょうか。
本当のことを言える安心感
私たちが本当のことを言えない背景には、恐れがあるかもしれません。
本当のことを言っても大丈夫だという安心感がないのです。
「本当のことを言いなさい!」と怒られたら本当のことを言えません。
皆さんも本当のことを言えない雰囲気を作ってしまっていませんか?
ある国の男女の工作員が隣の国の飛行機を空中で爆破するというテロ事件がありました。
その工作員たちはパスポートを偽造し、日本人の親子になりすましていました。
あらゆる拷問に耐え、秘密をバラさないように訓練を受けています。
逮捕されたとき、彼らは毒を飲んで自殺を図りました。
男性は死亡しましたが、女性は生き残りました。
彼女は敵対していた隣国に引き渡され、取り調べを受けます。
決して本当のことを言わないように訓練を受けていましたが、彼女は秘密をバラしてしまいます。
それは本当のことを言え!と拷問されたからではありません。
隣国の豊かな様子を見て本国かウソをついていたことを知り、国民が公共の場で政府の批判をする自由に触れ、温かく人間的な扱いを受けたからでした。
この人には言っても大丈夫だという安心感がある関係なら、私たちは本当のことを言えます。
愛に基づく神の国で本当のことを言える
イエス様は私たちの心を知っています。
それを知った上で愛してくださっています。
イエス様は私たちを愛に基づく神の国へと招きます。
私たちはイエス様の前では何も隠すことなく、本当のことを打ち明けていいのです。
そして真理の霊を受けた私たちは、恐れず本当のことを言えるようになります。
真理を証しする
舌は不義の世界
愛をもって語ろうとするとき、私たちはこの舌を制御しなければなりません。
何を言うべきか。それをどう伝えるべきか。また何を言うべきでないか。
人間の体には口が1つ。耳は2倍の2つあります。
それなのに口の方が耳の2倍3倍多くついているかのようによくしゃべる人もいます。
ヤコブの手紙にはこうあります。
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
ヤコブの手紙3:6
舌は不義の世界。これを制御できる人はいません。
余計な一言、軽はずみな冗談が人を深く傷つけ、自分の立場を失わせ、時に誰かの命を奪います。
この舌は人のうわさ話が大好物です。
また私たちは自分をより立派に見せようと、大きなことを言ってしまいます。
他の人の悪口を言うことで、自分をより正しく見せようとしてしまうこともあります。
ペトロは「たとえ死ぬことになっても、あなたのことを知らないなどと決して言いません。」と力強く断言しました。
その数時間後に「あんな男は知らない。」と言ってしまいます。
偽りの裁判の中でただ真理を証ししたイエス
ただ一人、舌を完全に制御した方。それはイエス・キリストです。何を言うべきか、言うべきでないかを知っています。
イエス様が裁判にかけられたとき、何人もの人が偽証しました。第九戒への違反であり、明らかな罪です。
イエス様は自分を弁護できました。しかし何も言いません。
ただ大祭司から「お前はメシアか」と聞かれた時は「そうです」と答えました。そして神を冒涜したとして死刑判決を受けます。
自分を守ろうと語ることなく、ただ真理を証ししています。
心にあるままを打ち明ける
イエス様は本当のことを言いました。それは自分について何も言わなかったということではなく、むしろ自分の正直な思いを表現しています。
怒るべき時は怒りました。悲しい時は涙を流しました。嫌なことは嫌だと言いました。
福音書の中にイエス様が笑ったという記述はありません。イエス様は笑わなかったのでしょうか?
むしろ逆に、書く必要がないほどいつも笑顔だったのではないでしょうか。素直に喜びを表現していたからこそ、罪人の友となり大酒飲みの大食漢だと笑われたのでしょう。
そのイエス様が十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫んだことは衝撃だったでしょう。
イエス様は神から離れた罪人の叫びを代弁しています。
私たちは神に正直な思いを話すことができます。
君は神様にね、話したことあるかい?心にあるままを打ち明けて。
そして私たちは天の神様が私たちの思いを受け取ってくださることを知ります。
この口で神を賛美する
イエス様の叫びは詩編22編からの引用です。この詩の中で神様は賛美の中に住むと言われています。
心を打ち明けて神の前に進み出る時、私たちのこの口は清められます。そして神への賛美が出てきます。
神様が私たちに口を与えたのはウソをつくためではありません。愛に根差して真理を語るためです。
自分を大きく見せるためではなく、神をたたえるためです。
人を傷つける言葉ではなく、人を造り上げるのに役に立つ言葉を語るためです。
見張りの務め
私たちには語るべき言葉があります。
人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。
エゼキエル書33:7
神の言葉を聞いた私たちは、それを伝える責任があります。
私たちが伝えるべきこと、それはイエス・キリストの福音です。
罪を語るだけでなく、十字架の死と復活による赦しを伝えるのです。
聖霊の力を受け、イエスの愛を地の果てまで語るのです。
その時、ここに愛に基づく神の国が広がっていきます。
私たちはキリストの証人です。