十戒12
神により心を満たす
出エジプト記 20:17
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
心の問題に触れる
今日は十戒の第十戒「隣人の家を欲してはならない。」むさぼるなという戒めです。
むさぼるというのは、飽きることなく欲しがることです。欲しがるという心の問題を扱う戒めになります。
日本の法律では心まで取り締まることはできません。誰かを殺したいと思っても、みだらな思いを抱いても、人の物を欲しがっても、犯罪にはならないです。
しかし神様は十戒の最後に、心の問題に触れます。
それは人の心に悪の根があるからです。
そして人間の力では解決できなくても、神様には人の心まで変えることができるからです。
心から新しくされる
むさぼる心から他の罪が出てくる
第一戒の時に話したことですが、人間は唯一の神を捨てました。
その結果、人間の心には神にしか埋められない空白ができています。
それを埋められるものを探し求めますが、いつまでも満足することはありません。
そしてむさぼることになります。
富や財産を得ることを求めれば、盗んででも得ようとします。
情欲を満たすことを求めれば、姦淫します。
人から認められることを求めれば、ウソをついてしまいます。
また欲したものが得られないと争い戦い、人を殺します。
むさぼりから、殺し、姦淫、盗み、偽証という他の罪が出てきます。
イエス様はこう言いました。
21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
マルコによる福音書7:21-23
手を洗うとか食べ物のルールとか律法の行いを守っても、人間の心から出てくる悪い思いが人を汚します。
この心に悪の根があるのです。
悪はカビのように根を張っており、人間の力で取り除くことはできません。
医者でも心にメスを入れることはできません。
しかし神は人間の心を知り尽くしています。私たちの心がとらえ難く病んでいることを知っています。
そして神の言葉は生きており、私たちの心を刺し通し、思いや考えを見分けます。
心から新しく造られた
聖書には、家の中にカビが生えたら、その部分の石材と周りのしっくいをはがして捨てなさいと命じられています。
カビの生えた石材の代わりに、新しい石材を入れる必要があります。
悪の根を張った私たちの心をきれいにするには、古い心を捨て、新しくされなければなりません。
パウロはガラテヤの信徒への手紙5章で、イエス・キリストを信じる人は欲情や欲望を十字架につけたのだと言います。
そうです。イエス・キリストは私たちのこの心の問題のためにも十字架で死なれました。
そして復活の主と共に、私たちは心から新しく造られた人になったのです。
霊の欲に従う
とはいえ相変わらず私たちは肉の欲に従ってしまうことがあります。
何も変わっていないのではないかと葛藤します。
本当に何も変わっていないのでしょうか。
いいえ、葛藤が生じること自体が、信仰の成長の証しです。
イエス様を信じる前は、むさぼることが悪いなどと考えもしなかったでしょう。
イエス様を信じた今、私たちの心には聖霊が住んでいます。そして人間の心が欲することと聖霊が欲することが対立します。
聖霊の欲することに従っていこうとするとき、私たちのこの心は変えられていきます。
御言葉のメスが入り、汚れた心は取り除かれ、新しくされます。
そして霊の実を結んでいくのです。
22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5:22-23
神の愛を受け取る
満たされればむさぼらない
子どもが親の関心を引こうとしていたずらをしてしまうことがあります。
いたずらをしてはダメだと叱っても聞きません。
親の愛を感じられたら、いたずらをやめます。
むさぼらないようにするために必要なことは満たされることです。
自分に与えられているものに目を向ける
他の人より満たされるということではありません。
隣の芝は青いと言います。他の人と比べるなら、自分に足りないもの、欠けているものが気になってしまいます。もっとむさぼる心がわいてきます。
逆に自分に与えられているものに注目してください。
隣の庭のようにきれいな芝生が生えていなくても、きれいな花が咲いているかもしれません。
自分にないものや失ったものではなく、自分にあるもの、与えられているものに注目するのです。
たった5つのパンと2匹の魚しかないと嘆くのではなく、それが与えられていることに感謝してください。
天のお父さんは私たち一人一人の必要を知っておられ、それを十分に満たしてくださいます。
特にこの心の空白を満たす神の愛が、既に注がれていることを忘れないでください。
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
ヘブライ人への手紙13:5
自ら唯一の神を捨てた私たちを、神は決して見捨てない。
失われた一匹の羊を見つけるまで諦めず探して救う神です。
私たちの心も含めたすべてを癒し救うために、神は死なれました。
そして死の力を破って復活し、今も生きておられ、世の終わりまでいつも共にいます。
この神の愛を受け取るとき、他に何が必要でしょう。
キリストには代えられません。世の宝もまた富も。世の快楽も人からの称賛もこの心を引きません。キリストの愛で心が満たされているからです。
与えられている祝福に感謝し生活の向上を目指す
ヘブライ人への手紙では、今持っているもので満足しなさいと勧められています。
それは妬みや不満でむさぼらないようにしなさいということです。
第八戒で見たように、生活を向上させるための努力は必要です。
それも神から与えられた祝福に感謝するところから出るものでした。
神から任された仕事に励み、与えられた恵みを分かち合う。そうして世界が豊かになっていきます。
神の愛で心満たされ神の民として生きる
隣人が敵となる社会
第十戒は「隣人の家を欲してはならない。」と言います。これは隣の人の物に目を向けるところから始まります。
隣の人と比較をしないというのは難しいです。私たちは競争社会の中で生きています。
子どもの時から競争し、順位がつけられます。試合に出るために、受験で合格するために、他の人よりいい成績を出さなければなりません。
周りの人は敵です。
だから他の人が成功した話を聞くと妬みが生じます。
そして他人の不幸は蜜のように甘く、笑いを隠すのに必死です。
隣人は友
私たちの周りにいる人は本当に敵なのでしょうか。
イエス様は友のために命を捨てると言われました。
しかしイエス様は罪人のために殺されました。友と呼べるような人は一人もおらず、皆イエス様を捨てて逃げ去りました。
それでもイエス様は、友と呼んでくださるのです。敵であった私たちを愛し赦し、友と呼んでくださいます。
神の国には敵などおらず、みな友なのです。
神の民とされた私たちは、周りにいる人を限られたイスを奪い合う敵ではなく、互いに高め合う友だと思うことができます。
愛は律法を全うする
神の国には尽きることのない祝福があります。どんなに分かち合っても、自分の分がなくなるということはありません。もう誰とも比べることも、他人を蹴落とすこともありません。
だから他の人の幸せを素直に喜ぶことができます。
誰かが悲しんでいるなら、共に泣きます。
こうして喜びを共有することで、喜びは倍増していきます。
悲しみを分け合うことで、悲しみは半減していきます。
神の愛を受け取り、私たちは喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者になります。
私たちは共に一つの体だからです。
こうして自分を愛するように隣人を愛することができます。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
コリントの信徒への手紙一12:26-27
神の愛で心を満たしてください。
神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する人になります。
愛は隣人に悪を行いません。
だから、愛は律法を全うするものです。