命に留まる旅路

使徒言行録講解71

命に留まる旅路

使徒言行録27:33-44

33 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。34 だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」35 こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。36 そこで、一同も元気づいて食事をした。37 船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。38 十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。39 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。40 そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。41 ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。42 兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、43 百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、44 残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

ベースキャンプが必要

 2020年も11月末になりました。今週はもう12月に入ります。
 月日は止まってくれず、あっという間に過ぎ去っていきます。
 「月日は百代の過客にして…」と松尾芭蕉は歌いました。時間は旅人のように来ては去っていきます。
 私たちの人生も旅のようなものです。この地上に生まれ、いつかは去っていきます。
 どこに向かう旅でしょうか。わかりません。どこに向かえばいいのか、そもそもなぜ旅をしなければいけないのかもわからずにさまよっています。
 今年は特に、今まで守ってきたものを当然失い、どうすればいいのかわらないことだらけです。誰もが先の見えない闇の中をさまよっているような状況です。
 闇の中をさまようとどうなるでしょう。間違った道に足を踏み入れ、危険な目にあうかもしれません。間違った声に惑わされ、罠に陥るかもしれません。

ロバート・エドウィン・ピアリー

 北極点に最初に到達した探検家のピアリーは、極地法という冒険の手法を考案しました。
 これは安全な場所にベースキャンプを設営し、それから前進基地を設営しながら、目的地に到達するという方法です。
 安全なベースキャンプがあるから、必要なものを補給しながら探検ができます。
 私たちの人生という旅路も、ベースキャンプが必要です。

パウロたち難破する

 今日の本文はパウロたちを乗せた船が難破して上陸する場面です。
 希望の見えない漂流は14日の夜になりました。
 船員たちはどこかの陸地に近づいていることを感じました。水深を測ってみると、徐々に浅くなってきています。
 暗い内に進んで暗礁に乗り上げるといけないので、錨を下ろして夜明けを待つことにしました。
 ところが錨を下ろすと見せかけて小舟を下ろす船員がいました。先に逃げ出そうとしたのかもしれません。
 パウロは百人隊長に伝え、逃亡を止めさせました。
 そして夜が明けかけたころ、パウロは船にいた人たちを「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」と言って励まし、食事をさせます。
 朝になって砂浜のある入り江を見つけました。ところがあと少しのところで浅瀬に乗り上げてしまい、波で船が壊れだしました。
 それで泳いで上陸することになりました。
 上陸するときにどさくさに紛れて囚人たちが逃げてしまうかもしれません。そうすると兵士たちは責任を取らなければなりません。
 兵士たちは囚人たちを殺そうとしましたが、これも百人隊長が止めさせました。
 こうして全員が無事に上陸することができました。

嵐の中でも平安を保つ

 嵐という混乱した状況の中、船員たちは冷静な判断を失っています。
 今日の本文には入れませんでしたが、船員たちは夜中に小舟で逃げようとしました。14日も漂流していたので、早く陸に上がりたかったのでしょうか。
 しかし陸地も見えない夜の闇の中で、小舟で上陸しようとするのは無謀すぎます。

ロビンソン・クルーソー

 デフォーの小説「ロビンソン・クルーソー」でも船が座礁した時、小舟に乗って上陸しようとしました。しかし波にのまれてしまい、ただロビンソン・クルーソーだけが生き残りました。
 その後も船は沈没することなく残っていて、船と島の間を泳いで渡ることも可能でした。
 もう少し忍耐していれば、他の船員たちも助かったわけです。

 船員たちの心には恐れがありました。
 囚人たちを殺そうという兵士たちの計画も、恐れから来たものでしょう。
 そんな中でパウロの言葉には平安があります。
 それは主の約束があるからです。パウロには使命があります。パウロのゆえに、一緒に船に乗っている人たちは守られます。船は失っても、276人全員の命は失われません。
 この確信があるので、どんな状況でも平安を保つことができます。

髪の毛一本もなくなることはない

 「髪の毛一本もなくなることはない」これはイエス様の言葉です。

17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

ルカによる福音書21:17-19

 終わりの時、私たちはただクリスチャンだというだけの理由で憎まれる。しかし私が守る。だから忍耐しなさい。そのようにイエス様が語っています。

揺るがないベースキャンプ

 もし実際にクリスチャンだというだけの理由で憎まれたらどうですか?
 クリスチャンめ、お前とは仕事しないぞ!
 お前アーメンかよ、もうお前と遊ぶのやめるわ。
 お前が耶蘇を信じるなら勘当だ、うちから出て行け!
 怖いですね。そんなこと言われたくありません。自分がクリスチャンだということがバレたら大変なことになります。
 それで自分の信仰を隠そうとしたり、恥ずかしく思ったりすることがあるかもしれません。
 しかし実際どうですか?そんなこと言われたことありますか?
 昔は確かにそういう時代がありました。今でもクリスチャンだとバレたら危険な目にあう国もあります。
 現代の日本ではどうでしょう。私たちは恐れにとらわれ、勝手な妄想を抱いているだけかもしれません。

 先日、牧師をしている友人が興味深い話をしてくれました。
 「今の人たちは、宗教というのを一つの価値観として見ている」と。
 何かを信じているということが、肯定的に受け止められているわけです。
 多くの人が生きる指針を見失い、闇をさまよっています。その中で確固とした信念を持っている人は確かに魅力的でしょう。
 信念には色々な種類があります。
 特に私たちクリスチャンの信念は、イエス・キリストという昨日も今日も永遠に変わることのないお方に基づいています。どんな環境や状況でも揺るがない信念です。
 このベースキャンプにつながっているので、私たちは命に満ちあふれた人生を歩むことができます。どれほど魅力的でしょうか。
 私自身、クリスチャンでない友人から、信仰があるっていいな、と言われました。
 時にはクリスチャンだという理由で憎まれることもあるでしょう。
 それでも主が守ります。私たちはこの世の人々を恐れる必要はありません。

29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

マタイによる福音書10:29-31

 一羽の雀さえ父なる神に守られ生かされている。地に落ちる時も、父のお許しがあってのこと。
 それならば私たち人間はなおさら、神に守られています。
 私たちは生きる時も、また死の時でさえも、主の配慮から漏れることはありません。
 主に留まり、クリスチャンとして歩んでいきましょう。

主を指し示すパウロの生きざま

 パウロには、船は失っても命は失われないという確信がありました。しかしそれがどのように実現するかまではわかっていなかったと思います。
 いつになるかもわからなかったでしょう。パウロがこの約束をいつ受け取ってから10日以上経ちました。その間、食事もできないような状況がずっと続いていたわけです。
 どうでしょう。先が見えない状況で約束をずっと待ち続けられますか?
 パウロは10日以上も希望を持ち続けました。
 この希望はパウロだけを力づけたのではありません。パウロは食事をさせました。パウロの励ましを聞いた人たちは元気づけられ、14日ぶりに食事をしました。感謝の祈りまでしていますね。
 ここで十分に食べたので、陸地まで泳ぐ力が湧いてきたかもしれません。14日間も断食して海を泳ぐのは危険ですよね。
 また、囚人を殺そうという計画を百人隊長が止めさせたのは、パウロを助けたかったからでした。
 彼はパウロの説教を聞いたことはありません。しかし囚人として船に乗せられたこの男を見て、百人隊長は心を動かされたわけです。
 それは信仰に生きる正しい人の生きざまを見せられたからでしょう。

この人を見よ

 イエス様が十字架につけられた場面を見て、心を動かされた百人隊長もいました。

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

マルコによる福音書15:39

 この百人隊長も十字架につけられたイエスしか知りません。それでもイエス様の前に立つとき、イエスが主であるとわかります。
 今はもうこの地上にイエス様はいません。
 しかし私たちがイエス様を指し示すことはできます。「この人を見よ」と。
 先が見えない状況でも主を信頼する。互いに愛し合う。私たちの生きざまを通して、イエス様の愛を表していくのです。

私たちは前進基地

 イエス・キリストが私たちのベースキャンプです。私たちはそこから派遣された前進基地です。
 長い冬が続き、吹雪が吹きすさぶ極地を目指して探検しています。
 生きる希望を失う人々に、命であるイエス・キリストを届けるために。

 今日からアドベントです。イエス様を待ち望む期間です。
 福音を待ち望んでいる人たちが多くいます。
 私たちは今日、イエス・キリストというベースキャンプで恵みを補給しました。そしてそれぞれの前進基地へと遣わされていきます。
 私たちのクリスチャンとしての生き方の中で、「この人を見よ」とイエス・キリストを指し示していくのです。
 イエス・キリストは復活であり命です。
 福音を必要とする人々に、キリストにある命を届けていきましょう。

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