愛がなければ

創立14周年感謝礼拝

愛がなければ

コリントの信徒への手紙一13:1-13

1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

困難の中で迎えた14周年

 ヨハン浜松キリスト教会は今年で14年になりました。
 2006年にオムソンイル牧師、コンオンジン伝道師夫妻によって伝道が開始され、2008年に現在の会堂が与えられました。
 2015年に牧師の異動があり、私たち夫婦が派遣されてきました。
 今日は創立14周年感謝礼拝としてささげられることを感謝します。
 すべては主の恵みであると共に、ひとつの体とされた兄弟姉妹の皆さんの働きで今日まで守られてきました。
 コンサートを予定していたのですが、コロナウイルスの影響で中止していました。せっかくのお祝いですが、食事も自粛しています。
 代わりにマグカップを作りました。
 教会員で、どんな記念品がいいかアンケートを取ったり投票したりしました。皆で作った記念品です。
 これを受け取った一人一人に、神様の愛が伝えられることを期待しています。

 そもそもなぜ浜松で新しい教会を始めたのでしょうか。浜松に縁もゆかりもない宣教師が、何の基盤もないところから伝道を始めました。
 教会が始まり、毎週集まって礼拝がささげられてきたのはなぜでしょうか。コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が出ても、オンラインで礼拝をささげてきました。なぜわざわざそこまでしたのか。
 この状況でも14周年をお祝いするのはなぜか。費用と手間をかけてマグカップを作ったのは何のためか。
 教会がそうしろと言ったから仕方なくやりました、というわけではないでしょう。
 何かの動機に駆り立てられて礼拝や伝道が行われてきたのではないでしょうか。
 その何かがないとしたら、まるで教会に洗脳されているかのようです。もしそうなら、そんな礼拝や伝道は何の意味もありません。

愛がなければ意味がない

 今日の本文は聖書の中で愛の章とか愛の賛歌とか言われる有名な箇所です。パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中にあります。
 コリント教会の兄弟姉妹は神様からの賜物を豊かに持っていました。しかしその賜物の使い道を間違っていました。
 パウロは言います。たとえ異言で祈ることができても、愛がなければ騒音だ。
 どんな知識があっても、立派な信仰があっても、愛がなければ役に立たない。
 全財産や、命さえささげても、愛がなければ意味がない。

 宣教師が浜松で伝道を始めたのも、私たちが毎週礼拝をささげるのも、14周年を準備して祝うのも、神様への愛、隣人への愛に駆り立てられているからでしょう。
 愛がなければ、美しい賛美もおいしい食事も空しいです。美しい賛美が聞きたいならYouTubeで流せばいいですよ。おいしい食事が食べたければ、レストランに行くのもいいしUber Eatsに注文すればいいです。
 記念品はクオカード500円でもいいじゃん。
 愛がなければ、毎週礼拝ささげるのも空しくなります。お客さんのように教会に来て、欲しいものだけ受け取って帰る。神様は知識では知っていても、出会えません。
 愛がなければ、伝道も空しいです。苦労して見知らぬ人に声をかけ、教えたり助けたりする。でもほとんどの人は去っていく。それを続けるなんて愚かなことです。
 愛がなければ、私たちの人生は無駄ばかりです。
 皆さんの人生に愛はありますか?

愛とは

 愛とは何でしょうか。
 ものの本によれば、愛とは「親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち」だそうです。
 親子、兄弟という条件がつきます。しかし親子や兄弟を皆愛せるかというとそうではありません。憎しみ、傷つけ、命を奪うこともあります。
 生き物に対しても、ワンちゃんやネコちゃんはかわいがるけど、蚊とかゴキブリとかは存在自体許せないという人もいるでしょう。
 教会にまたツバメちゃんが来てくれました。ツバメちゃんはかわいい。しかし同じ鳥でも、カラスやムクドリは追い出す。
 このように見てみると、愛というのが人間の自然な感情ではないことがわかってきます。

 愛とは何か。
 パウロはその性質を紹介します。
 まず前提として「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」と言います。
 そして8つの否定の言葉「ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず」さらに5つの肯定の言葉「真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」を挙げています。
 親が子を愛すると言うとき、子を所有物のように扱ってしまうことがあります。保護しすぎたり、親が用意したレールの上を走らせたり。それは親が自分の利益を求めているのかもしれないし、忍んだり信じたりできないからかもしれません。
 生き物を愛すると言うときにも、その生き物が自分の心を癒してくれるとか、害虫を食べてくれるとか、自分の利益になるから愛するというのが大きいのではないでしょうか。
 パウロが紹介する愛は、私たちの考える愛とは違っているようです。
 皆さんはどうですか?自分の中にこのような愛がありますか?忍耐できないことはあるでしょう。いらだつでしょう。恨みを抱くでしょう。
 誰もが、私には愛がなかったのだと気付かされると思います。
 そう、愛がなければ私たちの人生は無駄ばかりだと言いましたが、私たちはその愛のない人生を歩んでいるわけです。

神は愛です

 では人間の中にない愛を、パウロはなぜ紹介することができたのでしょうか?
 パウロの考えた空想の愛なのでしょうか?
 いいえ、これは啓示です。神から来る愛です。
 ヨハネは言います。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

ヨハネの手紙一4:7

 愛は神から出ている。それは愛が神の一部分というよりむしろ、神の性質そのものです。
 神は愛です。
 ここでパウロの紹介した愛を、神に置き換えて読んでみてください。納得いくでしょう。
 いや、神はねたむ神って言ってたじゃんと思う方もいるかもしれません。
 そういうときはイエスに置き換えて読んでみてください。イエス様が本当に愛のお方だとわかるでしょう。
 愛は神の性質ですから、創造も摂理も愛に基づいています。
 神は天地創造の前から私たちを愛していました。天地万物はとてもよいものとして造られました。愛の結晶です。
 その中の最高傑作品が、私です。もちろん、あなたもです。
 私たちは神に背きますが、神の愛は変わることがありません。愛は絶えることがないのです。
 神は血の中でもがく私たちに生きよ、生きよと呼びかけています。
 私たちが神を忘れても、私たちの名は神の手のひらに刻まれており、決して忘れ去られることはありません。
 そして神は、その独り子をお与えになったほどに、私たちを愛しています。
 私たちを罪から救い、永遠の命を与えるためにイエス・キリストは十字架で死なれ、復活しました。
 ここに愛があります。
 神は愛です。

愛する力が注がれている

 この愛をもって私たちも愛し合えたらいいですね。
 イエス様も互いに愛し合いなさいと命じました。
 でも私たちの内に愛はありません。愛し合うなんて、無理じゃん。
 イエス様は私たちにできないことをさせることはしません。愛し合いなさいと命じただけでなく、愛の模範を示し、愛する力さえも与えます。
 聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのです。
 私たちはまだ神様のことを部分的にしか理解していません。
 しかし神の国が完成するとき、私たちは完全に愛に生きる者になります。
 その信仰・希望を持ってイエス様に出会っていく中で、愛は成長していきます。

三浦綾子「続・氷点(下)」
(角川書店)

 三浦綾子さんの小説「続・氷点」の最後にこのような場面があります。
 主人公の陽子は、自分を産んで捨てた恵子と再会したとき、恵子から「陽子さん、ゆるして…」と声をかけられますが、黙って立ち去りました。
 網走の流氷を見ながら、自分の心の中に冷たさがあるのに気付きます。自分の中に原罪という名の醜さがひそんでいることを理解しました。
 そしてこの罪を赦す権威、愛する意志を求めます。
 そのとき雲の切れ間から夕陽が射し、流氷を紅く染めました。
 それはまるで血を滴らせたような真紅でした。
 その紅の色が右から左へと増えていき、火焔のようにめらめらと燃え始めました。
 (流氷が!流氷が燃える!)
 この圧倒的な自然の前に陽子は神の実在を感じ、キリストの十字架の血潮をその目で見たように感じました。
 この感動を家族や恋人に伝えたいと思いました。
 しかしその前にしなければならないことがありました。
 そして産みの母、恵子に電話をかけるのです。

 私たちは愛のない者です。愛のない人生を歩んできました。
 この私たちに対する愛が、キリストの十字架と復活によって示されています。
 神の愛による罪の赦しを受け取るとき、私たちも誰かを赦すことができるようになります。
 愛に生きることができるようになります。
 自分の利益ばかりを求める生き方から、他の人々の益のために仕えることができるようになります。
 早く早く生きる効率的な生き方ではなく、意味のある遠回りをする愚かな生き方を受け入れられます。
 恨み憎しみを手放し、赦し愛する人生に変えられていきます。
 神の愛は、自分の人生を傷つけた敵のような人をも愛する力があります。
 信仰と希望と愛はいつまでも残ります。その中で最も大きな愛を追い求めていきたいです。
 来年は15周年。これからも神の愛に生きていきましょう。

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