我らの罪を赦したまえ

主の祈り7

我らの罪を赦したまえ

詩編51:14

御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。

赦しを求める祈り

 主の祈りの5つ目の願いは、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。罪の赦しを求める祈りです。
 第4の願いではこの世のよいものを求めました。
 たとえ仕事も家庭も健康も祝福に満たされているとしても、罪の赦しを確信できないなら本当の平安はありません。
 罪とは、神から離れている状態や神様の律法から外れた行いです。
 私たち人間は誰でも、生まれたときから罪の中にいます。律法に完全に従うことができる人は誰もいません。
 正義の神は罪を放っておくことがありません。やがてイエス様が帰って来る時、罪の中にあるものはすべて滅ぼされるのです。
 なんと恐ろしいことでしょうか。
 しかし神が願っているのは私たちが滅びることではなく、立ち返って生きることです。
 だから私たちは神様に赦していただく必要があります。そして赦しを受け取り、赦された確信を持って生きる必要があります。

人には罪を償う力がない

 イエス様は罪の問題を、借金にたとえました。
 ある王様が、家来たちに貸したお金の決済をしようとしました。家来の一人は、王様に6000億円の借金をしていました。どんなに努力しても返済できない金額です。家来は返済することができませんでしたが、王様は憐れに思い、借金を帳消しにしました。
 王様が神様で、6000億円の借金をしているのは私たちです。私たちには、神様に対する罪を償う力がありません。だから神の赦しを得ようとするなら、神様から一方的に赦していただくしかありません。

ただキリストの十字架によって

 旧約時代には贖罪のささげ物の規定がありました。人の罪の代わりに、動物が血を流すという儀式です。
 しかし人間の罪を動物が背負うことはできません。
 そこでイエス様が来てくださいました。
 洗礼者ヨハネはイエス様を見て、「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。罪なき神の独り子であるイエス様が十字架で血を流し死なれました。

23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

ローマの信徒への手紙3:23-24

 だからイエス様を信じることで、神様の赦しを受け取ることができます。

愛されている子どもとして赦しを受け取る

 私たちはただ十字架の恵みにより、罪を赦されました。罪の奴隷の状態からあがなわれ、神の子どもになりました。
 そうであれば、罪を赦してくださいと祈る必要はないということでしょうか。
 しかし現実には、私たちは繰り返し罪を犯します。
 私たちの身分は既に神の子ですが、まだ成長の途中です。
 子どもは成長して行く上で、たくさんの失敗をします。しかしどんなに未熟な子どもだとしても、親は子どもを愛し続けるでしょう。子どもが反抗して家を出てしまったとしても、親子の関係は切れません。そして子どもが帰って来ることを親は待ち続けます。
 そのように、繰り返し罪を犯してしまう足りない者が、神にありのままで受け入れられています。
 どんな失敗を犯し、もう神の前に立てない、兄弟姉妹に会わせる顔がないと思うようなときも、神の子という身分は変わりません。
 だから安心して神様のところに帰ることができます。
 「赦してください、勘弁してください」と、正義の神を恐れて赦しを懇願するのではありません。
 「お父さんごめんなさい。こんな失敗をしてしまいました」と、愛されている神の子として赦しを受け取るのです。

神の赦しを受け取っているか

 「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」というのは、自分が人を赦したから私も赦してくださいという取引ではありません。
 神に赦された私たちには、赦す力が与えられています。
 6000億円を帳消しにされた家来は、自分に100万円の借金をしている家来を赦しませんでした。それを王様は怒ります。

わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

マタイによる福音書18:33

 私たちはイエス様の十字架の恵みで赦しを受け取りました。
 それなのに私たちが人の罪を赦すことができないなら、本当に十字架の恵みを受け取っていると言えるでしょうか。

罪の大きさ、恵みの豊かさを知り、赦す自由を得る

 神の赦しは事実です。
 しかしその事実の一部しか受け取っていないかもしれません。
 自分が6000億円の借金をしていたとは思わず、自分も100万円の借金しかしていないと思い込んでいるかもしれません。
 自分の罪にもだえ、どれほどの罪を赦していただいたのか、イエス様の十字架の恵みがどれほど豊かなのかに打ちのめされる必要があります。
 ダビデ王はバト・シェバとの姦淫の罪を指摘されたとき、神に対して犯した罪の大きさに打ちのめされました。そして心から悔い改めました。ダビデは神の赦しを受け取り、救いの喜びを再び味わいました。
 赦された者は自由の霊によって、赦す自由、敵をも愛する自由の中に生きることができるのです。
 赦しを祈り、赦された者として生きていきましょう。

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