エゼキエル書講解30
行いではなく主の名のゆえに
エゼキエル書 20:32-44
32 お前たちは、『我々は諸国民のように、また、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう』と言っているが、お前たちが心に思うそのようなことは決して実現しない。33 わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは必ず、強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、お前たちを治める。34 強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、わたしはお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める。35 わたしはお前たちを、諸国の民の荒れ野に導き、顔と顔を合わせてお前たちを裁く。36 お前たちの父祖をエジプトの国の荒れ野で裁いたように裁く、と主なる神は言われる。37 わたしは、お前たちを牧者の杖の下を通らせて、契約のきずなのもとに導く。38 わたしはお前たちの中から、わたしに逆らい、背く者を分離する。わたしは、彼らを寄留の地から連れ出すが、彼らはイスラエルの土地に入ることはできない。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。39 お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。40 わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。そこでのみ、わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める。41 わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる。わたしが諸国の民の中から連れ出し、散らされていた国々から集めるとき、わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。42 わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。43 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。44 お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。
勝つためなら手段を選ばないという考え
最近、アメリカンフットボールが話題です。
ある大学のアメフト選手が故意に危険なプレーをして相手選手に全治3週間のケガを負わせてしまいました。しかもこれが監督やコーチの指示によるものだったというのです。
勝つという目的のためなら何をしてもいいのでしょうか。明らかに間違った指示でも、ボスが言うなら従わなければならないのでしょうか。
これは学生スポーツの世界だけではありません。私たち皆が、このような堕落した考えのもとに生きています。
主が主であるから
今日の本文は捕囚になって7年目、エゼキエルのもとにイスラエルの長老たちが集まっているときに主から語られた御言葉です。
イスラエルの民は何度も繰り返して主に背いてきました。行いを見れば滅ぼされるべき民ですが、主はその名のために滅ぼし尽すことをしませんでした。
民は捕囚となってしまいましたが、主はそこから救い出すことを約束します。
民がよい行いをしたからではありません。ただ主の恵みであり、その恵みを信じたからです。
主が主であるから、その名のゆえに正義と愛を行うということを信じる信仰です。
堕落の道を歩む人間
荒野での反抗
エゼキエルたちがバビロンに捕囚になってから7年目の5月10日のことです。イスラエルの長老数人が主の御心を問うためにエゼキエルの家に来ていました。
そのとき主の言葉がエゼキエルに臨みます。それは、「イスラエルの長老たちが尋ねても、私は答えない」というものでした。
先祖がしてきたことを見れば、イスラエルがどれほど堕落しているかわかります。
イスラエルの民は主ご自身が選んでくださった神の民でした。
しかしエジプトでも、荒野でも、カナンの地に入っても主に背き続けました。
民は滅ぼされて当然だったが、主はご自身の名のために民を憐れんでくださいました。
諸国民のように
イスラエルの民はこう考えていました。「我々は諸国民のように、また、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう」と。
イスラエルの民は神の民としてのアイデンティティを失っています。
自分のアイデンティティ、独自性を忘れてしまうと私たちはどのように生きればいいかわかりません。
生きる指針を見失ってしまえば、他の人に流されて生きるのが安心です。
周りの人と同じように生きよう。皆と同じことをすれば安心だ。皆が右に行くなら右に行く。赤信号でも皆が渡るなら自分も渡る。
あるいは誰かが大きな声を出してくれたら、安心します。偉い人が「こうしろ」と言ったら、何も考えずにそうする。
偶像に仕えよう
そのように生きて行くとき、私たちは知らず知らずのうちに堕落の道を転げ落ちていきます。
この世で成功したい。金儲けのためなら手段を選ばない。よい成績を取るためなら周りの人を蹴落としていく。自分を傷付けた人間は絶対に許さない。復讐をすることが正しい。
私たちは一人で悩んでいると悪い思いに支配されてしまいます。
偶像に支配される生き方が、人間にとって安心です。
三浦綾子さんの小説「氷点」は人間の堕落した本性を生々しく描いています。
啓造と夏枝にはルリ子という娘がいたが、佐石という男に殺されてしまう。しかも佐石は拘置所で自殺してしまう。
子を殺された恨みをどこにぶつければいいのか。啓造は、ルリ子が死んだときに夏枝が他の男と二人でいたということ、佐石には生まれたばかりの娘がいることを知ります。
啓造はその娘を引き取ることにしました。それは自分を裏切った妻への復讐でした。自分の娘を殺した犯人の娘だと知らずに育てた夏枝が真実を知った時、どのような顔をするのだろうか。
そして啓造自身が「汝の敵を愛せよ」という人間にはとても成し得ない究極的な愛を行うことのできる正しい人間であることを証明するために。
人間とは本当に恐ろしい存在です。
恐ろしい存在である人間。それは私たちのことです。
牧者の杖
主が救う
このように罪深いイスラエルの民は捕囚となってしまいました。
ユダとベニヤミンはバビロンにいますが、他の10部族はアッシリアに捕囚になった後、どこに行ってしまったのかわかりません。
しかし主は約束します。生きておられる主が、その力強い御手と溢れる憤りで民を治めます。
主は木や石とは違う、生きているお方です。
世界中からご自身の民を集める。まるで羊飼いが羊を救い出すようにです。
羊飼いは失われた一匹の羊飼いを探して救い出します。そしてその杖で、間違った道を行く羊を正しい道に立ち帰らせます。
主がその御手で治めてくださるなら、誰が引き離すことができるでしょうか。
主が熱情をもって治めてくださるなら、もう私たちは自分のアイデンティティを見失うことはありません。
恵みで救われる
主は羊飼いの杖の下を通らせると言います。
32 牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。33 この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。
レビ記27:32-33
羊の群れの中から10分の1を選り分け、主のものとします。
羊の良し悪しではなく、10番目に通ったものが主のものになります。
私たちの目から見ればただの偶然です。
救いの条件は私たちの側にあるのではありません。ただ主が主権をもって選びます。
汚れと傷だらけの羊でも、選ばれたなら主のものです。
本来は受ける資格のないものを受けることを恵みと言います。
私たちが救われたのは、よいことをしたからではありません。主の救いは私たちにとって、完全に恵みです。
信仰で救いを得る
羊を分ける話はイエス・キリストもしました。
マタイによる福音書25:32-46。
このとき、左と右に分けられる基準は何でしょうか。
番号ではありません。
小さな者にした行いによって救われたかのように見えます。
ポイントは、なぜよい行いができたかということです。
彼らは主ご自身によいことをしたのではありません。貧しい者や身寄りのないもの、力の弱い者でも分け隔てせず、親切にしました。
イエス・キリストがしたように、愛を実践したのです。
これは救いを得ようとしてよいことをしたのではなく、イエス・キリストを愛する愛から出てきたことです。
信仰に生きた人たちなのです。
恵みを与えられたものは、それを信仰によって受け取ります。
主は顔と顔を合わせて裁くと言われます。
裁きとは、分けることです。
荒野で何が起こったでしょうか。
主の約束を信じなかった者は滅びました。
ヨシュアとカレブのように、信じた者が生き残りました。
約束の地は与えられていましたが、信仰で生きた者だけがそこに入ったのです。
主は私たちを契約のきずなのもとに導きます。
主が私たちの神となり、私たちは神の民となります。
キリストに結ばれた者として生きる人生に招かれているのです。
ただ主に仕える
行いではない
救いには3つのポイントがあります。
まずは自分の罪を認められるかどうかです。
自分自身を見てみれば、嫌悪感を抱くほど醜い存在だとわかります。
最上の供え物
次に、イエス・キリストが私たちのためにしてくださった事実を信じることです。
イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。神の子羊の血が流されたのです。
この最上の供え物がささげられたことで、私たちの罪の贖いは完了しました。
主が主であるから
最後に、主に従って生きようと決意することです。
主が私たちを救ってくださったは、私たちの行いとは関係ありません。主が主であるからです。
神は愛です。
愛は神の本質から出るものです。だから神は人を愛さずにいられません。
同時に神は正義のお方だから、罪を放っておくことはできません。
それで神は独り子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。
このような大きな愛を受けた私たちは、じっとしていられなくなります。愛された者として尊い人生を生きられます。神の羊として、羊飼いであるキリストに従って生きます。
そのようなアイデンティティを回復します。
氷点の中で、啓造と夏枝は佐石の子を引き取って育てます。
陽子と名づけられたその子は、とても不思議な子でした。暗闇の中でも恐がることがなく、友だちから悪いことをされても憎むことはありませんでした。
啓造は不気味に思います。なぜ殺人犯の子なのに、こんなにいい子なのか。
陽子ちゃんが恐れを知らなかった理由は、愛を知っていたからです。
夏枝は陽子が誰の子か知らずに引き取りました。むしろ、本当に自分でお腹を痛めて産んだ子だと信じて愛し抜きました。
夏枝の愛を十分に受けて育ったので、陽子の心には恐れがなかったのです。
神の愛を受けとった私たちは、恐れることがありません。愛された子として平安に生きられます。
私たちはもう罪の奴隷ではありません。神の子なのです。
私たちは神の民としてのアイデンティティを見失ってはいけません。
堕落した私たちは、自然のままでは罪しか出てきません。行いを見れば、滅ぼされるしかありません。
このような私たちを主は恵みで救ってくださいました。
それは主が主であるからです。神は愛だから。
私たちはその恵みに信仰で応答します。愛された者として、神の民としてのアイデンティティをもって生きるのです。