Blog主日説教使徒言行録講解

踊らされる群衆

使徒言行録講解62

踊らされる群衆

使徒言行録21:27-36

27 七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、28 こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」29 彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。30 それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。32 千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。33 千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。34 しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。35 パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。36 大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。

メディアの影響を受けやすい

日々のみことば2020年9月号

 「日々のみことば」(日々のみことば出版委員会)は9月になって創世記の終わりの方を扱っています。ヨセフの物語ですね。
 夢見る少年ヨセフは兄たちに妬まれ、エジプトに売られてしまいます。その苦難の中でも主はヨセフと共にいて、エジプトの首相になりました。ヨセフが首相となったことで、飢饉の中でも民は守られました。
 ヨセフの物語を読みながら、日本の次の首相は誰になるのかということも気になってきました。皆さんも気になっていますよね。
 石破さん、岸田さん、菅さんの3人が立候補しています。
 その3人の出馬が確定する前ですが、8月29日と30日に共同通信社が候補者の支持率を調査しました。石破さんが34.3%、菅さんは14.3%でした。
 その4日後、ほぼ同じ方法で朝日新聞も調査しました。すると石破さんは25%に落ち込み、菅さんは38%になりました。

菅義偉氏の「支持率」、わずか4日で2.6倍に 世論調査で支持「急伸」の背景は

 菅さんの支持率は約2.7倍になっています。
 この4日間に何があったのでしょうか。
 実はこの間に新聞やテレビ等で、菅さんが出馬する意向だと報じたり、自民党内の多くの派閥が菅さんを支持すると表明したりしました。そして菅さんが有利だと、繰り返し報道されたのです。また石破さんは自民党内で嫌われているという否定的な報道もありました。
 このようなメディアからの情報を受けて、支持率が大きく変化したのではないかと考えられます。
 何か大きな実績を残したとか、具体的な政策とかではなく、メディアの影響で支持率がここまで変わるのかと驚きました。
 しかしそれほど驚くことではないのかもしれません。
 コロナウイルスの影響でトイレットペーパーが品薄になると言われれば、デマとはいえ、日本中の店からトイレットペーパーがなくなりました。
 バナナがダイエットに効くと言われればバナナがなくなります。
 私たちはこのように、メディアからの影響を強く受けます。根拠のない噂に踊らされ、パニックを起こすこともあります。

エルサレム到着

 今日の本文はパウロたちがエルサレムに到着してからの話です。
 カイサリアから出発したパウロたちはエルサレムに到着しました。そこでエルサレム教会の代表である、イエス様の弟のヤコブと長老たちに会いました。
 各教会からの献金を渡し、神が異邦人の間で行われたことを詳しく報告しました。それを聞いたヤコブと長老たちは神を賛美しました。
 そしてパウロが律法やユダヤ教の慣習を捨てるように教えているという噂があると教えました。
 その誤解を解くために、律法にあるナジル人の誓願のために頭をそる費用を出すようにと助言し、パウロは従いました。
 その清めの期間の終わりに神殿に行ったとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけました。彼らはアジア州のエフェソから来たようです。
 彼らはパウロがエフェソ教会の代表者であるトロフィモと一緒にいるのをエルサレム市内で見ていました。それでパウロがトロフィモを神殿の境内に連れ込んだと勘違いしました。
 トロフィモは異邦人です。神殿には異邦人も入れる異邦人の庭があり、その内側に婦人の庭、その奥にイスラエルの庭があります。もしここに異邦人を連れ込めば、死刑になります。
 それでアジア州から来たユダヤ人たちは「この男は民と律法と神殿を無視することを教えている」と群衆に呼びかけ、パウロを捕らえさせました。
 群衆はパウロを神殿の外に連れ出し、殴りつけ、処刑しようとします。
 騒ぎを聞きつけた千人隊長はパウロを鎖で縛り、兵営のあるアントニヤ要塞に連れて行こうとしました。
 しかし大勢の群衆が「その男を殺してしまえ」と叫びながらついてきます。群衆からの暴行を避けるため、兵士はパウロを担いでいかなければならないほどでした。

根拠のない噂に踊らされる

 ヤコブと長老たちは、パウロが律法やユダヤ教の慣習を捨てるように教えているという噂があると言っています。確かにパウロは、律法の行いではなく信仰によって義とされると教え、異邦人は割礼を受けなくていいと言っています。
 しかしパウロはユダヤ人の慣習を大事にすることも教えています。ですからこの噂は間違っています。
 パウロが神殿で捕らえられたのも、勘違いからでした。パウロは神殿を汚そうとしたわけではありません。むしろ神殿の清さを守るために清めの儀式を受けに行ったのです。
 ところが扇動された群衆はパウロを捕らえ、暴力を振るいました。パウロが何か間違ったことをしたでしょうか。根拠のない噂に踊らされ、パウロを殺そうとしています。

 パウロのようにエルサレムで群衆に囲まれた人を、私たちは知っています。イエス様がそうでした。
 祭司長たちは群衆を扇動し、「十字架につけろ」と言わせました。
 ピラトは過越祭の慣例に従い、イエス様を釈放しようとします。しかし扇動された群衆は、「あの男を殺せ、バラバを釈放しろ」と要求します。バラバはかつて暴動を起こし、人を殺した犯罪者です。
 群衆は、イスラエルの王として歓迎し何も悪いことをしていないイエス様を殺せと言います。そして人殺しのバラバを釈放しろと言います。明らかにおかしいでしょう。
 しかし群衆は止まりません。結局、群衆が「十字架につけろ」と叫び続けるので、ピラトはイエス様を十字架刑にしました。

 私たちはこの世の情報に簡単に影響を受けます。踊らされる群衆です。
 その結果、食べるなと言われたものがいかにもおいしそうに見えてきます。自分たちと違う立場の人との対立をあおられます。そして神を殺してしまうのです。
 関東大震災があったとき、朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂に踊らされた群衆が、朝鮮の人たちを虐殺した事件もありました。
 自分は大丈夫だなどと過信しないでください。
 この世が提供する幸せのモデルがあります。お金があれば幸せになれる。異性にモテれば幸せになれる。やせれば幸せになれる。そこに駆り立てられていきます。
 理想の家庭像もあるかもしれません。結婚し、子どもを産む。
 世の中ではあまり言わなくなったかもしれませんが、教会では未だに理想のクリスチャン像というものが語られることがあります。クリスチャンの異性と結婚し、子どもを産み、クリスチャンホームを築くのがクリスチャンの幸せの道だと。
 教会が提供するとしても、その幸せのモデルに縛られているとしたら、やはり私たちは踊らされています。
 私たちは誰かの操り人形ではありません。この世に踊らされてもいけないし、教会に踊らされてもいけません。
 神は人を操りません。私たちの主は、「自分の足で立て」と言われるお方です。

自分の足で立て

 エゼキエルが主からの召命を受けたときのことです。

1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」2 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。

エゼキエル書2:1-2

 このときエゼキエルは失望していました。
 祭司の子であるエゼキエルは、祭司になるのが自分の道だと信じていました。ところがバビロン捕囚にあいます。神殿のあるエルサレムから、遠く離れたバビロンに連れて行かれました。自分が思い描いていた理想の人生から遠く離されてしまいました。
 そんなエゼキエルに主は、預言者という使命を与えます。預言者は主が語ることを語ります。しかし語りたくないと思って口を閉ざしたり、逃げ出したりする預言者もいました。決して操り人形ではありません。
 聖霊を受けたエゼキエルは、自分の足で立ちます。
 この世の価値観に踊らされる人生、誰かに操られる人生ではなく、本当の自分の人生を歩み始めたのです。

自分の人生を生きる

 キリストは私たちを本当に自由にします。
 自由とは何でしょう。この自由という概念も、この世からの影響を受けやすいです。
 自分のしたいことをするのが自由でしょうか。
 結局その自由は、罪に束縛された奴隷の状態での自由ではないでしょうか。堕ちるだけ堕ちる。どうぞ破滅の道へ。
 私たちの心の深いところで、そんな自由はどこか違うという思いがわいてきませんか?
 自由とは、自分が本当の自分として生きることです。
 罪の奴隷ではない。この罪と悲惨の世界に踊らされはしない。神の子として、神に造られた傑作品である、本当の自分になることです。
 それはキリストにつながることによって得られます。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。 

ガラテヤの信徒への手紙5:1

 キリストにつながる。キリストに従う。それは宗教に束縛された人生でしょうか。
 決してそうではありません。愛に生きる自由がそこにあります。
 天の御座を捨てて私たちの間に住んだ方のように、へりくだって人々の間で生きる自由があります。自分を十字架につけた人たちのために赦しを祈った方のように、自分に危害を加えようとする人々のために祝福を祈る自由があります。私たちを救うために十字架で死なれた方のように、誰かの救いのために命をもささげる自由があります。

 イエス・キリストは私たちの救いの岩です。昨日も今日も永遠に変わることはありません。この岩の上に立ちましょう。
 私たちはこの世に踊らされる群衆ではありません。
 神の子として自分の足で立ち、キリストの弟子として愛に生きていきましょう。

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