十戒3
神は唯一
出エジプト記20:3
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
神はおひとりでなければならない
第一戒は「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」です。
神は唯一です。
日本には多くの神々がいます。日本の神々をまとめて、やおよろずの神々と言います。
やおよろずとは、八百万と書きます。実際の数ではなく、ものすごくたくさんという意味です。
実際に数えた人もいるらしく、二百万くらいいるそうです。さすがに八百万はいませんが、それでも多いですね。
なぜこんなに多いかというと、何でも神にしてしまうからです。富士山のような自然も、狐のような動物も、立派な人間も神にしてしまいます。スポーツの神様、経営の神様、漫画の神様など、簡単に神様を作ってしまいます。
それらの神々は、結局は人間が作ったものです。人の力を超えた問題を説明したり解決したりするために、都合のいい神様を作ります。
しかしその神様では説明のつかない問題も起こります。すると別の神様を作らなければならなくなります。こうして多くの神々が必要になってきます。
そのような神々は、本当の神様ではありません。人間の頭の中で説明できる程度の小さな神様です。
本当の神様がおられるなら、そのお方は人間よりはるかに偉大な方であるはずです。人間のこの小さな頭では到底説明できないような、無限で永遠で不変のお方であるべきです。
そしてそのような神は、ただお一人であるべきなのです。全知全能の神は複数いる必要がないし、複数いるなら全能でなくなってしまいます。
三位一体の神
私たちの唯一の神様は、聖書の中で父なる神様、神の子イエス、神の霊として出てきます。
三位一体(さんみいったい)と言います。
3つの神がいるということではありません。お一人の神が別々の姿に変わるということでもありません。単純に呼び名が違うというわけでもなく、3つに区別されます。しかし実体は同じです。
父とか子とか呼ばれますが、優劣があるわけではなく、力も栄光も等しいです。
理解できますか?説明しきれないし、理解もできません。
こんな矛盾したような教理を信じるなんておかしいでしょうか。
いいえ、人の理解を超えているからこそまことの神であり、信じるにふさわしいのです。
唯一の神様を信頼する
私たちはこの唯一の神様を知識として知っているだけではいけません。私たちの神として頼り、仕えなければなりません。
預言者エリヤはこう宣言しました。
わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。
列王記上17:1部分
他の神々を礼拝してはいけません。また神ではないものを神のように扱ってはいけません。
富が神のように力を持つことがあります。お金は私たちが生きていく上で大切なものです。しかしお金は神ではありません。
人を信頼したり尊敬することは大事です。しかし人間を神にしてはいけません。親や牧師、先生だって間違えます。自分自身の能力や経験も限られたものです。
この世のものはすべて移り変わります。小さなウイルスによって社会は大きく変わります。山や川も動きます。
しかし天地万物を造られた神様は変わりません。
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
ヘブライ人への手紙13:8
唯一の神様だけを頼るなら、私たちはそこで人生の空しさから解放されます。
富や名誉、人からの評価、認められたい愛されたいという願望に振り回される必要はありません。
この心の空白を埋めるのは神だけです。
人間とは何者なのか、人の主な目的とは何かを見出すことができます。
そして私たちは、人間として生きる力を回復されます。
主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ書40:31
神のまなざしの前で生きる
「わたしのほかに」という言葉は、「神の前で」と言い換えることができます。
私たちは神の前で生きる者です。
それなのに神を神として認めず、他のものを神としてはいけません。
自分の子どもが、自分の目の前で他の人や物を「お父さん、お母さん」と呼んでいたら悲しいですよね。悲しすぎます。「目を覚ませ、お父さんお母さんはここにいるぞ!」と叫びたくなります。
だから私たちは、神の前で神を神として認める必要があります。
神の前で生きるということは、神にすべて見られているということでもあります。
1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
詩編139:1-2
すべて知られています。髪の毛の数も、また心に抱いている思いもすべてです。
ある意味では恐いですね。心に思うことを誰かにすべて知られたら、もう生きていけないとすら思うかもしれません。
まして正義の神に知られたら、滅ぼされるに違いないと思ってしまいます。
しかし神は、そのような醜い心までひっくるめて私たちを愛しています。
ノアの洪水の後、神はこう約束しました。
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
創世記8:21
この心の中の醜さも含めて、イエス・キリストは十字架で償いを成し遂げてくださいました。
そして聖霊は私たちの心をも日々新しくしてくださいます。
だから神の前で生きるということは、私たちへの平安の約束です。
私たちがいつどこにいても、インマヌエルの神、主は共にいます。
たとえ人々から見捨てられたような絶望の谷底にいても、主は共にいます。
誰にも言えない罪を抱え、教会にも行けず、胸を打ちながら助けを求めた祈りも主は聞いています。
小さな者の一人に行った親切や、誰も見ていないところでした善行も、主は受け取ってくださいます。
だから神の前で生きることを意識するなら、私たちは平安を得、誠実に生きる者へと変えられていくのです。