【第二戒】偶像を造るな

十戒4

偶像を造るな

出エジプト記20:4-6

4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

神を正しく礼拝せよ

 第ニ戒は「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して千代に至るであろう」です。長いですね。一言で言うと、「偶像を造るな」です。
 聖書には、これが第一戒でこれが第ニ戒と明確に示されているわけではありません。3節の第一戒の中でも偶像崇拝は禁じられていました。ですから3節から6節まで含めて一つの戒めだと考える立場の人たちもいます。
 しかし私たちは3節を第一戒、4節から6節を第二戒と分けて考えます。第二戒の本質は、偶像を造るなというだけではなく、神を正しく礼拝するという点にあるという理解です。

主を金の子牛で礼拝する

 十戒はエジプトを脱出したイスラエルの民に与えられました。主は、イスラエルの民がエジプトを脱出した時にはシナイ山で神を礼拝する、と語っていました。
 しかしどのように礼拝したらいいかわかりません。
 エジプトで400年の奴隷生活をしてきた彼らにとって、礼拝はエジプト人の方式が馴染みあるものだったかもしれません。
 肝心のモーセはシナイ山に上ったまま3日間帰ってきません。
 それで民は、自分たちで礼拝することにしました。目に見えない神を礼拝するために、彼らは金の子牛の像を造ったのです。
 主を礼拝するとしても、どのように礼拝するべきかがわからなければ、間違った礼拝をささげてしまいます。

 目に見えない神をどのように礼拝したらいいのでしょう。
 私たちは、目に見えるものを礼拝しようとしてしまいます。金の子牛の像を造る人はいないでしょうが、他のものが偶像になってしまいます。
 たとえば、教会には必ずと言っていいほど十字架が掲げられています。十字架はイエス・キリストの贖いを象徴するものです。ただのシンボルです。しかしこの十字架に特別な力があると考えてしまうことがあるかもしれません。十字架を身につけていればサタンを退けることができるとか。
 聖書も偶像になるかもしれません。聖書は神の言葉と言われます。しかしこの本が神の言葉ではありません。聖書を持ち歩いていれば災いにあわないとか、銃で撃たれても胸ポケットに入れておいた聖書が守ってくれるとか、そんなことはありません。
 あるいは教会の建物が偶像になるかもしれません。立派な建物、オルガンの音色、照明や音響、そういう雰囲気で礼拝している感じにさせられる。
 このように目に見えるものを礼拝しようとしてしまう誘惑があります。

礼拝の仕方は神の言葉が基準

 ではどのように礼拝したらいいというのでしょうか。
 イスラエルの民が金の子牛の像を造っている間、モーセは主なる神様から十戒を授かりました。そこに刻まれている神の言葉によって、礼拝の仕方を学ぶことができます。

 礼拝は、今までこうしてきたからとか、他の人がこうしているということで何となくするものではありません。また人が知恵をしぼって発明するものでもありません。神から示されなければならないのです。
 新約時代に生きる私たちは、イエス様のこの言葉をよく聞く必要があります。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

ヨハネによる福音書4:23

 神は霊です。それを何か物とか場所とかに閉じ込めて礼拝したつもりになってはいけません。
 まことの礼拝をする者たちは、霊と真理をもって父なる神を礼拝します。そして神は、そのような礼拝者たちを求めておられるのです。

祈り・御言葉・礼典

 まことの礼拝をするために、私たちは御言葉に示された方法で礼拝する必要があります。御言葉に示された礼拝の仕方とは、祈りと御言葉と礼典です。
 イエス様は祈りについてこう約束しました。

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

ヨハネによる福音書14:13

  ですから、イエス・キリストの名前によって、父なる神様への祈りがささげられなければなりません。

 そして礼拝では、神の言葉を聞くことが欠かせません。
 旧約時代に幕屋や神殿でささげられる礼拝では儀式が中心にありました。それがバビロン捕囚以後、会堂に集まり御言葉を聞くことが中心に変わっていきました。
 神の言葉を聞くには、聖書が朗読され、それが解き明かされ、聴衆が受け取るという3つの要素が必要です。
 ただ聖書が読まれ、牧師が説教するだけでは足りないのです。聞く側が神の言葉として受け取るとき、そこで語られた言葉は神の言葉になります。牧師の話としてではなく、神が語られる言葉として耳を傾けてほしいです。

 それから礼典です。礼典は、イエス様が守るようにと伝えた儀式です。
 プロテスタント教会では洗礼と聖餐の2つを礼典に定めています。
 これらは毎週行われるわけではありませんが、御言葉に示されたとおりに礼典が行われなければなりません。

 これらの方法、形式を守れば正しい礼拝になるかというと、そうではありません。聖霊様の助けが必要です。
 私たちは聖霊様の助けを受け、唯一の道・真理・命であるイエス様を通して、父なる神様を礼拝します。

ねたむほど愛する神

 第二戒で主は、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」と言っています。
 ねたむというのはとても人間的な感じがしますね。愛する相手が自分よりほかの人や物を大事にしていたら、ねたましく思う。「私と仕事、どっちが大事なのよ!」みたいな。
 神は、それほど私たちを愛しているということです。ねたむほど、情熱的な愛を私たちに注いでいます。
 だから、父なる神はまことの礼拝者たちを求めているのです。
 神が情熱的な愛を注いでいるのだから、神との出会いの時、礼拝を大事にしてほしいです。毎週毎週のルーティーンのように、マンネリ化した礼拝ではいけません。日曜日の朝になってホコリをかぶった聖書を持って教会に行き、帰ったらもう説教の中身を忘れているような生活を送ってほしくないのです。
 神は愛です。三位一体の神の間には親密な愛の交わりがあります。その神が独り子を与えるほどに私たちを愛しています。神は愛の交わりの中に私たちを招いています。この愛を受け取り、愛の交わりに加わる人がまことの礼拝者です。

礼拝者の生き方は次世代に影響する

 父の罪を子に報いるという表現には注意が必要です。罪は遺伝しません。父の罪は父の責任で、子の罪は子の責任です。
 しかし親の礼拝する姿は、子どもに影響を与えます。親が適当に礼拝をささげていたり、日曜日の教会での姿と平日の家での姿にギャップがあると、子どもたちは神を愛せなくなります。
 逆に親が真剣に礼拝をささげていたり、説教でいただいた恵みを日常生活にも適用しようとしているなら、子どもたちもそのように神を愛するようになるでしょう。
 子どもだけではなく、大人の礼拝する姿は若者たちにも見られています。
 神の情熱的な愛に、情熱を持って応える礼拝者でありたいです。

 礼拝から始まる一週間の生活も大事です。教会では礼拝者だけれど、社会に出たら神のことを忘れる、ではいけません。
 神様も「私と仕事、どっちが大事なのよ!」とねたんでいるかもしれませんね。
 神は私たちの神、主です。私たちは主のものとされています。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

ローマの信徒への手紙12:1

 私たちは聖なる生けるいけにえ。
 御言葉に従って、神の愛に応え、神にささげられたものとして歩む礼拝者となることを願います。

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