十戒7
父母を敬え
出エジプト記20:12
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
親子関係のような秩序を守る
第五戒は「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」です。親子関係のような秩序を守りなさいという戒めです。
同じ人間なのに
住井すゑさんの「橋のない川」という小説を読んでいます。エタと呼ばれて差別された人たちの話です。同じ人間なのに、その部落で生まれたというだけでエタと言われ、差別的な扱いを受け続けます。
一方で天皇のような皇族は特権的な扱いを受けます。
しかしどちらも同じ人間です。
主人公の少年は訴えます。「生まれたときは天皇もエタも裸で名無しや」
人間同士の間に上下の差があるのは当然のことなのか、考える必要があります。
神は人を分け隔てしないが、区別はする
聖書は、神は人を分け隔てしない、と言います。
人は皆、大切な存在です。差別的な扱いを受けることがあってはいけません。
しかし差別と区別は違います。誰もが同じような扱いを受けるのではなく、その立場にふさわしい扱いを受けるべきです。
神は人を分け隔てしないのだから、私もアマゾンのジェフ・ベゾスと同じ給料をもらうべきだ、と主張するのはおかしいですよね。
神が立てた権威もあるのです。
最も身近なものが親です。他にも先生、上司、政治家などの権威があります。
ですからそのような人々を尊敬することは大事です。
また権威ある立場の人たちは、その立場にふさわしい義務を果たさなければなりません。
神と人をつなげる役割
第五戒において「あなたの父と母を敬え」と命じられているのは、両親が子どもに信仰を伝える人だったことが関係しているのかもしれません。
十戒の第一戒から第四戒までは神についての戒めでした。
第五戒から第十戒までは人についての戒めになります。
第五戒がその分岐点になります。神と人とをつなげる役割ですね。
イスラエルでは両親が子どもに信仰の教育をすることが律法で命じられていました。
子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
申命記6:7
今でも両親は神の御心を子どもたちに受け継がせる役割があります。
この律法のようにすることはないと思いますが、両親に教えられたことを子どもたちは大切に受け取ります。そして両親の姿を見て子どもたちは学びます。
これは親子関係だけではなく、一般的な大人と子どもの関係についても言えるものです。大人の生き方を子どもたちはマネします。
もし大人が信号を無視したり、ゴミをポイ捨てしたりするなら、子どもたちもそうします。
ですから上に立てられたものとしての責任を果たさなければなりません。
その責任を一言で言うと、神を愛し、人を愛することです。
神を愛し人を愛するようにさせる権威者
パウロはこのように教えています。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
ローマの信徒への手紙13
神が上に立てた権威には従わなければなりません。
親や先生、政治家などの権威は私たちに善を行わせるために権威を持っています。
私たちが神を愛し、人を愛するようにするために、教えたり命令したり叱ったりするわけです。
だからそのような権威には従わなければなりません。
権威に抵抗すべき時もある
しかし無条件に従えばいいというわけではありません。
イエス様は父、母を捨てて私に従いなさいと言いました。第五戒と矛盾するようなことを言っています。
これは優先順位の問題です。両親を敬うことは大事なことです。それはまず神様との関係の中で敬うべき上下関係です。
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
エフェソの信徒への手紙6:1
「主に結ばれている者」として両親に従います。両親の子である前に、主に結ばれている者なのです。
ですからもし両親が、神を愛し隣人を愛することに反するようなことを命じるなら、抵抗するべきです。
場合によっては国が、神を愛し隣人を愛することに反することを命じるかもしれません。この神を拝めというかもしれないし、戦争に行って人を殺せと言われるかもしれません。部落出身者や外国にルーツを持つ人、障害のある人などへの差別を許容する構造が社会の中に存在するかもしれません。そのような時には抵抗しなければなりません。
もしかすると教会や牧師が、神を愛し隣人を愛することに反することを命じるかもしれません。牧師の権威を強調して、聖書より人の言葉を優先させるかもしれません。そのような牧師は追放しなければならないし、牧師が変わらないならその教会からは逃げた方がいいでしょう。
私たちは主に結ばれている者として、権威に従うのです。
祝福された者として生きるために
第五戒には「これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」という約束があります。
主が賜る地とはどこでしょうか。
十戒が与えられたとき、イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から救い出され、カナン地方へ向かっていました。カナンが約束の地、主が賜る地でした。
私たちも罪の奴隷の状態から救い出されました。そして神の国で生きる者とされています。主が賜る地とは、特定の場所ではなく、救われた者として生きるということでしょう。
また、長く生きるというのは祝福の象徴でした。短命で召される人も祝福されていないわけではないですが、子どもたちにはできるなら長生きしてほしいと願いますよね。
ですから私たちが第五戒に従うとき、神の国の民として神様の祝福の中で生きられると約束しているわけです。
両親の生き方から学び、先生の教えをよく聞き、この世の権威に従うことは大事です。
両親を敬い、神と人とに愛される
イエス様は全能の神様です。その神様ご自身が人となって私たちの間に宿りました。そしてヨセフとマリアの家庭で育てられることになります。
神の子を育てるわけですから、ヨセフとマリアがイエス様にうやうやしくお仕えしたのでしょうか。
聖書にはイエス様の少年時代についてこうあります。
51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
ルカによる福音書2:51-52
イエス様は両親に仕えました。ヨセフとマリアは少年イエスの言動に理解できないところもありましたが、両親としての責任を果たしました。そして少年イエスは神の子としての自覚を持ちながらも、ヨセフとマリアを親として敬いました。
こうしてイエス様は神と人とに愛されて成長したのです。
私たちもその立場にふさわしい責任を果たすとき、そこに神様の祝福が流れてきます。
私たちは弱く、差別と区別を混同してしまいます。そして弱い立場の人たちを傷つけることに加担してしまいます。
上に立つ人には責任があります。神と人を愛するようにする責任です。
下の人は、上に立つ人に従わなければなりません。ただし神と人を愛することに反しない限りです。
それぞれの責任を果たすとき、神の国が実現していきます。神の国では、人は分け隔てなく神に愛されています。