十戒11
むさぼるな
出エジプト記20:17
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
心の問題を取り扱う
第十戒は「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」です。
むさぼるというのは、飽きることなく欲しがることです。欲しがることを禁じています。
第十戒は他の戒めと違い、心の問題を取り扱っています。むさぼる心まで取り締まる法律は日本には存在しませんが、十戒は心の問題に触れます。
それはむさぼる心が悪の根であり、神はその心さえも変えてくださるお方だからです。
神にしか埋められない心の空白
パスカルは言いました。人間の心には空白があると。
その空白は人間が罪を犯し、神の愛を失ったことによってできた空白です。だから神の愛でしか埋めることはできません。
しかし私たちはこの心の空白を、神の愛ではないものによって埋めようとします。財産や情欲、人々から認められること、そういったもので心を満たしていきます。
しかしそれらは空白のかたちと合いません。
合わないものを無理やり押し込んでいけば、破れはさらに広がっていきます。
そうして飽きることなく欲しがるようになります。
財産をむさぼれば盗みを働くかもしれません。情欲をむさぼれば姦淫をするかもしれません。人々から認められることをむさぼれば嘘をつくかもしれません。
むさぼる心から、他の罪につながっていきます。
パウロは、欲望が人を滅亡と破滅に陥れると言いました。
金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
テモテへの手紙一6:10
だから十戒は心の問題まで掘り下げます。
表面的にはよい行いをしていても、罪の根が残っていればそこから醜い罪が出てきます。
罪の根を取り除くことは自分にはできません。カウンセリングによって心の深いところまで掘り下げることは可能かもしれません。しかし罪の根を取り除き、空白を埋めるのは神にしかできないのです。
心の深いところまで見つめ、欲望と戦う力を与えてくれるのが聖霊です。
私たちはイエス・キリストを信じたとき、古い自分を欲望と一緒に十字架につけてしまいました。
イエス・キリストを信じる私たちは心の底から新しくされています。
しかし肉の欲望と聖霊の欲望がいつも対立します。
だから聖霊の導きに従って歩こうと願うことが必要です。そうして地上の人生をかけて、少しずつ少しずつ変えられていくのです。
神の愛で心を満たす
むさぼらないためには満足することが大事です。
隣の芝は青いと言います。他と比較して、自分にないものに注目するとむさぼる心が芽を出します。
しかし自分の庭にもよいところがあるはずです。青々とした芝生はないかもしれないけれど、花があるかもしれません。芝生を生やす庭はないかもしれないけれど、幸せな家族がいるかもしれません。
神様は、私たち一人一人に必要なものを十分に与えてくださいます。一人一人の必要は違うので、他と比べても何にもなりません。
自分にないものや失ったものではなく、あるものや与えられているものに注目してください。
特にこの心の空白を満たす神の愛が、既に心に注がれていることを忘れないでください。
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
ヘブライ人への手紙13:5
自分は神に愛されているのだと知るとき、金銭に執着せず、情欲のとりこにならず、人からの称賛がなくても満足して生活できます。
もちろん生活の向上のための努力は必要です。第八戒で学んだとおりです。
しかしその動機は、妬みや不満から来るものではありません。
神様が与えてくださる祝福に感謝して、仕事をし、自分と隣人の生活をよくしていくのです。
喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く心
私たちは競争社会で生きています。
子どもの頃からテストの点数や運動の成績で競争させられます。
勉強や運動を楽しむことより、高い成績を出すことに重点が置かれます。他の人より成績がよければほめられ、悪ければ怒られます。
受験では限られた席を巡って戦わせられ、その勝ち負けによって人生が左右されるように思い込まされます。だから他の人よりよい成績を出し、ライバルたちを蹴落とさなければなりません。
社会の中ではさらに激しい競争があり、業績を残さなければそれは0ではなく損失、マイナスだと考えられます。
だから自分ではない他の人が成功したり幸せになったりしたと聞くと、素直に喜べません。自分が幸せになる機会が奪われたとさえ思います。
逆に他の人が不幸になったという話は、蜜のように甘く感じます。
神の国は、そのような競争社会ではありません。他人と比較する必要はありません。
神の国には尽きることのない祝福があります。他の誰かが先に祝福を受けても、自分に約束された祝福は減ることがありません。
だから他の人の幸せを素直に喜ぶことができます。他の人に祝福を惜しまず分かち合うことができます。
そうして喜びを分かち合っていくとき、この世界に喜びはどんどん増えていきます。
また他の人が苦しんでいるとき、その苦しみに共感することができます。自分が苦しみに寄り添うとしても、自分が損することはありません。
一つの体として苦しみを分け合うとき、苦しみは半減していきます。
神の愛を受け取り、隣人を自分のように愛するようになるのです。私たちは共に一つの体なのですから。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
コリントの信徒への手紙一Ⅰ2:26-27
神の愛によって心を満たされ、むさぼる者ではなく、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者に変えられていきましょう。