十戒6
安息日の戒め
出エジプト記20:8-11
8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
安息日を覚えて、これを聖とせよ
第四戒は「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門の内にいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」です。
安息日についての戒めです。
安息日はいつか
ユダヤの1週間は日曜日から始まります。7日目は土曜日です。創世記の1章に「夕べがあり朝があった」と書いてあるように、1日は夕方から始まります。なので安息日は金曜日の夕方から土曜日の夕方までです。
私たちはそのような安息日を守っていません。では私たちは神の言葉に背いて罪を犯しているのでしょうか。
律法の文言を文字通り守ろうと思えば、色々な面で無理が生じます。礼拝の中で動物の犠牲をささげるわけにはいきません。食べ物も制限されます。
これらはイエス・キリストの十字架と復活によって更新されました。完全な犠牲がささげられたので、もう動物の血を流す必要はありません。すべての食べ物は清くされているので感謝して食べればいいです。
教会は安息日の戒めについても更新されたと考えています。
今私たちは、週の初めの日を礼拝の日としています。それはイエス・キリストが日曜日の朝に復活されたからです。
なぜ安息日を守るのか
そもそもなぜ安息日を守らなければいけなかったのでしょうか。
第4戒には「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたから」と説明しています。
神様ご自身が天地万物を6日間で創造し、7日目に休みました。
だから私たちにも休みが必要です。ずっと働き続けていれば、肉体も疲れます。また魂も飢え渇きます。
まるで走り続ける車のようです。ずっと走り続けると疲れてきます。燃料もなくなってしまいます。だからどこかで休憩し、燃料を補給しなければなりません。
イエス様は、疲れた者、重荷を負う者に休みを与えようと招いています。そして枯れることのない命の水を与えてくださいます。
神様のところに帰って来ることで、私たちは本当に休むことができます。
神様のところに帰って休もう
神様は7日目に何をしたのでしょうか。
ゴロゴロ寝ていたという可能性もあります。
私は、ご自分の造られた世界を楽しまれたのではないかと思います。アダムと一緒に世界を見て回り、おいしい果物を食べ、この世界は極めて良いということを味わったのではないかと思うのです。
休みの日に、私たちはこの世界を楽しんでいるでしょうか。なかなか旅行までは難しいかもしれませんが、花や紅葉を見て季節を感じるのもいいですね。そしておいしいものを食べる。
それは余裕がなければできません。やり残した仕事があってその心配を手放すことができなければ、安心して休めません。
神様はご自分の仕事を振り返り、極めて良かったと宣言します。
私たちも休みの日には自分の仕事を手放し、神様に委ねましょう。
エルサレムの城壁を再建したネヘミヤたちは、仕事を終え、主を喜び祝いました。
彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
ネヘミヤ書8:10
主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源です。
仕事を手放して主を喜ぶから、新しい一週間の働きを始める力を得ます。
救いの喜びにあふれて一週間を始める
第4戒の文言は出エジプト記から取られています。
十戒は出エジプト記だけではなく申命記にも書かれています。申命記では安息日を守る理由をこう説明しています。
あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
申命記5:15
救いの恵みに感謝して安息日を守るということです。
新約時代に生きる私たちはこの点を強調したいです。まさに罪の奴隷であった私たちを救うためにイエス・キリストが十字架で死に、週の初めの日の朝に復活したからです。
安息日には仕事を休む日という面もあります。
しかし安息日の戒めはイエス・キリストによって更新されました。
安息日は休む日であり、礼拝する日です。
現代において社会は複雑さを増しています。特定の曜日に一斉に仕事をしないとか、世の中のことに関わらないというのは不可能なことです。
だから礼拝に強調点を置いてほしいのです。
復活の主に出会い、救いの喜びにあふれて新しい一週間を始めるのです。
日曜日の朝が仕事や試験、部活などで開けられない場合もあるでしょう。その時は早朝でもいいし夕方でもいいです。平日になるかもしれません。
病気のときや社会の状況によっては、どうしても集まれないというときもあるでしょう。今はオンラインという手段のあります。
どうか週に一度は神様のところに帰って来てください。
小さな者たちと恵みを分かち合う
第4戒はこの対象を「あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門の内にいる他国の人もそうである。」と言っています。
安息日の戒めは子どもたちや奴隷、家畜、そして寄留している外国人にまで及んでいました。
子どもや奴隷は所有物として扱われていた時代です。外国人に対する差別もありました。聖書は彼らに休みを与えなさいと言っています。
現代でも過酷な条件で働かされている人たちが多くいます。ブラック企業や技能実習生の問題が取りざたされています。
他の人を、物のように扱ってはいけません。お金を払えば自由に使える道具ではありません。社会の中で使い捨てにされる歯車ではありません。一人の人間です。
イエス様は子どもたちを模範だと言いました。またサマリアの女にも出会いに行きました。
イエス様はこのような小さな者、弱い者、貧しい者たちと共にいます。
そして彼らにしたことを、ご自分にしたこととして受け取られます。
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタイによる福音書25:40
礼拝の喜びは自分たちだけが受け取って満足というわけにはいきません。
小さな者、弱い者、貧しい者たちへのまなざしが必要です。
子どもたちが恵みを受け取るにはどうしたらいいか。教会に来られない人たちにはどうすればいいか。この町に住む貧しい人たちや、外国人の方々に恵みを届けるにはどうしたらいいか。そのことを考えさせられます。
礼拝をささげた私たちは、この世界に恵みを届ける塩として光として遣わされていくのです。