エゼキエル書講解25
ありのままをさらす恐怖
エゼキエル書 16:35-47
35 それゆえ、姦淫の女よ、主の言葉を聞け。36 主なる神はこう言われる。お前が、愛を求める者と姦淫するために、欲情を注ぎ、裸をさらしたために、また、すべての忌まわしい偶像と、それにささげたお前の息子たちの血のゆえに、37 わたしは、お前がもてなしたすべての愛人たち、お前の好きだった者も嫌いだった者もすべて集める。わたしは彼らを至るところからお前のもとに集め、お前の裸を彼らにさらす。彼らはお前の裸をくまなく見る。38 わたしは、お前を淫行と流血のゆえに裁く。また、怒りと熱情をもって、お前の流血に報いる。39 更にわたしは、お前を彼らの手に渡す。彼らはお前の祭儀台を倒し、高い所を破壊し、お前の着物をはぎ取り、美しい飾りを取り去ってお前を裸にする。40 彼らは群衆を駆り立ててお前に向かわせ、石を投げさせ、剣で切りつけさせる。41 彼らは火でお前の家を焼き、多くの女たちの見ている前でお前を裁く。こうして、わたしはお前に姦淫をやめさせる。お前は二度と報酬を支払わない。42 わたしがお前に対する怒りを静め、わたしの熱情がお前から離れるとき、わたしの心は休まり、もはや怒ることはない。43 お前が、若い日々のことを思い起こさず、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、わたしもまた、お前の行いを頭上に報いる、と主なる神は言われる。お前はすべての忌まわしいことに加えて、この悪事を行ったではないか。44 お前についてことわざを語る者は、すべて、ことわざを用いてこう言う。『この母にしてこの娘あり』と。45 お前は、自分の夫と息子たちを捨てた母の娘であり、自分の夫と息子たちを捨てた姉妹たちの一人である。お前の母はヘト人、父はアモリ人である。46 お前の姉はサマリアであり、彼女とその娘たちはお前の北に住んでいる。また、お前の南に住んでいるお前の妹はソドムとその娘たちである。47 お前は彼女たちの道を歩んで、忌まわしいことを行ったばかりでなく、やがて、すべての道において、彼女たちよりもいっそう堕落した。
はだかの王さま
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Anderson)の「はだかの王さま(The Emperor’s New Suit)」という童話を皆さんも知っていると思います。
ある国に新しい服が大好きな王さまがいました。王さまを探そうと思えば会議室より衣裳部屋を探した方が早いというほどです。
国中の人はそんな王さまに呆れていましたが、王さまに向かって誰も本当のことは言えません。
この国に2人の詐欺師が来ました。彼らは服の仕立て屋のフリをしました。そして珍しい布があるという噂を流しました。
その布は「自分にふさわしくない仕事をしている人や愚かな人には見えない布」だと言います。
王さまもその噂を聞いて興味を持ちました。この服を着れば、家来の中でふさわしくない人を見分けられる。もっと国がよくなると思いました。
そんな布があるならぜひそれで服を作ってほしいと、仕立て屋のフリをした詐欺師に大金を払いました。
詐欺師は大きな機織り機を準備して、何日も夜遅くまで作業に取りかかりました。
一体どんな布なのだろうか。気になった王さまは、家来を送って視察させました。立派な働きをする賢い家来です。
彼は仕立て屋のところに行って驚きました。布が見えないのです。
もしかして自分はふさわしくない仕事をしているのではないか、愚か者なのではないか。
そんなことはない。自分は立派で賢い家来だ。
でもやはり見えない。
彼は見栄を張って、布が見えるフリをしました。
本当は見えないことが正しいのです。そこには本当に何もないのです。全部詐欺師のウソでした。
しかし自分の愚かさを隠したい家来はウソに騙されたまま、王さまに報告しました。
「王さま、これこそ世界一素晴らしい布です。仕事も順調にはかどっております。」
待ちきれなくなった王さまは自分で見に行きました。
王さまも驚きました。何も見えません。
もしかして自分は王にふさわしくないのではないか。自分は愚か者だということが明らかになってしまったのではないか。
これは王さまが恐れていたことでした。
でも国の大事な仕事から逃げている本当の自分を見ることは恐ろしいです。
王さまも見えるフリをしました。「うむ、素晴らしい。満足である。」
周りの家来たちも話を合わせました。
その中の一人が、「王さま、この素晴らしい布で作られた服を召して、パレードをなさってはいかがでしょうか。」
皆賛成しました。
パレードの当日、仕立て屋は服を持ったフリをして王さまのもとに来ました。
「王さま、とうとう完成しました。これは最上級の布でできていますので、着心地も最高です。まるで何も着ていないように軽く、自然な着心地です。」
そして王さまの服を脱がせ、ズボン、服、マントを着せるフリをしました。
でも本当は裸です。
周りの家来たちは裸の王様を見ながら、素晴らしい服ですと褒めました。
マントのすそを持つ係は何もないのに、マントを持つフリをしました。パレードを見に来た人たちも、自分が愚か者だと思われないように見えるフリをしました。
互いに本当のことを隠します。
ところが1人の子どもが言いました。「王さま、裸だよ。」
その子の親は「すみません、子どもの言うことですから」と取り繕うとします。
しかし周りの人たちも、「そうだよな、やっぱり王さまは裸だよな。」と口々に言い始めました。
それでようやく、国中の人が安心して本当のことを言えるようになりました。
私たちは自分が正しい人間だと思いたいです。
それで自分の本当の姿、弱いところや汚いところがバレてしまうことを恐れます。
でも本当の自分が受け入れられていると知るとき、心に平安を得ます。
ありのままがさらけ出される
今日の本文は主がエルサレムを一人の罪深い娘の成長にたとえ、その裁きを宣言する場面です。
主はエルサレムちゃんを花嫁として迎え、美しく着飾らせ、豊かな食べ物で養いました。ところがエルサレムちゃんは主から与えられたものを使って姦淫をし、生まれた子どもをいけにえとしてささげました。それは母であるヘト人、姉のサマリア、妹のソドムより一層罪深いことでした。
そこで主は裁きを下します。人々を集め、エルサレムちゃんのありのままの姿をさらけ出します。
その後で主は、もう怒らないと約束します。
イスラエルは自分が神に選ばれた特別な民族だと思い上がっていましたが、主はそのありのままの姿をさらけ出します。
そして正義を行って変わらない愛を示してくださいます。
今日の本文を通して、世の人より一層堕落した自分の姿を知り、ありのままを受け入れる主の愛を知る私たちになることを期待します。
世の人より一層堕落している
まず今日の本文の43節から47節で『43 お前が、若い日々のことを思い起こさず、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、わたしもまた、お前の行いを頭上に報いる、と主なる神は言われる。お前はすべての忌まわしいことに加えて、この悪事を行ったではないか。44 お前についてことわざを語る者は、すべて、ことわざを用いてこう言う。『この母にしてこの娘あり』と。45 お前は、自分の夫と息子たちを捨てた母の娘であり、自分の夫と息子たちを捨てた姉妹たちの一人である。お前の母はヘト人、父はアモリ人である。46 お前の姉はサマリアであり、彼女とその娘たちはお前の北に住んでいる。また、お前の南に住んでいるお前の妹はソドムとその娘たちである。47 お前は彼女たちの道を歩んで、忌まわしいことを行ったばかりでなく、やがて、すべての道において、彼女たちよりもいっそう堕落した。』 とあります。
私たちは神の子でありながら罪を犯し、父なる神を悲しませる者です。
罪深い母と娘
主はエルサレムちゃんを裁きます。エルサレムちゃんが主から与えられたよいものを罪の道具、姦淫の道具にしたからです。
エルサレムちゃんを見た人は『この母にしてこの娘あり』と言います。日本語にも同じような言葉がありますね。
似たような表現で「親の顔が見てみたい」とか「カエルの子はカエル」などと言うことがあります。
親の姿を子どもが真似をするということです。周りの親子を見てもそうだなと思いますよね。
エルサレムちゃんの母はヘト人です。
母が夫や子を捨てたように、エルサレムちゃんも夫である主を捨て、子どもを火で焼いたのだと言います。
またサマリアが姉で、ソドムが妹だと言います。
サマリアは北イスラエルの首都です。
北イスラエルは金の子牛の像を作り、主を捨てました。アッシリアによって滅ぼされた後、移住してきた様々な民族と混ざり合って生まれたのがサマリア人です。
ソドムはゴモラと共に火と硫黄の雨で滅ぼされた町です。
49節で主はソドムの罪を指摘しています。『お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。』
ソドムは肥沃な土地でした。正確な位置はわかりませんが、低地にあり、作物が豊かに育つところだったと思われます。それで一部の人たちは食物に飽き安閑と暮らしていました。
その恵みを分かち合わず、貧しい者たちを助けることはありませんでした。
それどころか豊かな人たちは寄留者や旅人をも搾取し、みだらな行いにふけっていました。
サマリアやソドムは罪深い異邦人の代名詞のような存在でした。
聖なる国民
イスラエルはこのような異邦人を軽蔑していました。
サマリア人に対しては犬のような民だと言い、その土地を踏むことさえしませんでした。
イスラエルは、自分たちこそ神から選ばれた特別な民族であるという選民意識があります。聖なる国民なのです。
もっと罪深い
しかし主は、「お前は彼女たちの道を歩んで、忌まわしいことを行ったばかりでなく、やがて、すべての道において、彼女たちよりもいっそう堕落した。」と言います。サマリアの罪はエルサレムちゃんと比べれば半分以下だとも言っています。
サマリアはアッシリアの政策により、強制的に異邦人と混ぜられました。ところがユダヤは自ら進んで異邦人と混ざり合ってしまいます。
エズラの時代、捕囚から帰って来た民の指導者たちがそのような罪を犯しました。
国際結婚が悪いということではありません。
彼らは主を捨てたのです。
エズラはぼう然としてしまいました。
エズラの態度は主の心を反映したものだと言えます。
主の恵みで生かされていることを体験していながら、主を捨てるのか。
聖なる国民として祝福の源になるはずだったのに、逆にこの世に影響されてしまっている。
私たちクリスチャンは罪赦され、神の目から見て義とされています。
それで私たちは自分が正しい人間であるかのように思い上がっていないでしょうか。
世の人々を見ながら、あの人はタバコを吸う、お酒を飲む、偶像崇拝している汚れた人だと裁いていないでしょうか。
私たちはこの世に影響されるべきではありません。むしろこの地を勝ち取り、神の国を建て上げていくべきです。
ところが現実の私たちはこの世の影響を受けて、神様を知らない人のように流されて行ってしまいます。
父なる神と交わることができるのに、祈ることも御言葉を聞くこともしない。
イエス・キリストの十字架によって救われていながら、喜びも感謝もない。
聖霊が共にいるのに、その力を信頼しない。
そして自分は正しい人間だと思い上がって人を裁いているなら、偽善者のようです。
このような私たちを見て主はぼう然としていないでしょうか。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
一ペトロ2:9
私たちは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。
それは私たちが正しいからではありません。
一方的な恵みであり、その恵みを分かち合って神の栄光を現わすためです。
自分が正しい人だと思い上がって主を悲しませる者になってはいけません。
裸をさらす
また今日の本文の35節から41節に『35 それゆえ、姦淫の女よ、主の言葉を聞け。36 主なる神はこう言われる。お前が、愛を求める者と姦淫するために、欲情を注ぎ、裸をさらしたために、また、すべての忌まわしい偶像と、それにささげたお前の息子たちの血のゆえに、37 わたしは、お前がもてなしたすべての愛人たち、お前の好きだった者も嫌いだった者もすべて集める。わたしは彼らを至るところからお前のもとに集め、お前の裸を彼らにさらす。彼らはお前の裸をくまなく見る。38 わたしは、お前を淫行と流血のゆえに裁く。また、怒りと熱情をもって、お前の流血に報いる。39 更にわたしは、お前を彼らの手に渡す。彼らはお前の祭儀台を倒し、高い所を破壊し、お前の着物をはぎ取り、美しい飾りを取り去ってお前を裸にする。40 彼らは群衆を駆り立ててお前に向かわせ、石を投げさせ、剣で切りつけさせる。41 彼らは火でお前の家を焼き、多くの女たちの見ている前でお前を裁く。こうして、わたしはお前に姦淫をやめさせる。お前は二度と報酬を支払わない。』 とあります。
ありのままの姿をさらすのは恐ろしい刑罰です。
ありのままの姿
主はエルサレムちゃんに恐ろしい裁きを下します。
エルサレムちゃんが姦淫をした全ての愛人を集めます。エルサレムちゃんが好きだった者も嫌いだった者も全てです。
会いたくない人もいるでしょう。エルサレムちゃんを傷付け悲しませたような乱暴な男も全て集められます。
これはイスラエルの周りの国々のことです。
ユダヤ人が偶像崇拝した神々をまつる民や、同盟を結んだ国々が周りにあります。
エルサレムが陥落するとき、誰も助けてくれませんでした。エドムなどはエルサレムの破滅に便乗して略奪を行いました。
そのような冷酷な民が再びエルサレムの財宝を狙っています。
主は集められた男たちの前でエルサレムちゃんの裸をさらすと言います。ひどいですね。
現代ではこのような恥をさらす刑罰は人道に反するため禁止されています。どのような犯罪者でも、その人の人格や人としての尊厳は守られなければなりません。
主は恐ろしい裁きのたとえとして、裸をさらすという残酷な裁きを語っています。
裸というのはありのままの姿です。
ありのままをさらすというのは、恐ろしいことなのです。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ人への手紙4:13
主が全て知っているとしたらどうですか。恐ろしいことでしょう。
裸を隠す飾り
私たちは様々なもので自分のありのままの姿を隠しています。
自分を美しく見せようと着飾ります。
高い地位について自分を大きく見せます。
賢い人間のように、知っているフリをします。
よくできているように見せるために、やっていないこともやったと言います。
都合の悪いことがバレそうになると隠れます。
時には嘘をつきます。
私たちは本当の自分を隠すために、罪を犯します。
罪に罪を重ね、時には真実を知ってしまった人を殺します。
白く塗られた墓
私たちも隠したい自分の姿があるのではないでしょうか。
あって当然です。
私たちは皆完全な人間ではないので、弱さや足りなさ、汚さがあって当然です。
自分が不利にならないようにプライバシーを守る権利があります。
しかしプライバシーという言葉を盾に、人と人の間に壁を作りすぎていないでしょうか。
自分と他人を区別する境界線を引くことは大切です。
しかしただの境界線から垣根になり、塀になり、壁になる。
誰も近づくことができないように自分を閉ざしてしまう。
神様さえも締め出してしまう。
ここ数年、新しい友だちを作るのが本当に難しくなりました。
親しくなろうと思っても連絡先どころか、名前を聞くのも大変です。
そのまま行くと何が起こるでしょうか。
高くて立派な壁に覆われていて、外からはよく見えます。
でも中はゴミ屋敷になっているかもしれません。
墓のようです。
先週から家庭訪問をしています。
皆さんの部屋は大丈夫でしょうか。隠し続けていると、そこには誰も住めなくなります。
ゴキブリやネズミにとっては快適な環境かもしれません。
そのまま行くと、自分を愛して近づいて来る人がいても拒んでしまいます。
私たちの心も、弱さ、足りなさ、汚さを隠し続けていないでしょうか。
主の愛を締め出していないでしょうか。
そのような心は悪霊に快適な環境を提供することになります。
心が休まるとき
最後に今日の本文の42節で『42 わたしがお前に対する怒りを静め、わたしの熱情がお前から離れるとき、わたしの心は休まり、もはや怒ることはない。』 とあります。
主は正義を行い、変わらない愛を示します。
正義を行う
正義を行うというなら、罪は罰しなければなりません。
罪があるのに罪がないと言うことは正しくありません。
逆に、罪がないなら罰してはいけません。
冤罪はあってはならないことです。
昨日浜松駅で署名活動が行われていました。
袴田巌さんは死刑囚として48年間も牢屋に入れられていました。しかし袴田さんを有罪にした証拠は捏造されたもので、自白も強要されたことがわかりました。
それで4年前の裁判で、「この人が拘束され続けているのは正義に甚だしく反する」ということで釈放されました。
それでも検察が控訴し、袴田さんは死刑囚のままです。
根拠がないのに死刑囚にされるというのは、あってはならないことです。
正義の神は正しい裁きを下します。
エルサレムちゃんが罪を犯しているなら罰しなければなりません。
そこで主は恐ろしい裁きを下しました。
心休まる
すると主は「わたしがお前に対する怒りを静め、わたしの熱情がお前から離れるとき、わたしの心は休まり、もはや怒ることはない。」と言います。
正義を行えば神は満足します。心休まります。
エルサレムちゃんに対して怒ることはなくなりました。
主は罪を憎むのであって、罪人を憎んでいるわけではありません。
むしろ罪人である私たちをありのままで愛しています。
血の中でもがくエルサレムちゃんに生きよと言われた神は、罪の中でもがく私たちに生きよと言われます。
もう怒らない
イエス・キリストの十字架によって、罪の刑罰はすでに完了しました。
最後の審判が待っていますが、私たちは裁かれることなく、死から命に移っています。
ありのままで受け入れられているので平安に生きられます。
ありのままの自分は弱く足りなく汚い存在です。
血の中でもがく赤ちゃんのような私たちを、主はそのままで愛しています。
15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブライ人への手紙4:15-16
私たちと同じように人間として地上の人生を歩んだイエス様は、人間の弱さ足りなさ汚さをよく知っています。
それを知った上で、私たちを受け入れています。
そして主は私たちの弱さ足りなさ汚さを解決することができます。
だから弱く足りなく汚れたときこそ、大胆に神様のもとに行くのです。
ありのままで愛する主のもとに帰るとき、本当の平安を得ます。
私たちは義とされていますが、相変わらず罪があります。ありのままの自分を見せたくないと思えてきます。
そんな私たちを主はありのままで愛しています。
ですから主の前に進み出て、自由と平安を得てください。