こんな救い主はイヤだ
マルコによる福音書 14:1-11
1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
こんな教会はイヤだ
牧師が福音ではなくエヴァンゲリオンについて熱く語る。

エヴァンゲリオンのアニメ放送30周年を記念して、浜松市役所にエヴァ初号機の像を置くそうですよ。
これに乗っかって私たちの教会でも…。
あまり牧師の趣味全開だと嫌ですよね。
でも逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ。
これはどうでしょう。
聖餐式がピザとファンタグレープ。

むしろ毎週行きたくなる?
これは本当に行きたくない。
行くのに命がけな教会。

これは実際エチオピアにある教会で、岩山の上の方にある洞窟に作られています。断崖絶壁を命綱もロープもなしで登っていきます。
その名もアブナ・イエマタ教会。
いかにも危ない感じの教会です。
もっと行きやすい教会を作りましょう。
バーチャル空間にある教会。

これも実際にあって、VR Church と言います。
VR空間に集まって礼拝をささげ、聖書勉強もあり、洗礼も授けているそうです。
実際に集まることが難しい場合のための補助的な役割ならいいと思いますが、これを教会と言えるのかは議論が必要です。
バーチャル空間の洗礼は有効なのか?
オンライン礼拝も以前は議論の対象でしたが、礼拝のひとつのかたちとして受け入れられつつあります。
昔は教会でバンドの演奏などあり得ませんでしたが、今はライブハウスのような教会もあります。
こんな教会は嫌だと思っていても、いつかそんな教会もアリだと思えるようになるかもしれません。
しかし自分の思い描く教会のイメージと実際の教会の差が大きいと、私たちはその教会にいたくなくなります。
自分の思い描く神様と実際の神様の差が大きいと、私たちは神様を捨てます。
神の子を殺そうとする宗教指導者たち
イエス・キリストがエルサレムに入ってからの1週間を見ています。
先週は火曜日になったところまで見ました。泊まっていたべタニアの家からエルサレムに行く途中、いちじくの木が枯れていたというところまでですね。
その後イエス様はまた神殿に行って、祭司長や律法学者たちと色々な議論をしたり、たとえ話を話したりしました。
そして神殿の崩壊を予告しました。
そんなことがあって日が暮れて、水曜日になりました。
祭司長や律法学者たちはイエスを妬み、始末したいと考えています。
言葉尻を捕えてイエスを非難しようとしましたが、ことごとく失敗しました。
神殿を荒らしただけでなく、この立派な神殿が崩れるなどと言ったイエスをもう生かしておくことはできません。なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうとします。
しかし民衆はイエスを救い主メシアだと信じています。多くの人が集まっている過越祭の間はやめておこうと考えていました。
祭司長や律法学者たちは、自分たちが神の側に立っていると考えています。
そしてその立場を脅かすイエスを、神に敵対する者だと思います。
神殿や儀式といった宗教的なものは守らなければならない。
神は十戒で「殺すな」と命じていますが、神の敵を殺すことは彼らにとって正義です。
自分たちが神の独り子を殺すという神への最大の反逆を計画しているなどとは思いません。
自分の神観に合わない神を捨てる
ナルドの香油を注がれる

イエス様はべタニアで、重い皮膚病の人シモンの家に招かれ、食事をしていました。
そこに一人の女性が、非常に純粋で高価なナルドの香油の壺を持ってきました。
そしてその壺を壊し、香油をイエス様の頭にドバドバと注ぎかけました。
こういう使い方をするものではありません。数滴つけるだけで十分良い香りがします。もったいない!この女性はナルドの香油の価値を知らないのだろうか。
何人かが憤慨して言います。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
その通りです。ナルドの香油の正しい使い道を知らないなら、売ってお金に変えればいい。少なくとも300万円にはなる代物だ。そして貧しい人たちに施しをした方が有意義ではないか。
そして女性を厳しくとがめます。「何してんの?香油はこうゆう使い方をするものじゃないでしょ!先生が油ギットギトの香りムンムンになっちゃたじゃない!先生もお怒りですよ。ねえ、イエス様」
ところがイエス様は「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」と、怒るどころか評価しています。
ユダの裏切り
この出来事の後、十二弟子の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところに出かけていきます。そしてイエスを捕える手伝いをすると申し出ます。
何があったのでしょう。
イエス様の弟子たちは、イエス様がメシアであると信じています。
しかし彼らにとってのメシアは、ダビデの王座を立て直しローマ帝国の支配を打ち破るイスラエルの王です。
そして自分たちもイエス様と並んでイスラエルを治める大臣になると期待しています。
ところがイエス様はエルサレムに入るとき、何に乗って来ましたか。
ロバの子です。イ~ヨ~とマヌケな声で鳴くロバです。
王様なら堂々とした馬に乗るべきでしょう。
イスカリオテのユダは弟子たちの中で会計を任されていました。
ヨハネはユダが財布の中身をごまかしていることを知っています。
そして香油を売ればよかったと言い出したのもユダです。
彼は貧しい人たちのことを考えていたわけではありません。香油を現金に換えれば、その内の何%か取ってもバレないだろうという考えです。
彼の心はそういう物質的なところにひかれています。
彼にとって、この女性のしたことは無駄遣いでしかありません。イエスが油ギットギトの香りムンムンになったところで、自分たちに何の益もない。
ところがイエス様はこの女性のしたことをほめています。
そこでイスカリオテのユダは気づいたことでしょう。
こんな救い主は嫌だ。
自分は政治的な地位や物質的な豊かさを得ることを期待して、イエスをメシアだと信じてきた。
しかしこの人について行ってもそれは得られない。
イエスに期待を裏切られた。
それなら自分もイエスを捨てよう。
人それぞれの神観がある
私たちはそれぞれの神観を持っています。「神とはこういうお方だ。神はこうあるべきだ。」
たとえば、神は愛です。
「愛の神様なら私の祈りに応えるべきでしょう。」そういう都合のいい神を作ります。
すると私たちはこう思います。「なぜ願った通りにならないのか。神のために時間を割いたり献金をささげたりしているのに、なぜ神は私の思う通りにしないのか。それなら自分の願いを叶える他の神を作ろう。」
ある人は、神は人を監視する恐ろしい存在だと思う。
正義の神は悪を放っておかない。「正しく生きないとバチが当たる。あの不幸な出来事があったのは、私が神を怒らせたからだ。」
こういう人は他の人が間違ったことをしているとき、その人にも神の怒りが臨むことを願います。「あの人は神を信じないから天罰が下った。ざまあみろ。」
しかし不正を行っている人の方が繁栄しているように見えることがあります。
すると「なぜ神は不正を放っておくのか。こんな神は正しくない!」
またある人は、神は死んだという神観を持っています。
どのような神観が正しいのでしょう。
どの神観も間違っています。
神様は、私たちの理解に納まるようなちっぽけな方ではないからです。
天地万物の創造主は、私たち人間の理解をはるかに超えて偉大なお方です。
だから「神とはこうあるべきだ」と神観を固定した時点で、それはいつも間違いになります。

そして人は自分の神観に合わない神を捨てます。
こんな救い主は嫌だと、神の子を裏切り、殺すのです。
神観を捨て、神を見上げる
捨てるべきは神様ではなく、自分の神観です。
ロバの子に乗り、茨の冠を被り、葦の棒を持った男をこの世界の王の王、主の主として受け入れるのです。
人々は十字架上のイエスを見て嘲笑います。「おい、メシア。救い主なんだろ。主よ、私を救って~。それならまず自分を救ってみろよ!」
そんな人々のためにイエス様は祈ります。
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
ルカによる福音書23:34a
このお方を見上げるとき、私たちはあらゆる神観を打ち砕かれ、「本当に、この人は神の子だった」と告白せざるを得なくなります。
神の前で愚かな者になる
香油を注いだのは誰か
ナルドの香油を注いだ女性の名前を、マルコは記していません。
しかしヨハネは、これがべタニア村のマリアだったと記録しています。
他の弟子たちも一緒にいました。彼らもマリアのことはよく知っています。だから他の人と間違えたり、忘れたりするとは考えにくいです。
マルコによる福音書はペトロが話したことをマルコが記録したと言われています。
マルコ自身もこの時点では一緒に行動していたかもしれません。
だからペトロもマルコも、あえてマリアの名を出さなかったのではないかと思います。
それはこの行為を、べタニアのマリアという個人がした過去の行為にするのではなく、福音書を読む私たちの行為にするためではないかと思います。
私たちもそうするようにと招かれているのです。
人生を支える固定観念
皆さんも300万円の香油をささげなさい。
ということではありません。
マリアにとってこの香油はとても大事なものだったはずです。それをイエス様のために惜しまずささげました。
私たちも自分の大切なものがあります。
人生を支える価値観があります。こうあるべきだ、こうすべきだという固定観念です。
それを捨てる、つまり固定観念から外れたことをするのは愚かなことだと思います。
マリアだって自分のしたことが常識外れであることは知っていますよ。でも神様の前で愚か者になるのです。
私たちには、教会はこうあるべきだ、こういうことをするべきだという固定観念があります。
しかしその教会観では福音が届かないところがあります。
日本のクリスチャン人口は1%の壁を超えられていません。
私たちがこんな教会はあり得ないと思っていた固定観念を捨て去るとき、開かれる福音の門があります。

また私たちは男として女として、夫として妻としてこうあるべきだという固定観念を持っています。
それは自分の育った文化や環境の影響を強く受けています。
他の人には他の固定観念があります。
しかし自分の固定観念の中で他人を見て、裁きます。
なぜ夫(父親)のくせにこれをしてくれないのか。あいつは妻(母親)のくせにこんなこともできないのか。
子どもたちに対しても、自分の固定観念を押し付けてしまいます。
神は違いのある私たちを結び合わせて夫婦にし、血はつながっていても全く別人格の子どもたちを任せてくださっています。
自分の固定観念を捨てなければ、家族を愛することはできません。
人には愚かに思えることが神の働きを助ける
固定観念から外れたことをするのは愚かに思えます。
しかし人の目に愚かに見えることが、神様の働きを助けることにつながります。
マリアのした愚かな行動が、埋葬の準備になったとイエス様は言います。
当時は人が亡くなったとき、その遺体にも香油を塗りました。
イエス様は頭から香油をドバドバ注がれていますから、その香りは簡単には取れなかったでしょう。
この2日後に十字架で死なれ、墓に葬られた時にもナルドの香油の香りは残っていたのではないでしょうか。
私たちがキリストのために愚かなことをするなら、神はそれをご自分の栄光のために用いてくださる。
私たちが自分の思いを捨ててイエス様に従うとき、私たちからキリストの良い香りが放たれていきます。