エゼキエル書講解15
ささやかな聖所
エゼキエル書 11:14-25
14 主の言葉がわたしに臨んだ。15 「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』16 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』17 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。18 彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。21 しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。22 そのとき、ケルビムは翼を広げ、車輪もまた共に行った。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。23 主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった。24 霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。こうして、わたしの見た幻は、わたしを離れて上って行った。25 わたしは、主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた。
ささやかなプレゼントで愛を伝える
プレゼントを贈ることはとてもよいことです。贈る側は愛や感謝を表現する機会になります。受ける側も恵みを体験する機会になります。Win-Winの関係です。誕生日のようなお祝いとか、病気のお見舞いとか、あらゆる機会にプレゼントを贈ったらいいと思います。
日本には昔からプレゼントを贈る習慣がありました。日本各地に特徴的なお土産があります。旅行に行くときに、家族のためにお土産を買って帰ることも旅行の楽しみの一つです。またお中元やお歳暮など、季節ごとにプレゼントを贈って挨拶する習慣もあります。クリスマスも本来の意味よりプレゼントの方に焦点が当てられ定着しています。バレンタインデーも女性が男性にチョコレートを贈る日として定着しています。
プレゼントはいいものです。ですからバレンタインというきっかけを利用して主の愛と恵みを表現することもいいと思います。
私は、バレンタインデーは好きです。しかしバレンタインデーをプレッシャーに感じる人もいます。心から感謝を込めてプレゼントをするというのではなく、女子だから、仕方なく、チョコレートを贈らなければならないと思ってしまう人がいます。これは悲しい話です。せっかくのよい習慣がストレスになってしまう。もしこれでチョコレートが嫌いになる人がいたら、残念です。
義理チョコのような形式的なものはなくてもいいです。たくさんなくてもいいです。高価なものでなくてもいいです。ささやかな形でも、プレゼントを通して主の愛が伝わればいいです。
エルサレムの幻の終わり
今日の本文はエゼキエルが捕囚になって6年目の6月5日、エルサレムの幻の最後の場面です。
エゼキエルの目の前でペラトヤが死んでしまいました。続けて主の言葉が臨みます。捕囚の民は主から見捨てられたのではありません。捕囚の地で主ご自身がささやかな聖所となっていました。主は彼らを連れ帰り、新しい霊を与えます。彼らは主を知り、主の掟に従って生きます。こうして彼らは神の命に生かされます。
主の栄光は神殿から去り、エゼキエルは現実に戻ります。もはや遠く離れた神殿には何の力もありません。捕囚の地に神殿はありません。しかし主がささやかな聖所となって共におられます。
今日の本文を通して、主が私たちと共におられることを知り、私たちの内におられる聖霊によって、生活の現場で主の栄光を現わす私たちとなることを期待します。
主が共にいる
まず今日の本文の14節から16節で『14 主の言葉がわたしに臨んだ。15 「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』16 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』』
主はささやかな聖所となって私たちの間におられます。
見捨てられたような捕囚民
エルサレムの住民たちは捕囚民に対してこのように言っていました。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』これは、捕囚にあった民は神から見捨てられたのだという考えから来ています。
捕囚の民が神殿から遠く離れてしまったのは、神から見捨てられた証拠だ。捕囚民が持っていた土地は主が取り上げた。エルサレムの土地は、残された民に与えられたのだ。
私たちもこの世で生きながら、神から見捨てられたように感じることがあるかもしれません。
この世界は人間の罪のために壊れています。悲惨です。大きな失敗や挫折を経験することがあります。深い悲しみに襲われることがあります。神は本当に私を愛しているのだろうかと疑いたくなることもあるでしょう。
私はこのような寒い日が続くと、神から見捨てられたような感じがします。
神から見捨てられたらどうしますか。
私たちは霊的な存在なので、神なしでは生きられません。
他のものを神にしてしまいます。人の作った神、お金、人、自分自身などを頼りとします。
神は見捨てていない
主はこのように言われます。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』
捕囚の民は確かに主が諸国に散らしました。しかし神は彼らを見放してはいない。主ご自身がささやかな聖所となってくださいました。
聖所とは、神殿の奥にある部屋です。そこには神の箱があり、その上に翼を広げたケルビムの像があります。主の栄光はそのケルビムの翼の上にあると考えられていました。
捕囚の地では主がささやかな聖所である。そこに立派な神殿はありません。神の箱もケルビムの像もありません。しかし主は共におられるという約束です。
エゼキエルがこの幻を見たのは、自分の家に長老たちが集まっているときでした。そのように主の名によって集まるところに、主も共にいてくださいます。
誰にも離せない神の愛
これは今も変わらない約束です。
インマヌエルの神であるイエス・キリストは私たちの間に住まわれました。
今日もこの場に主は共にいてくださいます。
私たちがどのような状況にいようと、主は共にいてくださいます。
そのとき、私たちは何も恐れるものが無くなります。
12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。
イザヤ書8:12-13
この世が私たちを恐れるさせるものは恐れるべきものではありません。
それがどのような力を持っていようとも、神の愛から私たちを引き離すことはできません。
ただ神のみを畏れるべきです。
この畏れという言葉は、ただ「恐い」と言って怯えることではありません。
神がどのような方かを知り、「ああ、神はなんと素晴らしいお方だろうか」とひれ伏すことです。
驚くべきことに神は私たちを見捨てないと約束しています。
この圧倒的な神の愛を知るとき、何も恐れるものはありません。
イエス・キリストは世の終わりまで私たちと共におられます。
新しい霊を授ける
また今日の本文の17節から21節で『17 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。18 彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。21 しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。』 とあります。
主の霊が私たちの中に内住しておられます。
一つの心
続けて主はこう言われます。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。』
捕囚の民は決して神から見捨てられたのではありません。
ですからエルサレムの土地は残っている住民のためにあるのではありません。
むしろ残っている民はこの地を憎むべき偶像や忌まわしい行いで汚している。
そこで主は散らされていた民を呼び集め、イスラエルの土地を与えると約束しています。
そのとき主は一つの心を与えると約束しています。それは主を知る心、主を畏れる心です。
そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。
エレミヤ書24:7
主がどのようなお方であるかを知るとき、私たちは主のもとに帰って来ます。
肉の心
どうすれば主を知ることができるでしょうか。
主がどのようなお方かは聖書に書いてあります。聖書を読めばわかるはずです。
ユダヤ人たちは聖書を学びました。しかし主を知ることはできず、イエス・キリストを殺してしまいました。
彼らは石の板に書かれた文字、律法を学びました。彼らの心も石のように硬くなり、主を受け入れることができなかったのです。
私たちはよく学ぶ者でなければなりません。
子どもたちや学生たちだけに言っているのではありません。むしろ子どもの方が学ぶのが上手いです。まるで柔らかいスポンジのように知識を吸収していきます。
子どもとしりとりをすると、そんな言葉よく知っているなと驚かされます。大人の方が負けてしまいます。
大人になると心が硬くなってしまって、吸収できなくなってしまいます。老化現象です。
福音も同じです。年をとってから福音を聞いても、色々なことが気になって吸収できません。「天地創造?神が人を造った?そんなわけあるか。ビッグバンだよ、人は猿から進化したんだよ。常識だ。おとめマリアが妊娠するわけないだろ。」
しかし子どもは素直です。主日学校や幼稚園で聞いた話もよく覚えています。子どものように純粋に神の国を受け入れられたら素晴らしいです。
そこで主は『彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。』と約束しています。
肉のように柔らかい心で御言葉を受け入れることができます。
それは新しい霊、聖霊の働きによるものです。
誰も自分の力で主を知ることはできません。聖霊の働きによらなければ、誰もイエスが主であるとは言えません。
それは墨やインクで得られる知識ではなく、聖霊によって教えられる知識です。
石の板に刻まれたものではありません。私たちの心に書かれます。
33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31:33-34
これは新しい契約です。
掟に従い命を得る
主が新しい霊を授ける理由は、『彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。』 と言っています。
主が望んでいることは、私たちの頭上に災いが降りかかることではありません。私たちが主の掟に従い、命を得ることです。
主の掟とは何でしょうか。
旧約時代には律法がありました。ところが私たちは罪人であり、誰も律法に従うことはできません。
ただ一人、完全な神であり完全な人として来られたイエス・キリストだけが、律法の要求をすべて満たしました。そして罪の代価として十字架で血を流し死なれたことで、主は私たちの罪を赦し、再び罪に心を留めることはしないと約束してくださいました。イエス・キリストの十字架の血潮が、神と私たちとの新しい契約の血です。イエス・キリストは死んで3日目に復活されました。死の力を破り、信じる者に新しい命、朽ちることのない永遠の命を与えてくださいます。
すると、主の掟に従い命を得るとはどういうことになるでしょうか。
私たちの罪のために死なれ復活されたイエスを主として信じることです。私たちが悔い改め罪を取り除くとき、主は私たちの頑なな心を取り除いてくださいます。
主が今日も私たち一人一人の心を聖霊様で満たし、イエスは主であるという信仰を与えてくださることを願います。
幻は去った
最後に今日の本文の22節から25節で『22 そのとき、ケルビムは翼を広げ、車輪もまた共に行った。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。23 主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった。24 霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。こうして、わたしの見た幻は、わたしを離れて上って行った。25 わたしは、主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた。』 とあります。
私たちはこの世の現実の中で主の栄光を現わす存在です。
栄光が去る
主が語り終えると、ケルビムは翼を広げました。
イスラエルの神の栄光はケルビムの翼の上にあります。
そして都から離れ、東の山の上に去って行ってしまいました。
神殿の中の聖所にあるはずの神の栄光が、都から東の方へ出て行ってしまったのです。神殿から主の栄光は失われてしまいました。
昨日は節分でした。冬から春へと変わる節目になる時期です。
一部の地域では恵方巻という風習があります。恵方と呼ばれるよい方角があって、その方角を向きながら大きなのり巻きを食べます。その間、しゃべってはいけません。罰ゲームのようなイベントです。
今年の恵方は南南東だったそうです。
ユダヤ人にも恵方のようなものがあります。それは東です。
主の栄光は東の方に出て行ってしまいました。東の方に行ったなら、帰って来るときも東から来るでしょう。
友達が東京に旅行に行ったはずなのに、帰りは名古屋から帰ってきたら「あれ?」となりますよね。
詩編やイザヤ書でメシアの到来が夜明けにたとえられるのは、朝日が東から昇るようにメシアも東から来られるという信仰に関連しています。
エゼキエル書43章では主の栄光が東の方から帰って来る様子が描かれています。
イエス・キリストはオリーブ山を越えてエルサレムに入城しました。オリーブ山は、エルサレムの東にある山です。
カルデアに戻る
エゼキエルは再びカルデアの地、バビロンに連れて行かれました。そして幻はエゼキエルから離れて昇っていきました。
この一連の出来事は幻でした。エルサレムで行われていた忌まわしいことも、破壊する男たちも、エルサレムの上にまかれる炭火も、ペラトヤの死も、神殿を去った主の栄光も幻です。
しかし幻だからと言って忘れることはできません。主が見せた幻です。
これらのことは全て現実になりました。主の栄光は去ったのです。
捕囚の民は相変わらずエルサレムに帰る日を待ち望みながら、神殿の方を向いて祈っていました。
しかしそのような虚しい希望はもはや意味がありません。彼らが夢見ているエルサレムはあらゆる忌まわしいことで汚れている。そして神殿に主の栄光はなく、ただの石の塊になっている。
だとしたらもう神殿を頼ることをやめて、この現実に向き合うべきではないか。
捕囚民に語る
エゼキエルが現実に戻ると、そこにはユダヤの長老たちが座っています。エゼキエルの家に集まり、主の御言葉を求めている人々です。エゼキエルは主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせました。
私たちはこの現実の世界で生きています。
イエス・キリストはすぐに来ると言いました。再臨は必ず来ます。世界の状況を見れば、戦争の危機があり、日本でもフィリピンでも火山が噴火している。もうこの世の終わりではないかと思えてきます。だとしたらもう働くのを止めて教会で祈っていた方がいいと思うかもしれません。
そうではありません。私たちはこの現実の世界に遣わされています。この世で果たすべき使命があるから、この世で生かされています。
私たちは幻を通して啓示を受けることはありませんが、聖書を通して今も生きておられる主の声を聞きます。
私たちの目の前の人々、家族、友人、同僚たちに語るべき言葉が委ねられています。
主の栄光はどこに行ってしまったのでしょうか。神殿から去った主の栄光は、私たちと共にあります。神の霊が私たちの内に生きて働いています。そして私たちを通して主の栄光が現されていきます。
神殿のような立派な外見や、サムソンやエリヤのような力はないかもしれません。土の器のように欠けだらけでひびが入っているかもしれません。しかしそのような足りない私たちだからこそ、この内にある宝、神の栄光は隠すことができません。
私たち一人一人が、この世にあってささやかな聖所なのです。
主は決して私たちを見捨てません。
主を畏れ、イエスは主であると信じるとき、私たち一人一人がささやかな聖所となります。
この世の人生を通して神の栄光を現わす私たちになることを願います。