ただ恵み ただ信仰

ただ恵み ただ信仰

エフェソの信徒への手紙 2:8-9

8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

自分をどうにかして変えたいともがく

変装して変わったつもりになる

 10月31日がハロウィンだというのは日本でも知られるようになりました。カボチャのおばけを飾ったり変装したり、「トリック・オア・トリート(お菓子をくれないとイタズラしちゃうぞ)」と言ってお菓子をもらったりします。
 浜松駅の前なども変装した若者たちがワイワイ集まります。誰かが何かイベントを企画しているわけでもないのに自然発生的に集まります。楽しいんでしょうね。
 私も小さい時に仮面ライダーに変身したつもりで遊んでいました。いつもの自分とは違う何かになった。するとかっこよくジャンプしてライダーキックができる気になります。
 でも実際は子どものままなので、羽目を外すと痛い目にあいます。
 ハロウィンを楽しむかどうかは個人の自由だと思いますが、自分を見失って痛い目にあったり、社会性まで失って騒ぎを起こすようなことはしないでほしいなと思います。
 後でお菓子をあげますからイタズラはしないでください。

行いで救いを勝ち取りたい

 私としては10月31日は宗教改革記念日であるということを推していきたいです。
 カトリック教会には煉獄という教理があります。煉獄は天国と地獄の中間のような場所。イエス様を信じる人は罪赦されていますが、天国に入るために霊魂は煉獄で苦しみ、清められる必要があるという教えです。
 煉獄での苦しみは祈りや善い行いなどでポイントを稼ぐと軽くなります。
 ポイントの証明書として教会は贖宥状を発行しました。
 後にこのポイントは煉獄で苦しむ死者に贈ることもできると解釈されました。
 そして教会は贖宥状をお金で売り買いするようになります。司祭たちは、贖宥状を買ったお金のチャリンという音で煉獄にいるご先祖様の霊が天国に入るなどと教えました。
 聖書にそのような教えはありません。
 ○○協会の霊感商法みたいなものです。
 1517年10月31日、マルティン・ルターはこのような教会の腐敗を95ヶ条の論題で批判します。
 この紙切れがラテン語からドイツ語に翻訳され印刷されたことで、宗教改革の発端になったと言われています。

 私たちの中には変わりたいという願望があります。自分の弱さ足りなさ醜さを隠したいと思います。
 しかし変装しても自分の内面は変わらないし、行いで変えることはできません。
 どうにかして変わりたいともがく私たちに、この世は間違った救いを提供します。
 どうすれば私たちは救われるのでしょう。

恵みにより信仰によって救われる

本来のデザインは壊れ神の怒りを受けるべき者になった

 パウロはエフェソの信徒への手紙の2章で、人は生まれながらに神の怒りを受けるべき存在だと言います。
 ありのままの自分を正直に見つめてください。
 神との愛の関係は失われ、この世で悪霊の支配下にありました。
 命の源である神から離れ、命を失っていました。
 神が願う生き方ではなく、自己中心的に生きていました。
 この状態はどこかおかしい。こんなはずではなかったのにという思いがわいてきます。
 そうです。これは神が願った状態ではありません。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

エフェソの信徒への手紙1:4

 神は、この世界が造られる前から私たちを愛して、聖なる汚れのない者としてデザインしておられたのです。
 それなのに人は自ら神に背き、罪を犯しました。

 造られたものが本来の役割を果たさなくなったらどうしますか。
 靴は足を守り歩きやすくするために造られました。
 もし靴底の部分が取れかけて、歩くたびにパカパカ開き、つま先が外に飛び出してしまうような靴があったらどうしますか。
 私が中高生だったときに履いていた靴がそうなりました。どんなにお気に入りだったとしても、だんだんイライラしてきて、ゴミ箱にぶち込みます。
 私たちも神に愛される存在だったのに、壊れ、神の怒りを受けるべき存在になってしまいました。

救われる資格のない者が恵みで救われた

 しかし神の愛は無条件です。
 神は、人が聖なる汚れのない者だから愛してくださったのではありません。初めから、私たちが生まれるずっと前、世界が造られるより前から、愛してくださっていました。
 何があっても愛し抜くという愛の決意です。
 それで神は私たちが罪人であったにも関わらず独り子イエス・キリストの十字架によって救い、復活のキリストと共に生かしてくださいました。

 私たちがどのような存在かに関わらず与えられるもの、受ける資格のないのに与えられるものを「恵み」と言います。
 私たちが神に愛されるのも恵み、救われたのも恵みです。
 救いを受ける資格など全くありませんでした。救いはただ恵みです。神様からの賜物、プレゼントです。

信仰で受け取る

 しかし素直に受け取れない思いがあります。自分にはこのプレゼントを受ける資格などないのです。

 先日私はある方からメールをいただきました。3000万円を私に譲りたいという内容でした。
 私はこの方を知りませんし、お金をもらう資格などありません。まさに恵み。
 すぐゴミ箱に入れました。
 明らかに詐欺です。
 タダほど高いものはないという言葉もあります。だから救いが恵みだと言われても「そんなうまい話があるはずはない」と警戒してしまいます。

 何か納得できる理由が欲しいです。
たとえば罪の赦しは恵みだけど罪から清められるためには煉獄で苦しむとか、善い行いをするとか、たくさん献金をして贖宥状を買うとか。
 こうして救いを受ける理由を作ろうとします。

 ところがこれでは救いが恵みではなく、人間の行いの報酬になってしまいます。
 救いが人間の手で勝ち取れるものなら、イエス様が十字架で死ぬ必要などなかったではありませんか。
 イエス様が十字架で死なれたのは、そうするしか救いが成し遂げられなかったからです。人がそこに付け加えることはありません。

 プレゼントが目の前に差し出されたなら、受け取るために何かを頑張ったり、代金を用意したりする必要はありません。そんなことをしたら贈る側が悲しくなります。
 プレゼントはただ感謝して受け取ればいいです。

5つのソラ

 神様の約束から離れて人間の納得する答えを探すとおかしくなります。神の言葉が記録された旧新約聖書のみが私たちの信仰と行いの唯一の基準です。
 私たちの救いは人となられた神、イエス・キリストによって成し遂げられました。
 救いはただ恵み。
 この神様からのプレゼントを受け取るために必要なことは神様の約束を信じること。ただ信仰です。
 誰も救いを誇ることはできません。ただ神のみが栄光を受けます。

 Sola scriptura(聖書のみ). 
 Sola fide(信仰のみ).
 Sola gratia(恵みのみ).
 Solus Christus(キリストのみ).
 Soli Deo gloria(神にのみ栄光を).

神の作品として善い業を行う

本来のデザインに回復した

 パウロは私たちが救われたのは神の作品として善い業を行うためだと言います。
 罪のために壊れた私たち、ゴミ箱にぶち込まれても仕方なかった私たちが、イエス様によって救われました。
 神に愛される子どもになり、神様と共に歩む豊かな命に満ちあふれ、神の御心を行う力を得ました。
 これは靴底に接着剤をつけたようなごまかしや、ヒーローやヒロインの変装のようなものではありません。
 新しく造られたのです。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

コリントの信徒への手紙二5:17

 壊れた神のかたちが回復されました。神にデザインされた最高に美しい本来の自分になりました。
 実際は罪の性質がまだ残っているので、同じ過ちを繰り返すことがあります。
 それでも私たちは日ごとに聖霊の助けによって、栄光から栄光へとキリストに似た者に変えられていきます。

本来の価値を発揮したバイオリン

 オークションに1つのバイオリンが出されました。乱暴に扱われ傷だらけです。
 司会者が持ち上げ「この古びた楽器はどうだい。1000円からだ」と言うと「2000円!」と声が上がりました。

 …そして沈黙。

 たったの2000円?
 「2000だよ。誰か3000はいないか?」

 …「3000」

 …「他になけりゃ3000円で決まるよ。」

 …もう客席から反応はありません。

 そのとき、客席の後ろから白髪の老人が進み出てきました。
 彼は弓を取り、バイオリンを受け取ってホコリを払い、緩んだ弦を締めました。
 そしてオークション会場に心にしみるバイオリンの音色が響き渡りました。

 演奏が終わり、バイオリンと弓は司会者に返されました。
司会者が厳かに「さあ皆さん、この年代物のバイオリン、いくらから始めましょうか。」と言うと、「100万!」「200万!」と声が上がりました。
 「200万だよ。誰か300万はいないか?」

 …「300万!」

 …「他になけりゃ300万円で決まるよ。」

 ここで1人の客が言いました。
 「わからんな。同じバイオリンなのに何で価値がそんなに上がったんだ?」
 すぐに答えが返ってきました。
 「マスターの業さ!」
  乱暴に扱われ値踏みされたバイオリンも、熟練したマスターの業で本来の価値を発揮できます。

ただ恵みただ信仰で救われた私たちを通して世界は美しくなる

 罪と悲惨に満ちたこの世界、悪霊の支配下にあった私たちは本来の価値を失っていました。
 そんな私たち一人一人をイエス様は探して救い出しました。
 ただ恵み、ただ信仰で救われます。
 今や私たちは造り主の手に取り戻されています。マスターである創造主の業により、本来の価値を発揮できます。
 神の作品として善い業を行うのです。
 私たちを通して世界に美しい音色が響き渡ります。
 命の水があふれ流れ、すべてを生かします。
 神の栄光が現わされ暗闇を照らします。

 ルターが貼り出した紙切れが人々を神の言葉に立ち帰らせ、教会を変革し、世界を変えました。
 私たちは自分をごみ箱に捨てられる紙くずのように感じているかもしれません。
 そのような私たちでも、恵みにより信仰によって救われて、世界を美しく変えていきます。

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