使徒言行録講解58
ちゃんと休もう
使徒言行録20:7-12
7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。12 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
ちゃんと休んでますか?
とても暑い日が続いています。昨日は浜松市の最高気温が39.7℃だったそうです。命の危険を感じる暑さです。涼しい室内で過ごしたり、水分補給をこまめに行ったりして熱中症対策をしましょう。山や川に行くのもいいですね。
ちゃんと休むことは、人が生きていく上でとても大切なことです。
今ちょうど夏休みやお盆休みという人も多いと思います。この休みの期間にちゃんと休んで、また仕事や勉強を頑張る力を蓄えておきたいですね。
では、ちゃんと休むとはどういうことでしょうか。
ひたすら寝ること?
もし余裕があったら試してみたらいいです。休みの日に、ひたすらゴロゴロ寝ながら過ごす。そうすると体が重くなってきます。体に根っこが生えたみたいに、布団から出られなくなります。そうすると休み明けがつらいですね。
これはダメな休み方です。
でも休むと言ったらこういう姿を想像する、という人いませんか?
休むことは怠けることだと思ってしまう。
それで休むことに罪悪感を覚えてしまったり、休んでいる人を見ると裁いてしまったりするかもしれません。
旅行サイトを運営するエクスペディアは、世界19ヵ国の有給休暇取得率を調査しています。(https://welove.expedia.co.jp/press/40915/)
2018年の調査で日本は最下位の50%です。韓国は93%、ブラジルは100%だそうです。
有給休暇の取得に罪悪感を覚える人の割合は58%で、19ヵ国中第1位でした。
柳通りに阿里山という台湾料理の店があります。とても賑やかなお店です。特に厨房の中が賑やかです。店員同士でよくおしゃべりしています。何と言っているのかはわかりませんが、仕事と関係ないこともよくしゃべっているようです。
日本の飲食店ではあり得ない光景ですね。
勤務中に休んでいたらクレームが入ります。
警察官や消防士がコンビニで飲み物を買うだけでクレームが入る国、それが日本です。
私たちはちゃんと休む必要があるし、働く人にちゃんと休みを与える必要があります。
第3次伝道旅行の帰路で
パウロはエフェソでの騒動が収まった後、マケドニア州へと出発しました。マケドニアとアカイアの教会からエルサレム教会への献金を集めるためです。
ギリシアでは3か月過ごしました。その間にイリリコン州にも行ったり、コリント教会に滞在しながらローマ教会に手紙を書いたりしたようです。
3か月が過ぎ、シリア州に向けて船出しようとしましたが、ユダヤ人の陰謀があったのでマケドニア州を通って帰ることにしました。
この旅には各教会からの代表者も同行していました。彼らは先にトロアスに行きました。
しかし「わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し」とあります。
ここでまた「わたしたち」が登場しました。
そう、著者であるルカがフィリピから合流したのです。
これらの人々はトロアスで合流し、7日間滞在しました。パウロはその間に様々な場所で集会を行ったと思います。
週の初めの日、出発する前の晩にもパウロは集会を行いました。
パウロはエルサレムへと向かっているわけですが、そのエルサレムで苦難が待っていることを知っています。ですからトロアスの人たちと一緒に礼拝できるのもこれが最後だと感じていたのかもしれません。パウロの話は夜中まで続きました。
この集会の会場となったのは3階建ての建物の階上の部屋。これはローマ帝国内の身分が低い人向けの共同住宅だったようです。ですからここに集まっていた人たちも、身分が低い人たちだったかもしれません。
彼らはそれぞれの仕事が終わった後に集まったわけです。
疲れた体を引きずって集会に来ました。人もたくさん集まっています。たくさんのともし火がついています。薄暗く、蒸し暑く、酸素も薄くなり、ともし火の油の香りも、アロマオイルのように漂ってきます。しかもパウロ先生の話が長い。
そんな状況にいたらどうなりますか?
寝るでしょ。
集会中に寝て死んでしまったエウティコ
そこに一人の青年が来ていました。エウティコと言います。
この青年という言葉は8歳から14歳の少年を意味します。
彼も仕事が終わってきたのでしょうか。会場はもう人がいっぱいで、座る場所がありません。仕方なく、窓に腰を掛けていました。
窓辺ですから換気はよかったかもしれません。しかし体の疲れもありますし、少年にとってパウロ先生の話は難しい。そして長い!とうとうエウティコは眠りこけてしまいました。
寝るのは仕方ないでしょう。しかし場所が悪かった。窓です。しかも3階です。エウティコは下に落ちてしまいました。
集会は中断し、人々は急いでエウティコに駆け寄ります。
しかしもう死んでいました。
命を得るために集まった
だからちゃんと休みましょう。
疲れたら家に帰って布団で寝ましょう。
これは命に関わる問題です。
という話ではありません。これではどこに福音があるかわかりません。
事件には続きがあります。
パウロはエウティコの上にかがみ込み、抱きかかえて言いました。
「騒ぐな。まだ生きている。」
3階から落ちて確かに死んだはずなのに、生き返りました。
エウティコは命を得たのです。
エウティコを含め、この会場に集まった人たちは何をしに来たのでしょうか。
もちろん寝るために来たのではありません。暇だったから来たのでもありません。
なぜ疲れた体を引きずり、睡魔と闘いながらパウロの話に耳を傾けていたのでしょうか。
礼拝するためです。
キリストに出会うため、キリストの言葉を聞くためです。
彼らは命を得るために集まっていました。
言い換えれば、本当の安息を得るため、ちゃんと休むためです。
休む神
私たちの神は、休む神です。
創世記の初めに、神は6日間で天地万物を創造しました。
そして7日目にどうしましたか。
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
創世記2:2
神ご自身が休みました。
このとき既に生き物も人間も造られていました。神が休んでいる間、アダムはどうしたと思いますか?
神様を喜ばせるために賛美したり果物を収穫したりしたのでしょうか。
これは私の予想ですけど、神様と一緒に観光したと思うんです。エデンの園めぐり。
きれいな花を見たり、おもしろい動物を見たり、山や川を見たり、おいしい果物を食べたりしたと思うんです。神が造られたこの世界を喜ぶのです。6日間の仕事を振り返り、極めて良かったと、神と共に喜ぶのです。
休みを与える神
私がこのように考える根拠は、神は休みを与える神でもあるからです。
十戒の第四戒は何でしたか?
「あなたは安息日を守らなければならない」
8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
出エジプト記20:8-11
この言葉の中でいかなる仕事もしてはならないという部分だけに注目すると、ちゃんと休めなくなります。律法に縛られてしまいます。
しかし神は、私たちを束縛しようと十戒を与えたのではありません。
むしろ解き放つため、自由にするためです。
イエス様が18年間も腰が曲がったままの婦人を、安息日に癒したことがありました。会堂長は、イエス様が安息日に病を癒した、つまり仕事をしたということで腹を立てました。
彼に対しイエス様はこう答えます。
15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
ルカによる福音書13:15-16
安息日は仕事をしてはいけない日ではなく、私たちが解放される日です。
主を喜ぶことが力の源
私たちはどのように主の日を過ごすべきでしょうか。
ある牧師は、日曜日は子どもと一緒にアイスを買って帰ったと言います。
また思春期の子どもを持っていたある親は、日曜日には子どもを非難することは言わないようにしたと言います。するとその子どもは日曜日に家族と一緒に過ごすようになり、その子の友だちも一緒に集まるようになったそうです。
ネヘミヤは安息日の過ごし方をこう教えています。
9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
ネヘミヤ記8:9-10
おいしいものを食べ、主を喜び祝うこと。これが本当の安息であり、力の源です。
ただバーベキューをしてコーラを飲みなさいと言っているのではありません。
主に出会い、主を喜び祝うことが私たちの力の源です。
イエス様につながると、ちゃんと休める
イエス様は招きます。
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11:28-30
イエス様は私たちに休みを与えたいです。
その休みを得る方法は、イエス様の軛を負い、イエス様から学ぶこと。
軛を負うというのは束縛のイメージですね。矛盾しているように聞こえます。
しかし私たちがイエス様に出会うとき、本当の自分になれます。
この世での仕事の疲れも、背負っている重荷も責任も、イエス様が担ってくださいます。
学校や友だちの前、あるいは親の前でいい人を演じているかもしれないけれど、イエス様はありのままで受け入れてくれます。
こうして私たちは礼拝の度にイエス様に出会い、新しくされていきます。
ここで力を受けるから、新しい一週間を始められます。
今日も私たちはイエス様に招かれ、主の前にいます。
イエス様に出会い、イエス様の言葉を聞きに来ています。
疲れた体を引きずって来た人もいるでしょう。布団に入りたい誘惑と闘いながらオンラインで礼拝をささげている人もいるでしょう。
中には眠ってしまう人もいるでしょう。でもその眠りも、祝福です。主は愛する者に眠りをお与えになります。
家でゴロゴロ寝るより、礼拝で寝るのがいいです。
私たちがこの礼拝を終えて再び目を覚ますとき、エウティコのように主からの命を得て立ち上がることができるでしょう。
イエス様と共に、ちゃんと休みましょう。