どこから落ちたのか

どこから落ちたのか

ヨハネの黙示録 2:4-5

4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。

人の愛は永遠ではない

命かけてと誓った日から
素敵な思い出 残して来たのに
あの時同じ花を見て 美しいと言った二人の
心と心が今はもう通わない
あの素晴しい愛をもう一度
あの素晴しい愛をもう一度

 ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだった加藤和彦さんと北山修さんの曲です。
 50年以上前に発表されましたが、今も歌い継がれる名曲です。中学校の合唱コンクールなどでも歌われます。私が中学校の時にも合唱曲の1つになっていました。
 中学生の時には、愛とか歌うなんて恥ずかしいと思っていました。青春時代を過ごしていく中で、この歌詞に共感できるようになりました。
 半世紀たっても歌い継がれるのは、いつの時代も多くの人がこの歌詞に心打たれるからでしょう。
 あの初めの愛はどこに行ってしまったのか。
 出会ったばかりの頃は手作りのチョコレートをプレゼントしてくれたのに、今はスーパーのレジの横に置かれているようなチョコレート。
 残念ながら人間の愛は永遠ではありません。時がたつと冷めていきます。
 そこで愛の誓いを果たそうと意志をもって愛するときに、あの素晴らしい愛にもう一度火がつきます。

人を愛する意志を持つ

 黙示録の2章3章にはイエス様が7つの教会に書き送った手紙が記されています。

教会はイエス様に見守られている

 イエス様の右の手に7つの星と7つの金の燭台がありました。
 燭台は教会を表します。火が灯され光を放つ燭台は、聖霊の力で生きる教会を象徴しているのでしょう。
 7つの星は、その教会を担当する天使たちを表します。それぞれの教会には天使たちがいて守っているのです。
 7つの教会はどれも小アジアのあたりにありましたが、それぞれの特徴は違っています。良い面もあれば悪い面もあります。サルディス教会などは全くほめられていません。
 それでもイエス様の手の中に置かれています。
 教会はイエス様に見守られています。

教会を襲う信仰の戦い

 今日はエフェソ教会について書かれた手紙の一部を見ます。
 アルテミスという女神の神殿があったエフェソは偶像崇拝が盛んな都市でした。
 パウロは約3年間ここで伝道を続け、教会を建て上げました。
 パウロはエフェソの長老たちに、残忍な狼が入り込んで群れを荒らすと警告していました。
 その通り、異端の教えが入り込んできて教会は混乱します。
 そこでエフェソの長老たちは信仰の戦いを守り抜き、忍耐して異端の教えや間違った生活を取り除いていきました。

信仰の戦いの中で冷たくなる

 しかしそうした正しさを追い求めていくと、教会の雰囲気は冷たくなります。
 間違ったことは言えないから、お互いに上辺だけの会話になります。本音では話せません。
 人の生き方を非難し、追い出してしまう。

 エフェソ教会もやがて冷たい教会になってしまいました。
 だからイエス様は「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」と指摘します。
 そして「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」と警告します。
 燭台は教会の命の象徴。それが取りのけられたら、教会は教会でなくなります。ただ冷たい人の集まりになります。

正しさに縛られ冷たくなる

 現代も異端があります。教会に入り込んで乗っ取る異端もある。まさに群れを荒らす残忍な狼です。
 間違った教えに惑わされないようにするためには、正しい教えをしっかり教えなければなりません。
 そこで教会の歴史の中で信条や教理というものが整理されてきました。
 私たちの教会でも毎週の礼拝で使徒信条を告白しますし、ウェストミンスター小教理問答などで教理を学びます。
 しかし知識は人を高ぶらせることもあります。
 半端な知識を持つと人の間違いが目につきます。そして「お前のその考えは間違っているぞ」などと指摘するようになります。
 異端だけでなくカルト化というのも大きな問題です。私たちの教団でも代表の牧師が金銭的性的な問題を起こしたことがありました。
 そのような時に教会を守るための規則も必要です。
 しかし規則を定めると、規則通りにやらないと、マニュアル通りにやらないと気が済まない人が出てきます。
 教会を守るために教理や規則は大事ですが、それに縛られた教会は冷たくなります。

目指すところはキリスト

 パウロはエフェソ教会にこう言っていました。

13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

エフェソの信徒への手紙4:13-15

 間違った教えに惑わされないために信仰と知識の成熟は必要です。
 しかし目指すところはキリストなのです。
 真理という名のハンマーで人を殴る人になってはいけません。
 むしろ愛をもって真理を語る人を目指すのです。

愛を受け取ることで間違った生き方から離れる

 私たちが目指すところのイエス様は、どのように愛をもって真理を語られたのでしょうか。
 ある時、姦淫の現場で捕まった女性がイエス様のところに連れて来られました。
 姦淫は死に価する罪です。律法に従えば彼女を石で打ち殺すことが正しいです。

 彼女を連行してきた律法の専門家たちは、どうすべきかイエス様に聞きました。
 イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない人から石を投げなさい」と答えます。
 これを聞いた人たちは皆、立ち去っていきました。
 イエス様は彼女に「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と問います。

女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

ヨハネによる福音書8:11
ルーベンス「キリストと姦通の女」

 イエス様は彼女の罪をあえて指摘することはしませんでした。彼女は自分の罪を自覚しており、十分辱めを受けました。
 だからと言って彼女の間違った生き方をそのまま放っておくことはしません。
 イエス様の赦しを受け取ったら、もう同じ過ちは犯せなくなります。
 こんなに罪深い私がイエス様に愛されている。もうイエス様を悲しませるような生き方はできない。
 人の生き方は、石で打ち叩いても変わりません。
 愛にこそ、人の生き方を変える力があります。

愛がなくなれば教会は教会でなくなる

 私たちの教会に愛はありますか。
 「愛します。感謝します。」と口では言うけれど、上辺だけの会話になっていませんか。本当の思いを打ち明けられる温かい雰囲気はありますか。作り笑いではなく心からの喜びがあふれていますか。
 「お前のような罪人が入る場所ではない」と人を排除する冷たさを持っていないか。
 愛がなくなれば、教会の燭台をイエス様が取りのけます。
 そこにもはや聖霊の働きはありません。教会は教会でなくなります。

 確かに罪は罪。間違った教えは拒むべき。間違った生き方をしていいとは言えません。
 それでも教会は愛を貫くべきです。
 回転寿司で他人が注文した寿司を食べたり湯呑をペロペロしたりした少年たちがいました。そのようなことは絶対にしてはいけません。
 その少年たちを非難しても社会はよくなりません。
 愛することが難しい相手を、意志をもって愛するときに人が変わり社会が変わります。
 私たちが持つべきは人を殴る石ではなく、人を愛する意志です。

キリストの愛に立ち帰る

 イエス様は「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」と言います。
 初めから愛がなかったわけではありません。かつては愛があったけれど、そこから離れてしまった。
 どこで足を踏み外してしまったのでしょう。それを思い出し、立ち戻りなさい。やり直しなさいと勧められています。

イエス様と出会った頃には愛があった

 エフェソ教会には愛がありました。
 異端と戦ったのは、イエス様の福音を守ろうとしたからでしょう。残忍な狼から羊たちを守るためでしょう。
 そこには確かに神への愛と隣人への愛がありました。
 しかし愛のために戦うという目的を見失うと、ただただ冷たい正義の番人になります。
 私たちが立ち返るべきところは初めの愛。それはイエス様と出会ったあの頃の愛です。

愛と正義は両立するか

 しかし愛と正義は両立するのでしょうか。
 愛します。赦します。いいよいいよ。大丈夫だよ。
 そのように何でもかんでもいいよいいよとは言うわけにはいきません。
 愛を取れば正義が損なわれ、正義を取れば愛が冷めるのではないか。
 そのようなジレンマに陥ります。

キリストの十字架で示された愛と正義

 ではイエス様はどのように私たちに愛を示されたのでしょうか。

10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

ヨハネの手紙一4:10-11

 神様は独り子イエス・キリストを罪を償ういけにえとして遣わされた。ここに愛があると言っています。
 私たちは罪人であったにも関わらず、神様は私たちを愛してくださいました。
 私たちは神を無視し、神を捨てて生きてきた。それなのに何の罪もないイエス様が十字架で死なれました。
 神様は一方的に全面的に愛を示してくださいました。
 しかし罪を放っておくわけにはいきません。人間の罪は裁かれなければなりません。
 それでイエス様は人間の代表として十字架で死なれました。
 十字架において神様の完全な愛と完全な正義が同時に示されています。
 神は愛であり、正義のお方。イエス・キリストにおいて愛と正義は両立します。

愛を受け取り愛する者になる

 私たちはこの愛を受け取りました。
 だから何度でもやり直すことができます。私たちは何度もつまずき足を踏み外しますが、その度に初めの愛に立ち帰ってやり直すことが許されています。
 どこから落ちたのか思い起こし、愛に生きるのです。

 私たちの教会で愛を感じられないとしたら、一人一人がどこから落ちたのかを思い起こしてみてください。
 信仰生活の中で愛を受け取ったことがあるはずです。教会の交わりの中で「私愛されてる」と感じた場面があったはずです。
 その時感じたのと同じ愛を今もこの教会で感じられますか。
 もし感じられないなら、どこかで足を踏み外しています。
 また、あなたの周りの人はかつてあなたが感じた愛をあなたから受け取れているでしょうか。
 愛を受け取ったあなたは愛する人になっていますか。
 自分がされてうれしかったことを他の人にしてあげていますか。

教会でどのような時に愛を感じましたか

 私が信仰生活の中で愛を感じたことの1つは、一緒に時間を過ごすことです。
 私は大学生の時に初めて教会に行きました。それから牧師と週5で会って聖書の勉強をしたり食事をごちそうになったりしました。
 学生の私には時間がありました。牧師さんも週5で会えるんだからヒマなんだろうなと思っていました。
 そんなはずはありません。牧師もやることはたくさんあります。
 後になって、私1人のために貴重な時間を割いてくださっていたのだとわかりました。
 過ぎれば決して取り戻すことのできない人生の一部分を、牧師は私のために使ってくださいました。
 その愛を受けた時に、このような愛はこの世の愛と次元が違う。この人が信じているイエス様は本物だと感じました。

自分が愛を感じたことを他の人にもする

 自分が愛を感じたことを思い起こし、他の人にしてあげてください。

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

マタイによる福音書7:12

 自分がしてもらってうれしいことを他の人にする。これこそ聖書の極意です。
 初めの愛を受け取って、愛を行う者になってください。
 私はイエス様からやり直しのチャンスを受けた。だから私も人を赦し、何度でも、7の70倍でも、他の人にもやり直しのチャンスを与えよう。
 人にそのような愛はありません。
 まずイエス様の愛を受け取って、他の人に手を差し伸べられるようになります。
 私たちを通してイエス様の愛が流れ、人々が変えられていきます。

キリストの永遠の愛をこの世界に満たす

 教会はキリストの手の中に置かれています。イエス様の永遠の愛で愛されています。
 教会はイエス様の愛を受け取り、徹底的に愛を貫くところです。
 その愛によって教会の燭台はあかあかと燃え上がり、この世界に神の栄光を輝かせていきます。
 罪と悲惨に覆われたこの世界は怒りと憎しみで暗くなっています。
 そこに光を放つのです。
 愛によってこの世界は変わります。
 私たちは初めの愛に立ち帰り、この世界に愛を満たしていきましょう。

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